intermission: 冷たいドアノブの記憶
午前三時。風が窓の隙間から、吊るされた男女の制服をかすかに揺らす。静まり返った澪の部屋に、ひどく浅く、震える呼吸の音が響いた。
「……あ、……ぁ、……」
隣で眠っていた陽翔が、シーツを掴んで身悶えている。 澪はすぐに目を覚まし、体を起こした。月明かりに照らされた陽翔の額には、びっしょりと冷たい汗が浮いている。彼はまだ、夢の残滓の中にいた。
「陽翔、起きて。大丈夫だよ、ここにいるから」
澪がその細い肩を揺すると、陽翔は弾かれたように目を見開いた。焦点の定まらない瞳が、激しく泳ぐ。 彼はそのまま、狂ったように澪の腕に縋り付いた。骨が軋む。澪は顔色一つ変えず、その衝撃を受け止める。
「……また、あの夢?」 「……うん。……誰もいないんだ。家に帰っても、鍵が、開かなくて。いくら叩いても、中から誰も出てこないんだよ。僕の家なのに、僕の場所じゃないみたいに……ドアノブが、ずっと、凍るみたいに冷たくて」
陽翔の声は、子供の頃のように掠れていた。 彼が見る悪夢は、いつも同じだ。 夕暮れの廊下。閉ざされた玄関。どれだけ叫んでも帰ってこない父親。自分を置いて消えた母親の、最後に見た後ろ姿。 それは「過去」ではなく、今もなお、足元に空いている巨大な「穴」だった。
「……僕のこと、捨てない?」 「捨てないよ」 「嫌いにならない?」 「ならない。……ねえ、陽翔。こっちにおいで」
澪は、自分の中に潜り込もうとする陽翔を、布団の中に迎え入れた。 高校生の男女が同じ布団に潜り込む。そこには性的な熱量よりも、もっと原始的な、凍え死にそうな二人が一つの火を囲むような必死さがあった。
陽翔の鼻先が、澪の首筋に押し付けられる。彼女の体温、石鹸の匂い、脈動。それだけが、彼を現世に繋ぎ止める唯一の命綱だった。
「……澪がいなくなったら、僕、たぶん消えちゃうと思う」 「消えないよ。私が捕まえてるから」
澪は、陽翔の頭を優しく、一定のリズムで撫で続ける。 その指先は温かいが、彼女自身の瞳は、どこか遠くを見つめていた。 澪もまた、知っているのだ。 陽翔が自分に縋れば縋るほど、自分の中の「空っぽな部分」が、彼という重みで満たされていくことを。
陽翔に必要とされることで、澪は自分の存在を肯定していた。 彼が壊れそうなほど、自分は強くあれる。 彼が孤独なほど、自分の居場所は確かなものになる。 「優しさ」などという綺麗な言葉で呼べるものではない。お互いの欠損を、パズルのピースのように無理やり噛み合わせ、血を流しながら繋がっている、歪な共生。
「……ごめんね、澪。僕、変だよね」 「変じゃないよ。私たち、二人で一人分なんだから。……誰にも分からなくていいの」
陽翔の呼吸が、ようやく安定し始める。 彼は澪の胸元に顔を埋めたまま、深い眠りへと落ちていった。
澪は、寝入った陽翔の睫毛を見つめながら、かつて母・美奈子が言った言葉を思い出す。 ――「あんたの人生を、あの子の寂しさを埋めるためだけに使い切っちゃ駄目よ」
けれど、澪は暗闇の中で小さく首を振った。 寂しさを埋めているのは、私の方でもあるのだ。 外の世界には、誰もいない。家の中にも、誰もいない。 この閉じた部屋の、この狭い布団の中だけが、世界のすべて。
「……おやすみ、陽翔」
彼女は、自分を蝕むような心地よい重みを抱きしめ、再び目を閉じた。 夜明けまで、まだ時間はたっぷりある。 「幸福」は、誰にも邪魔されることなく、暗い部屋を満たしていた。




