ep8/side A: 防御のための契約
きっかけは、会社の福利厚生に関する説明会だった。 二十八歳の澪は、社員向けの「慶弔見舞金」や「緊急連絡先」の規定を読み直しながら、ある種の不合理さを感じていた。
「……結婚、してないの?」
昼休みに、同僚の女性から何気なく聞かれた。 「パートナーとは住んでるけど、籍は入れてないよ」 「ええ、不便じゃない? 手術の同意書とか、もしもの時、赤の他人扱いだよ。親御さんを呼ばなきゃいけなくなるし」
その言葉が、耳の奥にこびりついて離れなかった。 赤の他人。 十数年、誰よりも濃密な時間を共有し、互いの不在を埋め合ってきた陽翔と自分が、システムの上では「存在しない関係」として処理される。
残業を終え帰宅する直前。 陽翔が、仕事中にひどい立ちくらみを起こして救急外来を受診したという報告を受けた。
「……大したことなかったよ。ただの寝不足だって」 ソファで力なく笑う陽翔の顔色を見て、澪は静かに、けれど逃れようのない恐怖を感じた。もし、今日運ばれたのがもっと深刻な事態だったら。自分が病院へ駆けつけても、受付で「ご親族ですか?」と問われ、母・美奈子の時のように、あるいは二軒隣に住んでいた頃のように、扉の外で待たされるだけなのではないか。
「陽翔」 「ん?」 「……籍、入れようか」
夕食の片付けをしながら、澪は背中を向けたまま言った。 陽翔は驚くこともなく、ただ少しだけ目を瞬かせてから、ゆっくりと頷いた。
「……うん。僕も今日、病院で思った。連絡先に、なんて書けばいいか迷ったんだ」 「そうでしょ。いちいち『事実上の配偶者です』なんて説明するの、コストがかかりすぎるもの」
二人の会話には、甘いムードは一切ない。 それは、セキュリティソフトの契約を更新するか、家の鍵をより強固なものに付け替えるか、といった種類の相談に似ていた。
「籍を入れておけば、会社の住宅手当も増える。陽翔が倒れた時も、私が全部決められる。……外からの干渉を、全部シャットアウトできるよ」 「……うん。それが一番いい。僕たちの関係を、外の人間に説明しなくて済むのが、一番助かる」
陽翔は立ち上がり、以前、澪が「預かっておく」と言って本に挟んでいたあの付録の婚姻届を持ってきた。 そこには、かつて二人で書いた鉛筆の落書きが、薄く、けれど消えずに残っている。
「これ、書き直さなきゃね。鉛筆じゃ受理されないし」 「そうだね。ちゃんとしたやつ、明日取ってくる」
二人は、並んで座った。 愛しているから結婚するのではない。 この閉じた、静かで完璧な1LDKの平穏を、国家という巨大なシステムを利用して「要塞化」するために、彼らは書類を交わすのだ。
「……澪。これで、誰にも文句言われないね」 「ええ。私たちは、ただの『夫婦』。一番無難で、最強の肩書き」
陽翔が澪の肩に頭を預ける。 澪はその重みを感じながら、心の中で美奈子に呟いた。 ――お母さん、私は選んだよ。あの子を一人にしないための、一番効率的な逃げ道を。
外側から見れば、それはただの手続きに過ぎない。 けれど、二人にとっては、世界を相手に引き直した、最後にして最大の境界線だった。




