見つけた
「それでよ。うちの孫に小遣いやるために船に乗ろうってのに。この雨だろ?」
「……波も出て、出航の準備が遅れているみたいですね」
「いつになるのか……」
日の昇らぬうちにラスフィ公爵家を抜け出し、現在ミラは、王都の東の端にある港に来ていた。
朝一番出航予定の、かなり稀少な東国行きの船に乗るために。
だが、昨夜から続く雨によって海が荒れ、雨足の強さで荷物の運び込みも遅れ、かれこれ1時間ほど足止めされている。
未だ出航のしらせはなく、港を見渡せる食堂で同じ便の乗客とその時を待っていた。
早朝の店内は、出立を待つ乗客と休憩する船員たちでごった返している。
奥の席で1人腰掛けていたら、セルゲイと年が同じくらいの男性に相席を頼まれ、彼の身の上話に耳を傾けていた。
ただ待つだけの時間がもどかしく、途切れた会話の合間に、雨粒が滴り落ちる窓から港をつい眺めてしまう。
外套をずぶ濡れにしながら、ガタイの良い船員たちが木箱を船へ運び入れている。
(……この船に乗りさえすれば、婚約破棄できる)
雨で濁った波を受けても、全く揺らぐことなく浮かぶ3本マストの大きな帆船。
初めての船旅、初めての外国に連れ立つ相棒として頼もしいことこの上ない。
だが裏腹にミラの手足は冷え切り、乗船すらしていないのに、足元がどこか揺れているような心地だ。
すり、と指先を無意識にこすり合わせる。
「なあ! 坊主は何歳になったんだ?」
正面の男性があっけらかんと聞いてきた。
今のミラの格好は乗馬服の上に外套を羽織り、帽子の中に長い髪をかくしている。
少女が大きなボストンバックを持ってうろついていたら、警邏隊へ通報されるかもと考えて変装したのが。
目論見通りに少年と言われたが、どうにも釈然とせず、返事が遅れた。
「……今年で13歳になりました」
「そんな小さいのに1人で故郷の母に会いに行こうなんてえらい! うちの孫は25だが、未だに部屋から出てこなんでなー」
「お部屋が好きなんですね……」
「はは! そうとも言うな!」
ひとり旅の目的を感動的にしてしまったために、やけに男性からいたわられている。
ご主人様との婚約から逃げ出したと言えない。
そんなことを言ったところで、理解されないだろうとも。
曖昧に笑いながら、ミラは頼んだままになっていた紅茶をすすった。
己の心の根っこには、すべてを捨ててでも、ノアにはただ幸せであってほしい、という願いがある。
いつの間にか、ご主人様への思いは、恩と願いがこじれて膨らんでいる。
正直、この想いは自分でもよくわからない。
崇めたいわけじゃない。けれど、ただ、失いたくなかった。
だから、将来は乳母になり、一生そばにいたかった。
(一生、彼のそばにいれば、私はミラ・オーキッドでいられたから)
ノアに出会うまでは、自分が私じゃないように思っていた。
空虚で、1枚膜を隔てた世界を、見ていた感覚だった。
だからこそ、3年前のあの日、ノアが日本語で呟いた日を忘れられない。
目があった瞬間、『銀髪ロリメイドたん滾るんだが?』と早口なのも内容と相まって衝撃だった。
(ノア様のおかげで、私は本当の『ミラ・オーキッド』になれた)
彼が必要としてくれるから、ここにいていいのだと思えた。
ご主人様が名前を呼んでくれるたびに、自分の輪郭は鮮明になった。
寝れない彼のために作ったホットミルク。
夜に怯える彼の手を握り、夜通し交わした他愛のない会話。
屋根裏部屋を抜け出して、二人でこっそり見上げた満月や流星群。
あれは全部、ノアのためだけじゃなかった。
(私が、してほしかった……)
温かいミルクを誰かと飲みたかったのも。
不安な夜に誰かと話したかったのも。
綺麗なものを誰かと共有したかったのも。
突然知らない世界に放り込まれた自分が確かめたかったのだ。
⸺変わらないものが存在する、と。
彼を慰めているつもりで、救われていたのはミラの方。
それなのに、救おうとしてくれたノアからも逃げようとしている。
無意識にポケットに忍ばせた懐中時計を服の上から握りしめる。
『前向きに逃げたっていいんじゃないかな?』
満月の夜に受け取ったノアからの優しさを秘めた力強い言葉⸺
(前向きだから、逃げていいんですよね、ノア様? )
心の中で問いかけた、その時。
「東国行きの乗船を開始する! 乗客はタラップへ急げッ」
船員の大声が店内に響き渡る。
どうやら出航の準備が整ったらしい。もう雨は弱まり、遠い空の雲間には朝日の柱がさしている。
「おっ、やっとか! 行くぞ坊主」
「……はい」
老人がいそいそと席を立つ。ミラもボストンバッグを握りしめ、立ち上がった。
これで逃げられる。
我先にと乗船しようとする乗客達の間を縫いながら、ミラが船着き場へ一歩踏み出した瞬間。
周囲中の人間がざわめき出す。
轟音ともいえる乱暴な馬の蹄の音が、一直線にこちらに向かっている。
「おいおいなんだぁ?」
老人がのんきに振り返る脇で、ミラは凍りついた。
人々の隙間から、視界に飛び込んできた、雄々しい黒馬に見覚えがあった。
「は? おいっ! こっちに……来てる?!」
石畳を叩く荒々しい音が目前に迫り、黒馬がミラの目の前で高く嘶いて急停止する。
飛び散る泥水と、圧倒的な威圧感。
「の、あ様……?」
逆光の中、馬上で肩で息をする人影が美しい顔を歪めている。
泥だらけの服。雨で濡れそぼった銀髪がはり付いている。
感傷など、一瞬で吹き飛んでしまった。
「…………みつけた」
変装なんて、何の意味もなかったのか。なぜだか、ゾクリと背筋が寒い。
昏く揺れるアメジストの瞳が、迷うことなくミラだけを射抜いていた。




