ep9/side A: 要塞の完成
入籍を明日に控えた夜、1LDKの空気は驚くほど平熱だった。 二人はダイニングテーブルに向かい合い、一枚の紙を挟んで座っている。それはかつて雑誌の付録だった「落書き」ではなく、役所の窓口で受け取ってきた、本物の婚姻届だった。
「……案外すぐ終わるね」
陽翔が、黒のボールペンを置いた。 そこには「藤原 陽翔」という新しい名前が、迷いのない筆致で書かれている。 名字を合わせることに、陽翔の抵抗は皆無だった。むしろ、自分を捨てた「藤田」という記号を捨て、澪と同じ「藤原」という枠組みに入ることは、彼にとって新しい皮膚を手に入れるような安心感があった。
「これで、もう誰にも文句は言われない。病院でも、役所でも、私の会社の保険も」 澪は、インクが乾いたのを確認して、丁寧に書類を三つ折りにした。
明日の朝、区役所の夜間・休日受付に出す。 華やかな結婚式も、指輪の交換も、親族への披露もしない。 ただ、この紙一枚を提出することで、二人の周囲に目に見えない高い壁がそびえ立つ。それは、世間という荒野から自分たちを切り離すための、最後の要塞だった。
「……ねえ、澪。明日から、何が変わるのかな」 「何も変わらないよ。……ただ、これからは誰かが私たちを引き離そうとしても、法律がそれを許さない。それだけ」
陽翔は、澪の手を引き寄せ、自分の頬をその掌に埋めた。 かつての「姉弟ごっこ」は、明日、社会的に公認された「不可侵のユニット」へと昇華される。 それは情熱というより、静かな共犯関係の完成だった。




