さようなら
「え?」
机の上に鎮座する木彫りの黒馬に、半信半疑で駆け寄っていく。
やはり近づくごとに既視感しかない。むしろこんなものを令嬢の部屋に飾るセンスを疑う。
ミラは恐る恐る馬の置物を持ち上げ、上から下から色んな角度で眺めていく。
今にも駆け出しそうな雄々しい黒馬。たてがみがチャームポイントだと聞いた。そして確か台座の下に。
『ミラちゃん誕生日おめでとう!』
「あった! これ私の?!」
馴染みのジュース屋から誕生日に贈られた、彼手彫りの黒馬像だ。
ごくりと喉が鳴る。それから嫌な予感に突き動かされように、勢い良くクローゼットを開けた。
「メイド服?! あ、置いてったワンピースまでかかっている……」
そこには、きちんと畳まれた特注のミラサイズのメイド服と、ミラが屋敷の自室に置いていった服の数々がかかっている。
わんさかかけられたドレスやワンピースの中で異彩を放っているものだから、ひとめで見つけられた。
(ど、どういうこと? いつの間にか引っ越しされていたってこと? )
「あ、見られちゃったんだ!」
いつの間にかマインが後ろに立っており、扉からは、ラスフィ公爵家の主治医が続く。
「マイン……説明してください……」
したり顔したマインがすっと背を伸ばし、礼をする。
「私、マイン・ルービン。将来ミラ・オーキッド様にお仕えするよう雇われた専属侍女です」
「は? ルービンって伯爵家?!」
「ふふふ。これからはミラお嬢様ってお呼びいたしますね?」
いたずらが成功したようにマインが笑う。
気のおけない同僚に尋ねたら、さらに状況が複雑化した。
「呼ばなくていいから説明! 説明に飢えてるよ私!」
マインに駆け寄り体を揺さぶるが、「まずは先生に診てもらいなさい」とはぐらかされた。
所在なさげに佇んでいた主治医に診察され、異常なしと言い渡された。
最後に彼からは頑丈な体だねと褒められた。
控えたマインが忍び笑いしていたのは忘れない。
そんなマインだが、ミラの専属侍女というだけあってとても優秀だった。知っていたが。
診察後すぐにミラを風呂へ案内し、ミラの体中をもこもこの泡まみれにしながら洗ってくれた。
しかもバラを浮かべた湯も用意され、香油も塗りたくられた。
「これよ! こういうお世話が侍女の腕の見せどころなの!!」
「やっとお嬢様のお世話できる! たのっしい!!」
腕を捲くって参戦した侍女長とマインの気持ちに同調しつつ、ミラはもうされるがままだ。
ふたりがかりで前のめりのお世話をされたミラはそのままベッドへ押し込まれた。
「ん? くわしい説明は?」
気がつけば、ベッドに横になっていた。
かろうじてマインが出ていったのは覚えているが、気持ち良すぎて入浴途中の記憶がない。
体は疲れているが、浮かんだ疑問にひきずられて目が冴えてしまった。
ぼんやりと薄暗い中、ぽたりぽたりと雫が降る音が聞こえる。
ベッドからゆっくりと足を降ろし、仄かな明かりを放つ窓際へ歩み寄る。
窓から空を仰ぐと、満月を隠すように銀糸のような雨が降り落ちていた。
馬車から降りたときには輝く月が見えていたのに。
窓には、ネグリジェを纏う眉を不安気な少女の姿が映っていた。
「ノア様と……私が婚約?」
必死に押し隠していた不安が頭をもたげる。
こんな訳ありで傷ものの自分なんかが、「ノア・ラスフィ」の隣に並びたてるのか。
途端に、こちらを見つめる菫色の宵闇に金色の月が写りこんだような瞳が揺れる。
⸺『尊き色』
未だに自分の色彩がもつ意味が信じられないのだ。
けれど、アルヴィンのあの狂気や狂信者とノアが断じる元老院の存在は無視できない。
元々の身分差だけでなく、尊き色を持つ自分がそばにいることが彼の弱点になる可能性は?
尊き色が王家の縁戚しか知らない伝承だとしても、狂信者たちが黙っているのか。
いずれにしても隠すことなど不可能だ。
もし再び自分を助けるために、ノアが自身を傷つけてしまったら。
ぞっと肌が粟立ち、背中に冷や汗が流れる。
無意識に右側の前髪を1房に握る。
「明日になったら……本当に婚約者になってしまう」
婚約者になってしまえば余程のことがない限りノアと結婚することになる。
王妃に次いで高貴な女性。先代のラスフィ公爵夫人は病に倒れるまでは社交界の華であったらしい。
辺境で爪弾きにされた自分なんかに務まるはずがない。
優しさで整えられた未来への恐怖に唇が震える。
「ノア様……ごめんなさい」
いまさら謝罪をしたところで優しいノアがミラを見捨てることはないだろう。
そういうひとなのだ。我がご主人様は。
誇らしいはずなのに、声も、息を吐くことすら苦しい。
出会えたことで十分すぎるくらい完璧なご主人様は幸せになるべきだ。
ミラは操られたように窓からノアの部屋と隣合わせの壁へ向かう。
それから、壁にそっと手のひらをあてた。
ひんやりとした壁の感触は無機質だ。けれど、たしかにノアが隣にいると感じる。
その事実だけで胸が張り裂けそう。
「ありがとうございまし……た。……どうかお元気で」
震える声でなんとか言葉を紡ぎ、深々と頭を下げる。
ぐっと顔を上げて、自らの意思でベットまで足を動かす。
足をベッドの端に乗り上げたなり、シーツにぽたりと雫が落ちる。
あっという間にシーツへシミが広がっていくのを見た瞬間、小さくしゃくり上げる。
堰をきったように、なにもかもがあふれだしていく。
「う……うぅっ……っ」
ぼたぼたと頬を伝う熱い雫を無かったことにしたくて、ベッドに突っ伏した。
どうして泣いているのか自分でもわからなかった。
ただ、もう二度とあのアメジストの瞳に自分が映ることはない
それだけのことなのに、涙が濁流のように流れていく。
⸺でも自分は正しい判断をした。
これだけは譲らない。
決断を覆さないために。
嗚咽の合間に、大きく息を吸う。
「さよう……っなら……」




