ep1: 青い部屋の静寂
放課後の部屋には、静寂という名の膜が張っていた。夕暮れの青い光が、白く薄いカーテンを透かして床に長い影を落とす。
女子校の制服のまま、澪はベッドの縁に腰を下ろしていた。その足元には、中学生の陽翔が座り込んでいる。彼は澪の膝に顔を埋め、まるで母親を探す幼い獣のように、彼女のスカートの生地を指先で弄んでいた。
「……今日、誰か来る?」 陽翔の声は、澪の太腿越しにこもって聞こえた。 「お母さんは夜勤。陽翔のところは?」 「また、泊まりだって。明日の夜まで帰ってこない」
そう。だから、ここにいる。 この家には、誰もいない。隣の家にも、誰もいない。 この集合住宅のどこかに他人の生活の音は響いているはずなのに、二人の周囲だけは真空のように音が吸い込まれていた。
「ねえ、澪。……こっち向いて」
陽翔が這い上がるようにして、澪の首筋に顔を寄せた。彼の呼吸が、澪の薄い皮膚を叩く。石鹸の匂いと、まだ幼さの残る男子中学生特有の熱。
澪は拒まない。むしろ、吸い寄せられるように彼の髪に指を差し入れた。
これは「姉弟ごっこ」だ。
自分たちは、ただ孤独を埋め合っているだけ。そう自分に言い聞かせながら、澪の手は陽翔の背中を、制服のシャツ越しにゆっくりと撫で下ろす。
「……苦しいよ」 「何が?」 「心臓。……澪に触ってると、ここだけが熱くなって、他が全部冷たくなる」
陽翔の手が、澪の細い腰に回る。 それは、弟が姉を慕う抱擁にしては、あまりに力がこもりすぎていた。 澪は、陽翔の熱にあてられたように目を閉じる。二人の間に横たわるのは、恋愛という華やかな感情ではなく、もっと泥臭く、生存に直結した「渇き」だった。
親の不在。冷めた食卓。鍵の閉まった玄関。 それらすべてを忘れるために、二人はお互いの肌の温もりを、麻薬のように吸い込む。
陽翔が澪の鎖骨に唇を押し当てる。 澪はわずかに吐息を漏らし、彼の後頭部を抱き寄せた。 このまま、溶けて混ざり合ってしまえばいい。そうすれば、明日また誰もいない部屋に帰らなくて済む。どちらかがどちらかの体内に消えてしまえば、孤独という言葉は意味をなさなくなる。
「……ねえ、陽翔。私たち、いつかバチが当たるかもね」 「いいよ。……二人で一緒に地獄に行けるなら、それで」
陽翔の瞳には、狂気にも似た絶対的な肯定があった。 やがて、完全に日が落ちた。 電気も点けず、暗闇の中で重なり合う二人のシルエット。 もしこの時、夜勤明けの母親が不意にドアを開けていたら。 娘の背中を、必死に、そしてどこか陶酔したように掴んでいる少年の手を見ていたら。 彼女はきっと、自分の娘が「守っている」のではなく、共に深い穴へ落ちていこうとしていることに気づき、震え上がっただろう。
けれど、この夜も部屋は静かだった。 二人はただ、名前のない不純な温もりの中で、泥のような眠りに落ちていった。 外の世界には、もう誰もいないと信じ込みながら。




