第二話:運命との戦い
瞬間移動のわずかな浮遊感と、鼻腔をくすぐる古い紙と薬草の匂いが落ち着いたとき、クロエは玉座の間とは対照的な、静かで広大な円形の部屋に立っていた。これが魔塔、ゼノスの私室らしい。
クロエの心臓はまだ早鐘を打っていたが、真っ先に頭に浮かんだのは、自分のことではなかった。
「……父様は、大丈夫でしょうか。私が王宮から姿を消したことで、アルジェント公爵家が王太子殿下の怒りを買い、罪に問われたり……」
父や家族の安否を尋ねるクロエに、ゼノスはさっきまでとは打って変わって、巨大な書架の前で興味なさそうに古びた書物を手に取っていた。
「ああ、そんなの気にしなくて良いさ」
彼は振り向きもせず、軽薄な調子で言った。
「君の家や、あの王太子殿下の気分なんて、この世界の『物語』の脇役にもなれないよ。大丈夫、良い塩梅に解決するさ」
ゼノスは書物を放り投げると、ようやくクロエの方を向き、その金色の瞳を細めた。軽薄な笑みはそのままに、その瞳の奥には、無邪気なまでの純粋な探求心に満ちた強い光が宿っていた。
「そんなことよりも、君は一体、何処まで知っているんだい?」
クロエは即座に答えることを逡巡した。目の前の魔塔の主が、自分が知り得る世界の真実をどこまで知っているのか、あるいは知らないのか、その判断が、今後の自身の運命を左右することは明白だった。もし、彼を失望させるような答えをすれば、この庇護はすぐに終わり、自分は再び創造神の筋書き――破滅の道へと戻されるだろう。
(だが、この男は、私をこの場から消し去った。この世界の法則から外れた力を持つ。ならば、私が持つ最も異質な事実を切り札にするべきだ。)
クロエは意を決し、金色の瞳を見つめ返した。
「私……クロエ・アルジェントじゃありません」
その告白に、ゼノスは僅かに眉を上げた。好奇心に満ちた彼の瞳が、クロエの全身を舐めるように見つめる。
「ほう?」
「私はクロエ・アルジェントに憑依してるんです」
告げた瞬間、肩の力が抜けるのを感じた。
クロエの言葉に、ゼノスは満足したような笑みを唇に刷いた。その笑みは、まるで「よく言った」と褒める教師のようであり、「これで、ようやく本題に入れる」と愉しむ研究者のようでもあった。
「素晴らしい。やはり君は、予測不能な変数だ。それが分かっただけでも、君を連れてきた価値があったというものだ」
ゼノスは満足げに笑った後、「物語の周回」について尋ねようと口を開きかけた。しかし、クロエがそれを遮った。
「その前に一つだけ。私の幼馴染であり、護衛騎士だったユーリの身に危険は及んでいませんか?」
ゼノスの金色の瞳から、一瞬にして知的な好奇心が薄れた。彼はわずかに唇の端を下げ、面白くなさそうな表情を見せた。
「ほう。彼が君の過去の記憶と現実を繋ぐ鍵かね?」
ゼノスは再び軽薄な笑顔を貼り付け、その瞳には嫉妬の光が宿っていた。
「心配しなくていいさ。彼は今、私よりも遥かに君の愛欲に飢えているだろうさ。婚約者を奪われた貴族の男など、酒と女で慰められ、すぐに君のことなど忘れるよ」
クロエはゼノスのその言葉に、はっきりと顔を曇らせた。
「彼はそんな不真面目なことは思いません! ユーリは公爵家という立場に溺れた両親や、王太子殿下とは違う。真面目で純朴な、私の本当の幼馴染です」
クロエの真剣な反論に、ゼノスの軽薄な笑みが消え、一瞬、冷たい怒りがその顔をよぎった。
(面白くない。私の世界の法則を知る、唯一の存在が、私以外の、取るに足らない存在に心と感情を向けている。この感情は……孤独な周回への恐怖か、あるいは純粋な独占欲か?)
ゼノスは自分の内なる執着を自覚しつつ、それを抑えることをやめた。
「ふむ……君の真面目さは評価しよう、クロエ嬢」
彼はそう言うと、素早く距離を詰め、クロエを抱き上げ、書庫の巨大な机の上に座らせた。驚きに目を見開くクロエの顎を、優雅な指で固定する。
「だが、君の瞳に映るのは、私だけで十分だ。他人の純朴さなど、私が与える愛の前では、すぐに霞むことを教えてあげなくてはならないね」
ゼノスはそう宣言し、彼女の唇に、支配的で熱烈なキスを深く落とした。それは、彼自身の孤独な恐怖を、クロエの愛で塗りつぶそうとする、自分勝手な愛欲に満ちた、最初のラブゲームの始まりだった。
混乱して、すっかりゼノスのことだけに意識を向けるようになったクロエに、ゼノスは満足げな表情を浮かべる。
(そう。彼女は他の男のことに気を取られるべきではない)
「悪いね、クロエ嬢」
彼はそう囁くと、自分の口づけで赤く色づき、わずかに腫れたクロエの唇を、優雅な指でそっとなぞった。その謝罪の言葉はひどく形式的で、一切の誠意が感じられなかった。
「退屈な思考の後に、刺激的な身体の確認作業は必要不可欠だ。君の動揺が、この世界のバグとしてどう作用するか、データを取りたかったんだよ。それに、君の瞳が、私以外の存在に熱を向けるのは、大変面白くない」
ゼノスはそう言い切ると、机の上からクロエを優しく抱き下ろし、まるで何事もなかったかのように、書架に向き直った。
「さて。ラブゲームはこの辺でいいだろう。君の『貞節な心』が、私の『愛の衝動』を再び刺激する前に、本題に戻ろうか」
ゼノスはクロエをまっすぐ見つめた。その金色の瞳は、先ほどの熱狂を湛えながらも、今は知的な探求の光を帯びていた。
「君が憑依する前の世界で、ラベンダー・キャンベルの小説はどんな物語だったんだい? そのプロット、主要な登場人物、そして――その物語が終焉を迎える『エピローグ』を、詳細に教えてくれるかい?」
ゼノスの鋭い問いかけは、クロエの混乱を打ち破り、「運命との戦い」という現実へ彼女を引き戻した。




