ep10/side A: 日常のつづき
区役所の守衛室の窓口は、ひどく無機質だった。 日曜日の朝、まだ街が眠っているような時間。ジャージにコートを羽織ったような格好の守衛が、眠そうに書類を受け取る。
「……はい、預かります。不備がなければ、今日付けで受理になりますので」
たった数秒のやり取り。 おめでとうという言葉も、祝福の拍手もない。 けれど、窓口を離れた瞬間の二人の足取りは、心なしか軽かった。
「……終わったね。意外とあっけない」 「手続きなんてそんなものだよ。……さあ、帰って朝ごはん食べよう」
帰り道、二人はいつものように手を繋ぎ、駅前のコンビニに寄った。 棚に並ぶ、何の変哲もない牛乳とパン。 昨日までと、景色は何一つ変わっていない。 けれど、澪の財布の中には、先ほど受け取った「受理証明書」の控えが入っている。 これさえあれば、もうあの夜の病院の廊下で、陽翔が幽霊のように立ち尽くす必要はない。
1LDKに戻ると、陽翔が慣れた手つきでコーヒーを淹れ始めた。 ミルが豆を挽く、小気味よい音。 キッチンに立ち、エプロンを締める澪の背中。
「……ねえ、澪」 「なに?」 「さっきの書類、僕の『藤原』って字、変じゃなかったかな」 「今さら? 大丈夫だよ。ちゃんと読めたし」
陽翔はコーヒーをテーブルに置き、澪の腰に後ろから腕を回した。 かつての弱気な少年は、今は「夫」という法的な鎧を纏っている。
「……僕、もうどこにも行かないよ。藤原陽翔として、ここで澪と生きていくから」 「わかってる。私もだよ。……さあ、冷めないうちに飲んで」
特別なご馳走も、シャンパンもない。 ただ、窓から差し込む冬の光の中で、二人は同じ名字の入ったマグカップを傾ける。
外の世界では、相変わらず騒々しいニュースや、他人の評価や、不確かな未来が渦巻いている。 けれど、この扉の内側では、彼らが長い時間をかけて作り上げた「名前のない家」が、今日、正当な「家族」として完成した。
「……行ってきます。藤原さん」 陽翔が、悪戯っぽく、けれど慈しむように言った。 「行ってらっしゃい。……藤原くん」
月曜になれば、二人はいつものように自分の仕事場へと向かう。 「なあなあ」で始まった関係は、最もドライで、かつ最も強固な契約によって守られ、そして明日からも、何一つ変わらずに続いていく。




