あなたとの婚約はお断りします
「エルンスト・アルドワ辺境伯令息。あなたとの婚約はお断りします」
言い終えたミラはエルンストへ、深く腰を折った。
エルンストは全身を強張らせたまま、食い入るようにミラを見つめて動かず、まばたきひとつしなかった。
まるでこの世に二人しかいないような、過去に沈むような沈黙に支配される。
「……なぁ、お前は俺を恨んでいないのか?」
掠れた声で落とされた言葉が、大きくも無い声だというのに、身体全体に響く。
エルンストのこの7年間そのものだ。
安堵と同時に、胸の奥が冷え切っていく。
やっと彼と向き合えたのに、今さら結局一番傷つけたのは自分だと気づいた。
愚かにも目を閉じ、耳を塞いだばかりではなく、逃げてしまった故に。
辺境に置き去りにされた彼の優しい心を抉った。
どれほど悔やんでも、手を伸ばさなかったのは自分。
(謝ることで、もう一度、その傷をこじ開けることにもなる)
⸺罪悪感の押し付けあいこそ、もう終わらせないと。
ミラは真摯に声を紡いだ。自らの心にも刻み込むように。
「全然。悪いのはフール伯爵夫人だもん」
エルンストは感情のごっそり抜けた表情で固まった。
息苦しい。
薄い闇がひたひたと這い寄るよう。
彼といくつも重ねた楽しかった時間さえも、儚く消えてしまうような静寂だった。
やがてエルンストは瞳を伏せる。一拍置いて、小さく笑った。
憑き物が落ちたような微笑みだった。
「……そうか。俺は、あの時『助けて欲しい』ってお前に言ってほしかったんだ。それだけだった」
「いえないし……言わない」
毅然とミラは言い返す。
やっとあの日のエルンストへ手を伸ばせた、という気持ちで不思議といっぱいだった。
塞いだ気持ちが凪いでいく。
エルンストも同じ気持ちだと思う。たぶん。
「ああ。ミラなら言わないよな……頑固だよな、お前は」
エルンストはしみじみ言う。その口元は呆れたように緩んでいる。自然と。
「そうですよ」
和んだ空気にほっとしたその時。
ふとエルンストが表情を改めた。
一歩前に足を踏み出し、ふ、と短い息を吐き、顔をこちらに向けた。
「なあ。罪悪感などではなく、お前を心からほしいと思っての婚約の申し出だったら、考えてくれるか?」
真剣な表情をしたエルンストの手は、気づけば小刻みに震えている。
なんでそんなおかしなことをいいだすのか。
けれど、乞うような姿のエルンストに言えるはずもない。
(なんだか……試されているみたい。もう逃げないか……)
エルンストから、辺境から、逃げないと決めたのだ。
その時が来ることはないだろうけど、これがミラの答えだ。
「……うん。そんな真剣な気持ちを向けられたら、私もしっかり考えるよ」
ミラは真っ直ぐ見上げ答えた。
エルンストは喜びと安堵を顔に滲ませながら、ゆっくり頷いた。
「わかった。そこからお前にわからせるために、一旦は婚約を諦めてやる」
「ありがとう?」
なんとなくお礼を言いながらミラはエルンストの言葉を思い返す。
心からほしいなんて、エルンストが自分のことを好きで婚約したいみたいじゃないか。
わざわざ辺境で嫌われている自分を選ぶなんてありえない。でもエルンストは真剣だった。
(ん? でも、わざわざ「わからせる」とかそんなことを言う? まさかね? )
ありえない想定に、じわりと頬に熱が熱くなるのを感じていると。
「来年こそは優勝するから」
突然、エルンストに抱きしめられていた。
包み込む温もりと耳朶をくすぐる声の熱さに驚く。
「頑張って?」
なんとか返したが、声が上ずってしまった。
ぎゅうとさらに腕に力を込めて抱きしめたエルンストは、ミラの頭頂部に顔を寄せる。
次いで、つむじに柔らかいものが当たる感触に、びくっと体を竦ませた。
「優勝も……お前も、諦める気はないからな……」
「は? え?」
慣れないこの状況にパニックに陥ったミラは聞き逃す。
ただエルンストの声がうっかり恐怖を抱くほど、とんでもなく低く真剣だったことしかわからない。
エルンストは囲った腕を解くと、今度はミラの手を取る。無骨な指を強く絡めた。
握られた指からミラは逃げられない。
「ど、え、怒ってる? エル兄?!」
「――帰るぞ、ミラ」
エルンストはぶっきらぼうにそう言うと、強引にミラの手を引く。
繋がった手はびっくりするくらい熱い。
けれど、いつしか紫に染まった空に浮かぶ1番星のように、堂々と前を歩く背中は強く明るく光っている。
(……昔のエル兄に戻ったみたい)
懐かしさに目を細めたミラはその熱を振り払うことはできなかった。




