表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
名前のない家  作者: ねけば
memories ~生存~
1/19

ep1: 青い部屋の静寂

放課後の部屋には、静寂という名の膜が張っていた。夕暮れの青い光が、白く薄いカーテンを透かして床に長い影を落とす。


女子校の制服のまま、澪はベッドの縁に腰を下ろしていた。その足元には、中学生の陽翔が座り込んでいる。彼は澪の膝に顔を埋め、まるで母親を探す幼い獣のように、彼女のスカートの生地を指先で弄んでいた。


「……今日、誰か来る?」  陽翔の声は、澪の太腿越しにこもって聞こえた。 「お母さんは夜勤。陽翔のところは?」 「また、泊まりだって。明日の夜まで帰ってこない」


そう。だから、ここにいる。  この家には、誰もいない。隣の家にも、誰もいない。  この集合住宅のどこかに他人の生活の音は響いているはずなのに、二人の周囲だけは真空のように音が吸い込まれていた。


「ねえ、澪。……こっち向いて」


陽翔が這い上がるようにして、澪の首筋に顔を寄せた。彼の呼吸が、澪の薄い皮膚を叩く。石鹸の匂いと、まだ幼さの残る男子中学生特有の熱。


澪は拒まない。むしろ、吸い寄せられるように彼の髪に指を差し入れた。

これは「姉弟ごっこ」だ。

自分たちは、ただ孤独を埋め合っているだけ。そう自分に言い聞かせながら、澪の手は陽翔の背中を、制服のシャツ越しにゆっくりと撫で下ろす。


「……苦しいよ」 「何が?」 「心臓。……澪に触ってると、ここだけが熱くなって、他が全部冷たくなる」


 陽翔の手が、澪の細い腰に回る。  それは、弟が姉を慕う抱擁にしては、あまりに力がこもりすぎていた。  澪は、陽翔の熱にあてられたように目を閉じる。二人の間に横たわるのは、恋愛という華やかな感情ではなく、もっと泥臭く、生存に直結した「渇き」だった。


親の不在。冷めた食卓。鍵の閉まった玄関。  それらすべてを忘れるために、二人はお互いの肌の温もりを、麻薬のように吸い込む。


陽翔が澪の鎖骨に唇を押し当てる。  澪はわずかに吐息を漏らし、彼の後頭部を抱き寄せた。  このまま、溶けて混ざり合ってしまえばいい。そうすれば、明日また誰もいない部屋に帰らなくて済む。どちらかがどちらかの体内に消えてしまえば、孤独という言葉は意味をなさなくなる。


「……ねえ、陽翔。私たち、いつかバチが当たるかもね」 「いいよ。……二人で一緒に地獄に行けるなら、それで」


陽翔の瞳には、狂気にも似た絶対的な肯定があった。   やがて、完全に日が落ちた。  電気も点けず、暗闇の中で重なり合う二人のシルエット。    もしこの時、夜勤明けの母親が不意にドアを開けていたら。  娘の背中を、必死に、そしてどこか陶酔したように掴んでいる少年の手を見ていたら。  彼女はきっと、自分の娘が「守っている」のではなく、共に深い穴へ落ちていこうとしていることに気づき、震え上がっただろう。


 けれど、この夜も部屋は静かだった。  二人はただ、名前のない不純な温もりの中で、泥のような眠りに落ちていった。  外の世界には、もう誰もいないと信じ込みながら。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ