プロローグ
ミラはその場から離れたい一心で夢中で走った。
廊下を行き交う生徒が、ぎょっとした顔をして、ミラを避けていく。
それだけ自分の様子がおかしいのだろう。しかし、ミラにはどうでも良かった。
それに、なにより自分自身が情けなかった。
……気づいていたはずなのに、また何もできなくて。逃げてしまった。前と同じように。
自分の情けなさが惨めに思えてくる。
ふと、後ろから、ずっしりと響く足音。
予鈴が鳴ったあと、廊下に人間なんて、いないはず。
(まさか?! 硬派なイケメンストーカー?! )
得体のしれない恐怖が、現実味を増す。
(近い!捕まる!)
ミラは必死に足を動かした。
廊下は、石柱の回廊に変わり、中庭に続くレンガ道へ。
息が肺を焼くように熱い。心臓が喉元までせり上がっているよう。
足も痛い。誰か助けて。もう走れない。
でも、誰も来ない。
そう思った瞬間——ノアの顔が、ふっと脳裏に浮かんだ。
「っミラ?! どうした?!」
静かで、でもしっかりとした声が、ミラの耳に届いた。
大音量で自分を呼ぶ、待ちに待った声に足を止める。
いつの間にかレンガ道の先に敬愛するご主人様が立っていた。
(なんで、……ここにノアさまが……?私は、夢を見ているの?)
メイドのミラがこの学院に来るよう命令したご主人様がこのノアなのだ。
ラスフィ公爵家は男爵家の自分と校舎が違うのに。なぜいるのか。
しかし、背後から聞こえていたはずの足音は、止まった。
追いつかれた。もう、終わりかもしれない。
追いつかれた恐怖よりも、ノアが、そこに立っている。
それだけで、安堵という感情が津波のように押し寄せた。
「ノアさま……!」
掠れた声で、彼の名前を呼ぶ。
少し走ったのか、前髪が珍しく乱れて。いつもは感情をあまり表に出さない美貌が、今は明らかに焦っている顔をしていた。
瞬間、張り詰めていたミラの心の糸が、ぷつりと切れた。
気づけば、足が勝手に動き、抱きついていた。
するとノアの友人が後から追いついたようで。ノアとなにやら会話を交わす。
「おいっ! ノア! いきなり走り出してっ」
「なんだよ。今忙しい。帰れよ」
「ひどー。流石『氷血の貴公子』さんじゃんー」
何ごとかと、覗くと、やたら貴族にしては軽い口調の友人とばっちり目があった。
「「……あっ」」
「み、ミラちゃん?!」
「ろ、ロイドさん?!」
ほぼ同時にお互いの顔を指差した。
「な、なんでロイドさんがここに……っ!?」
図書館で出会った友人。合うたびにウインクを乱発し、赤い髪の緩いポニテが似合うロイドだった。
困惑するミラ達の前に、柱の陰から一歩、また一歩と足音が滲む。
その人物は静かに姿を現した。
ふと友人たちの声が蘇る。
最近不気味な手紙を送りつけ、こっそり見つめているストーカーがいた。
その犯人らしき生徒の特徴。
(……黒髪の背が高くて、鍛えていそうな体つきの硬派なイケメン)
「お前がミラのストーカー?」
ノアがミラを守るようにプラチナブロンドを靡かせ1歩前に出る。
「違う……俺はミラの婚約者だ」
衝撃の発言にミラは息を呑み、ミラはよく見知った彼の名を呼ぶことすら忘れた。
だが、すぐに幼い頃と同じ眉間のシワを見つけ、名前が零れた。
「……エル兄?」
ノアとロイドが一斉にミラに勢い良く振り返る。
見つめられたところで、この地獄の光景にミラは全く心当たりはなかった。