ep7/side A: 廊下の境界線
深夜の電話は、いつだって不吉な予感を連れてくる。 受話器の向こうで、母・美奈子の同僚だという看護師が、事務的な声で美奈子の入院を告げた。仕事中の転倒による、軽い骨折。命に別状はないが、緊急の手術が必要だという。
「……すぐ行く。陽翔、鍵」 「車出すよ。待って」
二人は夜の道を、ほとんど無言で病院へと急いだ。 到着した深夜の救急外来。消毒液の匂いが鼻を突く。受付の窓口で、澪は震える手で書類を書いた。
「藤原美奈子の娘です」 「……はい、確認できました。では、こちらへ」
澪が促されるままに自動ドアを通り抜けようとした時、その背後で、陽翔が看護師に呼び止められた。
「あ、すみません。ここから先はご親族の方のみで」
陽翔の足が、止まる。 彼は戸惑ったように澪を見て、それから看護師を見た。
「……僕は、その。家族……のようなもので」 「申し訳ありません。規定ですので」
そのやり取りを、澪は自動ドアの内側で見ていた。 子供の頃、母がいない夜、二人はいつも同じ廊下で待っていた。鍵を持っていない陽翔を、澪が自分の家へと招き入れた。けれど、大人の社会という巨大なシステムの前では、澪には彼を「招き入れる」権限がなかった。
手術が終わるまでの二時間。 澪は病室の横の椅子で、陽翔は病院の硬いロビーのベンチで、離れ離れになって過ごした。
明け方、手術室から病室にようやく移された美奈子は、麻酔から覚めた顔で横たわっていた。 「……澪。ごめんね、驚かせて」 「いいよ。陽翔も来てるけど、中には入れなかった」
美奈子は、苦笑いとも、諦めともつかない顔で天井を見上げた。かつて「逃げ道を作っておきなさい」と言った彼女は、今、システムの一部として、あるいはその被害者としてそこにいた。
「……あんたたち、まだ『姉弟ごっこ』を続けるつもり?」 「ごっこじゃないよ。私たちは……」 「わかってる。でもね、病院じゃ、名前が同じじゃない人間は存在しないも同然なのよ。……陽翔くんを、いつまであんな寒い廊下に立たせておくの」
帰り道、朝焼けに染まる国道を走りながら、陽翔がポツリと言った。
「……さっき、ロビーで座ってたらさ。自分がどこにも属してない幽霊になったみたいな気分だった」 「陽翔」 「僕たちは、お互いのことを全部知ってるのに。……あの看護師さんにとっては、僕はただの通りすがりの他人なんだね」
澪は、陽翔の横顔を見た。 彼は傷ついたというより、ひどく冷めた目で前方を見つめていた。 自分たちの「聖域」は、一歩外に出れば、これほどまでに脆い。 冷たい断絶。
「……ごめんね、陽翔。待たせて」 「いいよ。……でも、次はもう、あそこにいたくない」
二人の間を流れる空気は、これまでになく静かで、重かった。 内向きの論理で済ませてきた関係の限界が、静かに、けれど確実に近づいていた。




