山崎悟は分解されたくない
極限行動の反動として訪れる「静止フェーズ」──目的喪失と自己定義の再確認段階。
海軍工廠に無事到着。
というか、もはや「到着」というより、流れ作業で『USアレキサンダー』の腹に放り込まれた、という感覚のほうが近い。
三段ベッドの一つ。
壁。
ドア。
窓はない。
ノイズキャンセリングヘッドフォンをつけたまま、ミネラルウォーターの二リットルボトルを脇に置き、ポテトチップスの袋を開ける。指が塩でべたつく。
……安全だ。
あまりにも、唐突に。
ホテルの非常階段で三二階ぶんの落下と衝撃を受けた身体が、まだ芯のほうでじんじん痛んでいるのに。
巨大トンボを殺し、螺旋階段を飛び降り、シュトラウス大佐のバスに飛び乗った、その延長線上にあるはずの世界が、ここだけ切り取られたみたいに静かだ。
「暇……」
声に出してみて、少し驚く。
本当に、暇だ。
ドア横のモニタには、外の様子が映っている。
燃えているシスコの夜景。ビル群の輪郭が、炎で縁取られている。
綺麗すぎて、現実味がない。
まるで、ゲームの背景を眺めているみたいだ。
UIだけが剥がれて、レンダリングされた街だけが残った感じ。
廊下の向こうでは、誰かが走っている気配がある。
でも俺には何の指示も来ない。『ステイタスボード』は沈黙したまま。
なら、ここにいていいのだろう。
……いい、のか?
ヘッドフォンの内側で、心臓の音がやけに大きく聞こえる。
さっきまで、あれほど「死ぬかもしれない」という圧があったのに。
今は、代わりに「何をすればいいのかわからない」という空白が広がっている。
生き延びた。
それは事実だ。
さっき、避難民への案内を別室で受けた。
『ステイタスボード』の説明とか、「今の入隊方法」とか。
入隊する気は、ナッシング。
そこへ大佐まで現れて、「料理や洗濯も軍が担う。女性や子供は入隊してもらったほうが助かる」と言った。
彼女たちは入隊した。
俺たち男数人は、後ろで黙っていた。
左右を見ると、もう愚連隊。
明らかに「軍隊や警察が敵です」みたいな連中ばかり。
俺は敵ではないが、同じ行動は無理だというだけだ。
結果、その愚連隊と同室になった。
……くそ。最初を間違えたか。
でも、あそこで入隊しますと言ったら、熱血の渦に巻き込まれる未来しか見えない。
船室のベッドに引きこもり、ノイズキャンセリングヘッドフォンをつけたまま、ミネラルウォーターの二リットルボトルを脇に置き、ポテトチップスの袋を開ける。指が塩でべたつく。
じゃあ、これからどうする?
生き延びたいのか?
この、もう『マイピ』が普通には遊べない世界で。
……その問いは、ずっと前に一度、終わっていたはずだ。
弟が死んだとき。
弟は、生きていたかったはずだ。
それは確信できる。
でも、だからといって、俺が「弟のぶんまで生きよう」と思ったことはない。
あの事故で終わったのは、弟の人生であって、俺のではなかった。
ただ、それだけだ。
生きている俺が、自分で人生を終わらせるのは、なんとなく違う。
積極的に生きたいわけじゃない。
積極的に死ぬ気がなかっただけだ。
自殺って、妙に難しい。
マンションから飛び降りる勇気があったら、だいたいのことはできる。
練炭で車に目張りする根気があったら、内職だってできる。
電車に飛び込むほどの勢いがあったら、別の何かに突っ込める。
だから多くの場合、あれは「勇気」じゃなくて「突発」なんだと思う。
……俺の場合は、弟が飛び出した瞬間に、代わりに俺が出ていれば、というやつだ。
「お前が死ねば良かったのに!」
母親に、何百回も言われた。
でもまあ、どうでもいい。
今この瞬間、あの人も、妹も、もう死んでいる。
大佐は言っていた。
「生き残ったことを自戒するな」と。
俺はサバイバーであることを嫌悪してはいない。
死体の山の前に立って、「また生き残ったな」と事実を確認しているだけだ。
じゃあ、なぜ生き残る?
トンボを殺したとき。
螺旋階段を飛び降りたとき。
バスに飛びついたとき。
あの瞬間、俺は「生きたい」と思っていたのか?
……違う。
食われたくなかっただけだ。
猫の餌になりたくなかっただけだ。
トンボを見逃したら、あのランキング一位が台無しになると思った。
螺旋階段は、最速で下に行くルートだった。
バスは、安全そうだった。
全部、「俺であり続けるための選択」だった。
殺されて、分解されて、誰かの胃袋に入って、
「何か別のもの」になるのが、嫌だっただけ。
「……ああ」
小さく、声が漏れた。
「俺は、生きたいんじゃない」
ベッドの上で、膝を抱える。
「俺以外のものになりたくない、だけなんだ」
この体で。
この思考で。
この、山崎悟として。
だから、危険でも飛ぶ。
だから、武器を取る。
だから、安全そうな場所に賭ける。
それは「生存本能」じゃなく、「自己保存」だ。
そしてそれは、もう変えられない。
燃えるシスコの輪郭が、モニタの中で揺れている。
あの街の中で、俺と同じように「自分であり続けたい」と思った人間は、どれくらいいただろう。
答えは、もう確かめようがない。
艦は、低く唸る音を立てて進んでいる。
どこへ向かっているのか、俺はまだ知らない。
だが一つだけ、確定した。
俺はこれからも、
自分で選んだ行動でしか、生きない。
それ以外の生き方は、俺にとっては――
もう、死と同じだからだ。




