沈めた傷の破片が軋む
「ミラは……俺のせいで傷を負いました」
底が見えないほど深い静寂の中、落とされた言葉。
ミラはのろのろと顔を上げる。
(エル兄は一体なんのことをいっているの? )
漆黒の瞳が、当時の憤りや無力感を燃え上がらせていた。
エルンストが本気でそう思っていると頭のどこかで理解した。
ノアもロイドも、微動だにしない。
「ミラはラスフィ公子の言う通り、小さい頃から優秀で、とびきり良い容姿で、目立って仕方がなかった。また、彼女の両親が『傾国のオーキッド』だということも拍車をかけて、辺境の貴族たちの注目を浴びることになりました」
「えっ?! 本当にミラちゃんってレイナ・ラグナスとカイル・オーキッドとの娘なの?! 学院の伝説の?!」
ロイドがわざわざ上半身を起こし、エルンストに体ごと向けた。
「はい。未だに王家から、辺境に引きこもったオーキッド家を社交界に戻すよう求める書簡が、我が家に届きます」
「はぁーあの噂は真実だったんだー」
両親がそんなに有名だとは初耳だ。
だが、エルンストの言葉が、頭をぐるぐる回って仕方がない。
(この傷はエル兄のせいなんかじゃない……私がダメだったから……)
先程からじりじり熱を持ったように痛みが増す右眉と右手の傷。
ミラは傷を重ねるように、右手で眉を押さえる。
その時、焦れたように冷淡な声が飛ぶ。
「アルドワ令息。早く本題を」
ノアの声に、エルンストは一瞬だけ目を眇め、記憶を手繰り寄せるように、言葉を選んだ。
「ミラが私の婚約者候補となることで、その注目がさらに激化しました。自分でいうのもおこがましいのですが、辺境伯家の伴侶といえば……」
「地位も名誉も最高の結婚相手だよね。しかもその相手は男爵家の令嬢で、玉の輿だ」
言いにくそうなエルンストの言葉を、ロイドが補足する。
「……はい。表立っての反感は無かったのですが、ミラに対しての風当たりは強かった。その中でも、フール伯爵夫人がとある事情もあり、ミラだけにあからさまに攻撃をするようになりました」
「フール伯爵夫人?」
ノアが訝しげに繰り返した。
瞬間、心臓を鷲掴みにされたような痛みがミラの胸に走る。
『フール伯爵夫人』
ミラの意識が過去の事件へ、ずるずると崩れ落ちていく。
エルンストは白くなるほど拳を握りしめ、絞り出すように言葉を紡ぐ。
「彼女はかつてミラの父に想いを寄せており、その未練からミラの母に強い敵意を抱いていました。自尊心を満たすため、ミラの母に対抗しようと、娘を私の婚約者にしようとしたのです。しかしミラが選ばれたことで、フール伯爵夫人はついに矛先をミラに向けました」
エルンストの声が耳をすり抜けていく。
『子供を拾ってきてまで、辺境伯家に取り入る売女がっ! 顔だけレイナのくせに!』
あの日、剥き出しに投げつけられた悪意を、言葉にとして現実にかたちづくられる。
冷たい汗が、どっと吹き出る。
(もう知ってる! わかっているから! )
乱暴に掴まれた髪が引きちぎられる痛み。
金属の擦れる鈍い音。風に舞い散上がる白髪が。
かつて心を蹂躙した記憶が、怒涛のごとく押し寄せる。
知らずに呼吸も浅く荒くなる。
手や足から血の気が失せ、感覚があいまいだ。
「ミラが6歳の誕生日の日、フール伯爵夫人は彼女の髪を無理やり切り落とし、目を潰そうとまでしました。ミラはとっさに手でかばって目は守ったものの……結局、右手と顔には、今も消えない傷が残されました」
エルンストはついに力なく俯き、小さな声で会話を結ぶ。
「ですので、ミラが傷を負ったのは……事情を知っていたくせに……守りきれ無かった……俺のせいなんです」




