空が燃え、地上が詰み、UIが人を殺しに来る
探索から覚悟へ移行する直前、情報欠乏と選択圧が同時に最大化する判断段階。
★非常ベルの牢獄
この章のBGMは非常ベルだ。止まらない。耳の奥に釘を打つみたいに、脳が削れていく。
家具は倒れていない。食器も落ちていない。本棚の「サラ・ファーストの小説コレクション」も散らばっていない。地震なら、まずここが死ぬ。ここが無事なら、揺れじゃない。
このビルは日本の技術で建てられている、と大佐が自慢して回っていた。耐震、耐火、防音、空調。全部が『完璧』であることを売りにしている。
完璧なはずの空調のせいで、外の匂いがわからない。火が近いのか遠いのか、鼻で判定できない。これ、地味に最悪だ。
非常ベルが鳴り続けている。つまり、逃げろ、というサインだ。
逃げないといけない。
どこへ。
どうやって。
外が燃えているのに。
サンフランシスコ、俺は昔からシスコって言う。東西北を海に塞がれている。逃げるなら南しかない。ベルストは『首根っこ』にある。地理だけなら逃げやすい。しかも南隣接に軍事基地だ。このホテルのオーナーであるシュトラウス大佐が整備した海軍工廠。陸軍駐屯地ではないから即応部隊がいるかどうかはわからないが、シスコの中で一番助かりやすいはずだ。
問題は、その逃げ道まで生きて辿り着けるか。
レモンが壁にぐったり座り込んでいる。呻いている。両手はだらり。
……いや、今はお前に構っている場合じゃない。頭がうるさい。ベルと、寝不足と、心拍が同時多発に発生。ドラム缶の中に閉じ込められて、数人に釘バットで殴られている感じ。音だけで殺されそうだ。
衝動的に、キッチンカウンターにあった胡椒ミルを壁に投げた。
胡椒が飛んだ。レモンにかかった。胡椒はちみつレモンになった。まずそう。
味の話をしている場合じゃない。俺の脳が現実逃避を始めている。危険信号だ。
窓の外を見る。街が燃えている。
火事は、避難失敗の許容範囲がゼロのタイプの災害だ。
「このビルも燃えてるのか?」
煙の匂いはしない。空調が仕事をしすぎている。
空調は動いている。
警報も鳴り続けている。
音声案内は情報不足。
ハードは動いている。通信が切れている。全身鎧は着ているが、耳が聞こえなくて視野が狭い感じ。
「避難……するべきか?」
街が燃えているなら、避難先も燃えている。
◆屋上か、玄関か、それが問題だ
選択肢を並べる。三つまで。三つ以上は判断が割れる。
①外へ出る(地上へ)
②館内に留まる(この部屋)
③上へ行く(屋上・高層階)
①外へ出る。
このビルを出た瞬間、窓ガラスが降ってくるリスクがある。高層ホテルのガラスは、落ちると『弾』だ。防弾ガラスだが、逆に割れたら狂気度が上がる。落下物は人間には防げない。即死の確率が跳ね上がる。
さらに玄関。
このホテル、12,621部屋。満室が当たり前。非常ベルが鳴っているなら、全員が玄関に雪崩れ込む。数百人が同時に狭い出口へ向かったら、圧死は現実的な死因だ。火より先に、人が人を殺す。いや、もう死んでいるかもしれない。つまり玄関は通行止めの可能性が高い。
②この部屋に留まる。
短期的には安全かもしれない。だが『情報がない』のは死ぬ。火災でも暴動でも、遅れた判断は取り返しがつかない。ベルが鳴っている以上、警備が健常ではない。どこかで何かが起きている。ここで待機しても、炎も煙も、死も、いつかはここへ来る。
③上へ行く。
屋上にはヘリポートが三基ある。契約書に「30階以上は優先使用権」とあった。富裕層が多く、部屋が広い。圧倒的に人が減る。その上で、富裕層はヘリを呼ぶ。
理屈はわかる。
問題は俺の位置だ。32階。真ん中より下。上には『本物』がいる。
ヘリが来たとして、俺は乗れるのか。
地獄にもヒエラルキーがある。
胡椒はちみつレモン? 知らん。混乱して襲われたら目も当てられないし、俺より巨体だ。動かせない。
玄関側に耳を当てる。防音が優秀すぎて、情報が薄い。廊下の音が『遠い』。遠い音は、危険が近いのか遠いのかわからない音だ。
一番重要なことを忘れていた。
「着替えよう」
★世界がポップアップしました
現実に『ゲームのノイズ』が混ざった。
クローゼットに手を伸ばした瞬間、目の前に立体のウインドウが浮いた。
VRは、もうログアウトしたはずだ。
なのにこれは、現実の部屋に貼り付いている。
「……メール?」
今どきメール。しかも立体。目に悪い。最悪のUIだ。
『第1クランへの招待』
文面は命令形の反復だった。
『虫や動物が巨大化している。この事態は地球規模で起きています。
世界は変わりました。
まず、戦う準備をしましょう。
ステイタスボードを開いて『職業』と『スキル』を決めてください。最初は『戦う系』のスキルが良いです。
躊躇しているヒマはありません。
生き抜くために、すぐに『職業』と『スキル』を決めてください。
日常は戻ってきません。
戦いに対処しましょう。
『職業』と『スキル』を決めてください。
今すぐに。
戦いを始めるのはそのあとです。
『職業』と『スキル』を決めてください。
『職業』と書いてあるところに触れると、職業候補が出ます。ご家族の分も、あなたが決めてください。
あなたや家族を守れるのはあなただけです。
『職業』と『スキル』を決めてください。
そして、先程のメールをあなたが助けたい人全員に送信してください。連絡先をタップすると『一括送信』が使えます。
今すぐに』
消えた。
また開いた。
『第35クランへの招待』
同じ文面。
スパムみたいに、世界が押し込んでくる。
救助じゃない。これは『割り当て』だ。人間を役割に固定する徴兵の匂いがする。
拡散しろ、という一文が一番気持ち悪い。感染にしか見えない。正誤もわからないのに拡散?
だが、情報がない世界では、情報っぽいものは『餌』になる。
「……とにかく、受諾」
指が勝手に動いた。
現実では引きこもりだが、ゲームでは友人が多い方が得だと知っている。得とか言っている場合じゃないのに、癖が出る。
ウインドウが次々に点滅する。目が痛い。苛立ちが増える。
このUI、設計したやつは人を殺す気で作っている。
窓の外に視線を逃がした。
そして、逃げた先の現実が、もっと殺しに来た。
◆空からも逃げられない
大きな窓のフレームの中、上からヘリが落ちてきた。飛べよ。……羽が一つ折れている。
ドアが閉まっていない。ロングガウンのいぶし銀が、必死にドア枠にしがみついていた。
手が離れた。人が落ちた。
先に、ヘリが落ちた。
「ガリレオは真空で正しかった。ここは真空じゃない」
……数学の検証をしている場合ではない。
今のは、屋上から飛び立とうとして事故った。つまり、屋上は『救助』じゃない。『混乱の最前線』だ。ヘリの羽が折れる事象が屋上で起きている。
屋上案、棄却。
窓ガラスに、パジャマがはだけた俺が映る。
「着替えだよ」
なんでいつまでも裸足でうろうろしていた。最優先は靴だ。
視界の端で何かが動いた。今は服だ。
昨日脱いで床に放置していた靴下を履く。迷彩上下。衣替えをしていないからクローゼットに掛かっていた冬用のロングダウン。花粉症対策のゴーグルを装着。スチャッ。エルメスのスカーフをゴーグル下に一回巻き、滅菌ウェットティッシュを挟んでもう一度巻いて後ろで結ぶ。野球帽の上からフード。軍用手袋を装着! 玄関の軍用ブーツに足を突っ込んで……
ガツン。
警報の合間に、ガラスを激しく叩く音。……ここ、32階ですけど?
窓の外。夜景のど真ん中。
「……トンボ?」
違う。サイズが違う。
俺のリビングは120㎡ある。その窓一面を、影が覆っている。
トンボは英語でドラゴンフライ。まさにドラゴン級サイズ。
羽音が、ここまで来る気がした。
全長、何メートルだ。
『虫や動物が巨大化している。この事態は地球規模で起きています』
さっきのメール……これか。
世界規模で動物が巨大化。だから、ヘリの羽が折れた。
「だから、警備員がいないし、通信が遮断されたのか」
自動警報で警備が出る。巨大動物に殺される。警備室に逃げ帰る。ドアが開き、中に何かが駆け込む。放送する前に全員死亡。警備室が荒らされ、通信が途絶える。いや、警備室でメイン通信はオンオフできない。客室に虫がいなくても、裏方は別だ。ネズミが巨大化したら。ダクトのゴ……コオロギが巨大化したら。ダクト破壊。ダクト沿いのケーブル損壊。通信遮断。筋は通る。
「大事件じゃねーか……」
というか、世界的テロ。
地球規模。
「……どこへ逃げる」
窓の外一面に、巨大なトンボ。
世界が変わった、の意味が、ようやく『実物』になった。
◆――AI副官ログ(AI LOG)――
[T+0000sec] 【AI副官デリミタ子】
──外界変化確認:巨大生物出現。屋上救助期待値、急落。
──通信遮断要因仮説成立:裏方侵入→設備破壊ルート。
──次フェーズ提示:職業選択は回避不能。安全第一で初期構成を最短確定せよ。




