番外編ニ、異世界へ渡るのは、悪魔
調理台に置かれたボウルから、スプーンで具材を掬う。
それを薄い皮の真ん中に載せて縁に水を付け、ひだを付けながら包みこんだ。
それほど広くないキッチンには、時折ボウルとスプーンのあたる音だけが響いている。
まこととクロは調理台の前に並んで立ち、黙々と餃子の下拵えをしていた。
こういう淡々とした作業は集中すると案外楽しく、特に会話を交わすこともなく手が進む。
その為、五十枚あった皮はあっという間になくなり、大皿には綺麗に形成された生の餃子が隙間なく並んでいた。
「お疲れ様」
「もう焼くか?」
「うん」
まことが頷くとクロはふわりと宙に浮き上がり、食器棚の上からホットプレートを下ろす。
そしてそのまま食卓へと持っていった。
まことはその後ろ姿に微かに笑みを浮かべると、餃子の載った大皿を持って後に続いた。
「焼いてくれる?」
「ああ」
声をかけるまでもなく、プレートを布巾で拭いて電源を入れているクロに大皿を手渡せば、手際よく油を敷いて餃子を並べる。
まことはそんな様子に笑みを深めて他のおかずや調味料を取りにキッチンへと向かった。
お盆にご飯や味噌汁はもちろん、中華風サラダ、漬物、醤油やラー油などたくさん載せて居間へ戻ると、まことは首を傾げた。
「クロ?どうかした?」
そっと食卓へお盆を下ろし、焼いている餃子に鼻を寄せるクロに問いかける。
クロはすっと顔を離すとまことに向き直り口を開いた。
「さっきから気になっていたんだが、いつもの餃子と匂いが違う」
不思議そうな表情を浮かべつつそう言うクロに、まことは納得して頷いた。
「よくわかったね」
「何か入れたか?」
「うん。この間お母さんに会った時に教えてもらって」
料理に目覚めたクロは、もはや主婦レベルのスキルを身に付けている。
調理自体はもちろんの事、外食や出来合いの食べ物にも興味を示し、材料や味付けはなんなのかとよく想像していた。
それはいつもどこか楽しげで、まことは答えを教えることなく、考え込むクロを微笑ましく見つめていた。
クロは暫く考えると、ぽつりと呟いた。
「胡麻油?」
「そう」
「あとは……」
「ふふ」
一つ目は簡単に正解。
もう一つはまだ考え中の様だ。
まじまじと焼けていく餃子を真剣に見下ろす姿に、まことは微かな笑いを含む声をあげる。
「食べたらすぐにわかるよ」
「そうか」
クロは楽しみだと笑みを浮かべると、蒸し焼きにするためにホットプレートに手早く水をいれて蓋をした。
まことは水の入っていたコップを受けとるとお盆に載せ、脇に静かに置いた。
こんな当たり前の、何でもない日常。
それに改めて幸せを感じる。
少し前の自分には想像すらしていなかった穏やかな日々が、こうしてずっと続いてゆくのだと、最近になって漸く実感がわいてきた。
人と関われるようになり友人もできた。
鬼に見つからないようにひっそりと隠れて暮らす必要もなくなった。
恐怖に怯えながら眠った夜は、安らぎの時間となった。
クロと出逢うまでの自分は、まるで自分ではなかったかのような錯覚さえ抱く。
でも、あの時の気持ちも経験も、今では大切なものとなっていた。
それがなければ、そもそも巡り会うことができなかった。
そう思うだけで、苦しかった過去も宝物になった。
きっと、これ以上の幸せはないと思う。
もうなにも望まないから、ずっとこんな時が続きます様に。
誰にともなく願いながら、まことは感慨深く餃子に集中するクロを見つめていた。
すると、
「この世界は面白いな」
不意に視線をあげたクロが、笑みを浮かべながらまことに言った。
好奇心に満ちたまるで少年のような眼差しに、思わず抱き締めたくなる。
「そう?」
「ああ。食へのこだわりが凄い」
感心したようにそう言うので、まことは思わず吹き出した。
凄い力を持った大悪魔が餃子やこの世界のごはんに感動しているのがとても面白かった。
クロはそんなにおかしい事を言ったか?と首を捻る。
それすらもなんだか可愛くて、まことはごめんと呟いてなんとか笑いをしずめた。
それでも溢れ出る少しの笑い混じりに、まことはふと気になったことを聞いてみた。
止められない笑いを誤魔化すためでもあったが、それはクロには秘密だ。
「クロの世界はどんなご飯なの?」
以前に少しだけ聞いたが、具体的ではなかったのでイメージできなかった。
あちらにも人間がいるのだから、そうそう変わらないのでは?と思ってはいたのだが。
「固いパンみたいなものや主にスープだな。味付けもごくシンプルなものばかりだ」
「そうなんだ」
「ああ。食ってみたことはあるが、進んで食べたいとは思わないな」
クロは眉間に皺を寄せて首を振る。
どうやらあんまり美味しくないらしい。
確かにこの世界は食材や調味料に溢れていて、料理人や研究家が日夜、美食を求めている。
それだけでなく、品種改良や生産方法の改善など、食材に対しても積極的に研究が進められているのだ。
その情熱や科学力の差が、食の質に現れているのかもしれないとまことは思った。
クロの世界には、そもそも食材の種類が少ないのかもしれない。
それか、地域間の交易なども少なく流通がないのかもしれない。
そういった世界であれば、食事へのこだわりも薄くなるのかもしれないな、と思った。
そういえば、とまことは気が付いた。
「クロの世界の事、あんまり聞いたことなかった」
「ああ、そういえばそうだな」
どんなところで生まれて生きてきたのか、全く知らなかった。
それに気が付くと、まことの中で好奇心が急速に成長していく。
クロが焼き上がりを見極め蓋を開けると、ふわっと美味しそうな匂いが部屋に満ちる。
その食欲を掻き立てる香りの中で、まことは呟いた。
「クロの生きてきた世界を、見てみたいな」
それを聞き逃す筈もなく、クロはまことへと視線を移す。
そして、にやりと妖艶な笑みを浮かべると、
「行くか」
簡単に提案する。
世界を渡ろう、と。
「うん」
まことはそんな伴侶にそっと抱きつくと、嬉しそうに頷いた。
クロはまことの首筋から耳へと手を沿わせて顔を近づける。
至近距離で囁くように異世界旅行の約束を交わせば、そのまま引き寄せ合うように口付けた。
通常、大悪魔ですらあり得ないほど難しいその約束。
しかし、ふたりには不安も心配もない。
暫く甘いキスを交わして、もう一度微笑み合ってから身体を離す。
そして美味しそうな匂いに食欲を刺激されると、焼きたての餃子を堪能するべくいそいそと食卓の準備を再開するのだった。
夜になり細い月が真上にまで登った頃、ふたりは境内の桜の木の下にいた。
睡眠の必要のない悪魔にとっては、夜もまた活動時間帯。
特に今夜は月も星も見え、普段から外へと出掛けたくなる様な天気でもある。
それならば、思い立ったが吉日とばかりにさっそくこれから異世界へと飛ぶことにした。
能力がまことに移った為、主体的に力を使うのは当然まことになる。
しかし、異世界は目的地の場所が不明確な上、まことにとっては未知の領域だ。
地球上を転移するのとは訳が違った。
その為、ふたりは作業を分担する事にした。
クロが自分の世界にいる眷属をマーカーとして道筋を示し、まことが時空間転移の術式を展開する。
これが魂が繋がったふたりだからこそできる、新たなやり方だった。
転移中に離れ離れになることがないように、クロはしっかりとまことの身体を抱き寄せる。
まことも細い腕を片方伸ばして抱きつきながら、もう片方の手を目の前の何もない空間へと翳した。
クロから時空間転移の能力を譲り受けてから、これまで何度かその力を使ってきた。
恐山にも行ったし、ちょっと散歩のもりで海外に行ったこともあったりする。
しかし、そんなまことも異世界へ飛ぶのは初めて。
散歩とは訳の違う質量のエネルギーを操り、ゆっくりと集約していった。
渦巻く白い光を、指先の繊細な動きでコントロールする。
初めてのことに緊張、などという事は全く感じさせずに、まことはものの数秒でいとも容易く転移のためのゲートを作り出した。
「そういえば、隠し味はわかった?」
完成したゲートに歩を進めながら、まことはあっけらかんとクロに問いかける。
「わかった。味噌だ」
クロもまるで部屋のドアを通るような気楽さで、そのままゲートへと足を踏み入れた。
「あたり」
まことがふわりと笑って頷くのと同時に、白い光が身体を眩しく包み込む。
「下味がしっかりしてよかった」
「うん。私もずっと、なにか足りないと思ってたんだよね」
そして次の瞬間。
ふたりは暢気な雑談を交わしている間に、いとも簡単にこれまでとは別の、クロのいた世界へと辿り着いていた。
「さすがだな」
「?」
「転移に掛かる時間が早い。それに安定している」
「そう?」
クロは感心するようにまことを見つめながら、強く抱いていた腕を緩めてまことを解放した。
「まことには悪魔の才能があるかもな」
「なに、それ」
真剣に断言したクロに可笑しくなって、まことはくすっと笑みを溢した。
悪魔の才能。
そんなもの言われたこともなければ、当然聞いたこともない。
なんだか嬉しいような恥ずかしいような複雑な気持ちのまま、まことはふと自分の立っている場所に気がつき、クロから離れて辺りを見回した。
そこはどうやら高原のようで、青々とした草が果てしなく続いている。
そして、足元には自生した白い花畑が、草の上に絨毯のように広がっていた。
空もよく晴れていて、その美しい景色に暫し見とれた。
「クロ様ぁ」
唐突に上がった高く艶かしい声に、まことは反射的に振り返った。
するとすぐに、鮮やかなピンク色の髪の女性が目に飛び込んできた。
しっとりと水気を含んだような緩くウェーブした髪が、露出の多い服を纏う滑らかな身体のラインに添うように流れている。
女性にしてはやや長身だが、すらっと伸びた手足や豊かな胸、それにきゅっと締まった張りのあるお尻が、まことから見ても美しい。
当然の様に整った顔をしているあまりに完璧なその女性は、頬を染めてクロを見上げている。
それはまるで美術品のように。
ふたりは完璧なバランスを以て、肌を合わせていた。
見知らぬ女は、先ほどまでまことの収まっていたスペースに納まり、クロの胸に頬を擦り寄せる。
まことは無意識に自分の服の裾を握り締めた。
「ああ、お会いしたかったですわ」
爽やかな自然の中に、違和感満載の色気のある声がよく響く。
女の発する言葉には全て、語尾にハートマークがいくつもついているような甘さがあった。
紅潮する頬に、涙ぐむ瞳。
するするっと胸板を撫でる指先まで、全てが熱っぽい。
クロはそんな女には特に何の反応もせずに、静かに見下ろしていた。
まことはそんな様子を、呆然と見つめていた。
「離せ」
クロが女に軽くそう言えば、女は唇を尖らせつつも素直に離れた。
「はぁい」
名残惜しそうに最後まで指先で触れながら、一歩下がる。
そして徐にまことに視線を向けた。
その目はどこまでも冷たく、突き刺さるようで。
とてもじゃないが良い感情は読み取れなかった。
「まこと」
クロは自由になると、再びまことの腰を抱き寄せる。
そして、女がまことへ向ける視線などお構いなしに、紹介を始めた。
「俺の眷属のサキュバス。キサラだ」
「あ、こんにちは」
まことは反射的に挨拶する。
そして、瞬時に理解した。
ああ、このひとをマーカーにしたのだと。
まことは名乗ろうと口を開きかけ、しかし名乗る事は叶わなかった。
キサラはつんとそっぽを向くと、空気にとけるようにあっという間に姿を消してしまった。
「なんだ、あいつ」
クロはキサラの態度に、ひとこと溢しながら首を傾げる。
まことはそれに、唖然とした。
クロのあまりの鈍さに、言葉がでなかった。
え。
悪魔ってこれが普通なの?
故郷へ連れてきてくれたことが嬉しくて、楽しくて。
はしゃいでいた気持ちはもう何処かへ行ってしまった。
今は、ただただ胸が苦しいだけ。
それだけだった。
自分に好意のある相手をマーカーに選んだことが。
そしてその相手に少しでも触れさせていたことが。
無性に嫌だった。
「……クロは」
喉が乾いて、うまく声がでなかった。
それでもしっかりと聞き取って、ん?と聞いてくれるから。
「女の子に誘われれば、その誘いに乗るんでしょ?」
ついそんな言葉が口から飛び出ていた。
「え?」
「……」
わかってる。
こんなの、ただの八つ当りだって。
悪魔として永い時を生きているクロに、こんな人間本位な気持ちをぶつけるのは間違ってるって。
それでも、どうしても我慢できなかった。
まことは自己嫌悪に陥りながらも、クロの反応を待っていた。
一方クロは、まことの少し怒った様子に焦りを覚えていた。
普段から腹を立てたり機嫌が悪くなったりすることの殆どないまことが、今はどう見ても怒っている。
クロは動揺を内に抑えながらも、慌てて答えた。
「もう乗らない」
「……もう?」
ひえっと、体感温度が一気に下がった気がした。
しまった。
焦りのあまり、滑るように口から零れ出ていた。
たぶん今の答えは間違えたのだと、クロは後悔した。
以前に教室で石井に手を出した際には、まことは特に何の反応も示さなかった。
それどころか、人目を気にしろとさえ言われた。
あの時にクロは、自分の方が何故か後ろめたい気持ちになったのを今でも覚えている。
自分と他の女が接触することに対して、まことが何も感じていないのがショックだった。
最も触れたい相手に何とも思われないのが悔しくて、自分がつまみ食いをしたにも関わらず、勝手に苛立っていた。
あの時は、なぜそう感じたのか理解できなかったのだが。
そうか。
今、わかった。
思えばあの時には既に、自分はまことに惹かれていたのだと、クロは気が付いた。
だからこそ、嫉妬して欲しかったのだと言うことに、漸く思い至ったのだった。
しかし今、実際にあの時願った通りの状況になってみれば、思いの外良いものではなく。
クロは、まことの視線から針でも放出されているのではないかと思う程、ちくちくとした胸の痛みを感じていた。
それは勿論物理的な痛みではなく、心の痛み。
クロもまた、罪悪感に苛まれていた。
「じゃあ昔は?」
「……腹が減ってれば」
まことが小さな声で問うのに対し、クロも小さな声で返す。
どう答えるべきか考えたものの、何が最適か解らずに素直にそう答えれば、まことの目から涙がぽろりと零れ落ちた。
そして声も出さず、表情も固いまま、ぽろぽろと止めどなく泣き始めた。
クロは動揺も顕にまことに歩み寄ると、そっと肩を掴んで顔を覗き込む。
しかしまことは視線を合わせることなく、ただ俯いていた。
まことはどうしても、クロを見ることが出来なかった。
クロを責めてしまった理由も、涙の訳も。
自分でわかっていた。
だから、何も言えなかった。
クロを責めるのはお門違い。
だって、悪魔にとってそれは食事と同じものだから。
裏切りでも何でもない。
しかもこれは、過去の話。
今のクロが自分に対して驚く程誠実なのは、良くわかっていた。
だからこれは、嫉妬だった。
ただの、嫉妬。
悪魔なのだから仕方ないとわかっていても、悲しかった。
さっき、クロが別の誰かと触れ合う姿を見てしまって、苦しかった。
クロは、良くも悪くも嘘をつかない。
そんなところも好きなところではあったが、今はその事実が辛かった。
きっと、クロは嫉妬なんてする事はないのだろうと、まことは思っていた。
だから、ここで自分が取り乱す訳にはいかなかった。
理解できない感情をぶつけられたら、きっと誰だって嫌だから。
だから今、まことはひとりで必死に飲み込もうとしていた。
この世界に来る前に、実感したばかりだったのに。
これ以上ないくらい幸せだなって、思っていたのに。
いつからこんなに欲張りになってしまったんだろう。
未来を全て貰っておいて、過去までも欲しかっただなんて。
早く涙を止めなくては。
せっかくクロの世界に来たのに、これではあんまりだ。
クロの生きてきた世界を見て回るのが、とても楽しみだったから。
だから、早く立ち直らなくては。
クロだって困ってる。
早く元の自分に戻って、笑顔で話がしたい。
他愛の無いことで笑い合いたい。
いつものふたりに戻りたい。
そう思うのに、自己嫌悪と罪悪感が、まことの心をどんどん埋め尽くしていった。
すると、不意に。
クロはまことをそっと抱き締めた。
それは力など殆ど入っていないような、優しく柔らかな抱擁だった。
「く、」
「泣くな」
まことが名前を呼ぶより先に、クロの切な気な声がまことに届いた。
「……っ」
腕と同じく、どこまでも優しい声音に、まことは肩に入っていた力がふっと抜けたのを感じる。
まことはゆっくりと腕を上げると、きゅっとクロの服の裾を掴んだ。
「俺が他の女から生気を得ることは、もうない」
それは分かっている。
分かっていても、この気持ちを止められなかった。
「俺が欲しいと思うのは、まことだけだ」
それも、ちゃんと分かっている。
クロの言葉も行動も、そして気持ちも、ちゃんと自分に向いている事は知っている。
疑う余地なんて、微塵もなかった。
クロの言葉に、まことの中で絡み合って根付いていた自己嫌悪と罪悪感が、少しだけ緩む。
まことは涙を湛え揺れる瞳で、そっとクロを見上げた。
漸く合わさった視線に、クロは僅かに安堵の表情を浮かべる。
クロはまことから目を反らすことなく、静かに見つめ返した。
いつも。笑顔が見たいと思う、まことの顔。
しかしその裏で、心の奥の方ではもっと泣かせてやりたい衝動も確かにあった。
それは悪魔の本能なのか。
傷つけたくないのに、傷付けたい。
笑わせたいのに、泣かせたい。
相反する二つの気持ちが、せめぎあっていた。
しかしこうして実際に泣かせてしまえば、それもまた全く良いものではなく。
クロも後悔と罪悪感で押し潰されそうになったのだった。
「……泣くな」
言った途端に、再びまことの頬を涙が流れ落ちた。
クロはまことの頬に手を添えて、それを唇で吸い取る。
そして、もう一度
「泣くな」
優しく、切なくそう言った。
やっぱり、笑っていて欲しい。
涙はもう、見たくなかった。
クロは自分の心の底にある、本当の気持ちを理解した。
まことを泣かせる奴は、例え過去の自分でも許せなかった。
まことが控えめに両手を広げると、クロは包み込むように再び深く抱き締める。
今度は強く、ひたすら強く、全身で抱き締めた。
もう離さない。
もう、泣かさない。
ふたりはそのまま、暫く佇んでいた。
爽やかな風が高原を滑っていく。
仄かに甘い花の香りがした。
しばらくそうしていると、まこともやっと落ち着いたようで、もう涙は止まっていた。
「あの、クロ」
「ん?」
「もう、大丈夫」
「そうか」
そう返すも、クロに放す素振りはない。
「く、クロ」
「ん?」
「苦しいよ」
「そうか」
そう声にすれば、クロは漸く少しだけ腕を緩めた。
しかし両手は腰に回されたまま。
決して離さないという意思さえ感じられるように、しっかりと抱かれていた。
まことはそれに少し頬を染めてから、俯きがちに言葉を落とした。
「ごめんね、泣いたりして」
クロは何も言わずに首を一振だけ揺らした。
「分かってたつもりだった。悪魔は、そういうものだって」
合いの手を挟むことなく、まことの言葉を受け止める。
「でも実際に見ちゃうと。……辛くて」
今にも消え入りそうな声は、更に小さくなっていく。
クロはまことの心情を察して、自らも言葉にした。
「配慮が足りなかった」
「え?」
「数いる眷属の中で、あいつをマーカーにしたのは失敗だった」
そんな事を言わせるつもりじゃなかった。
まことは、咄嗟に声を荒げて異を唱える。
「違うよ!クロのせいじゃ「これを見せたかったんだ」」
しかし自分が言い切る前に、クロが被せて言った言葉で、まことは言葉を止めた。
「え?」
「あいつの居場所には大抵花がある。だから、ここにした」
クロがちらりと視線を足元へ移す。
そこへ目を向ければ、白い花が風に揺れていた。
この世界に着いた時に目についた小さくて真っ白な花が、あたり一面に自生していた。
「花があるから、ここに?」
「ああ」
「私が喜ぶと思って?」
「……ああ」
クロの小さな肯定の呟きが、すっとまことの心に届く。
そういえば、クロの世界の花の話をした事があった。
それを覚えていてくれたのだと、まことは気が付いた。
ぎゅっと、胸が苦しくなる。
でもそれは、さっきまでの不快な感じではなくて、甘酸っぱいようなくすぐったいような、そんな感じがした。
純粋に嬉しいと、そう感じた。
「ありがとう」
まことは、また泣きそうな顔になった。
でもその表情は、笑顔で。
クロもまた、胸を締め付けられた。
ああ。
やっと、笑ってくれた。
まことの喜びと、クロの安堵が、最後の澱を溶かしていく。
ふたりは漸く蟠りから解放されると、微笑みを交わした。
そしてそのまま、引き寄せ合う様に唇を重ねた。
初めから深く求め合う。
段々上がる息に甘い声音が混じりだせば、クロはするりとまことの身体を撫で始める。
やわやわと手を動かせばば、まことがくすりと笑った。
「くす、ぐったい」
キスの合間のその囁きに、クロもつられるように笑みを浮かべると、花の咲き乱れる野の中にまことを座らせ、後ろから抱きしめるようにクロも腰を下ろした。
クロは後ろから触れ始める。
勿体ぶるように触れれば、もどかしくなってきたまことは身体をくねらせた。
「……クロ」
まことのお願いに気を良くして、クロは手を進めていく。
そしてまことの耳元で、しっかりと聞こえるように囁いた。
「ちゃんと感じろ。俺が触れたいと思うのは、まことだけだ」
「……うん」
ぴくぴくっと手の動きに合わせて返される反応に満足しながら、クロは少しずつ愛撫を濃くしていく。
「どう触れて欲しい?」
「や、わから、な、」
まことは背後から与え続けられる快感を全身で感じていた。
目の前には一面の白い花。
清らかとしか言いようの無い美しい景色の中で、ふたりは激しく乱れていった。
「クロ様がご帰還されたのか」
キサラの横にひとりの悪魔が姿を現した。
体格の良いその悪魔は、特徴的な真っ赤な髪を風に靡かせて草原に立つ。
その鬣ともいえる髪の中からは、バッファローの様な角が生えていた。
「……ディヴェロッサ」
不機嫌極まりない声で呼ばれて、ディヴェロッサは違和感を抱いたままキサラの表情を覗き込む。
「お側に寄らないのか?」
「……」
問い掛けにも無言で前を睨む様子に、ディヴェロッサは首を傾げた。
そもそもクロは、インキュバスの性質も持っている。
その為、これまでのクロなら寄ってくるサキュバスや他の眷属の女の数人を一度に相手している事などよくある事だった。
誰かがクロへすり寄れば、我も我もと女達は群がる。
力もあり美しいクロは、女たちの憧れの的だった。
クロもクロで生気が欲しい時には遠慮することなく受け入れるものだから、稀にクロを見かける時にはいつもハーレムが出来上がっていたものだった。
それが今は、クロの周りにハーレムは出来ていない。
しかも、相手はたったひとり。
己の欲望に忠実なサキュバスたちが遠慮しているなど、珍しかった。
というより、初めて見た。
ディヴェロッサは驚きも顕にクロと、その相手をする者へと目を向けた。
我らの存在に気づいているのか、いないのか。
どうやら、交わる事に没頭しているようだ。
白い花畑の真ん中で、踊る様に絡み合うふたりを、キサラと遠くから並んで眺めていた。
あれが花嫁か。
少し前に、クロがディヴェロッサの元へ時空間転移してきた事があった。
その時にクロが実は異世界へと渡っていた事が分かり、眷属の間で話題になった。
そして更に、クロの友人である魔女より賜った情報で、人間の娘を花嫁に迎える様だと聞いていた。
あの時は驚きすぎて、小一時間ほど動けなかったが。
「……まさかクロ様が、本当に人間を娶るとはな」
ディヴェロッサは少しがっかりした。
この世界に於いて、クロはそこらの悪魔とは格が違う。
時間や空間を操る悪魔などそうそういない。
それにあの麗しい見目も、堪らなかった。
キサラのような女はもちろん、男のディヴェロッサや他の悪魔から見てもクロは美しく、見つめられればうっとりとしてしまうのだった。
それは正にカリスマ。
眷属の内の殆どは、自ら望んで志願した者ばかりなのだ。
そのクロが、人間の娘を娶ったという。
何の力も持たない、弱いだけの人間を。
眷属の悪魔たちは揃って、納得していなかった。
「なんであんな娘が」
キサラも憎々しい視線を向けてから、つんとそっぽを向いた。
どうやら見ているのが辛くなったらしい。
ディヴェロッサにもその気持ちは理解できた。
主であるクロの伴侶には、主と同様に忠誠を誓うべきだろうが。
忠誠心など抱ける気がしなかった。
クロの気配を敏感に感じ取った力のある高位の眷属たちが、少しずつ集まりだしていた。
その者達も、皆揃って同じ気持ちを共有していた。
これまでクロは異世界にいたため、眷属たちはクロの本当の変化に気付いていなかった。
その為、人間の花嫁を迎え単純に力が半減してしまったのだと思い込んでいた。
のだが。
じわり、と。
強大で濃厚な力が辺りに溢れ出すのを感じた。
それはキサラもディヴェロッサもぞくりと震えが来るほどの力で。
ふたりは思わず、そちらへ振り返った。
そこには相変わらず、濃密に絡み合い求め合うふたり。
特に見た目には何の変化もなかった。
しかし空気が、気配が。
ただ事ではないと如実に物語っていた。
大気が震えている。
肌が痺れるような感覚に包まれていた。
クロは力をひけらかすタイプではないし、まことも悪魔となってから力の使い方を得たので、ふたりは日常的に気配をおさえていた。
それは運気を安定させるためでもあり、一緒に暮らす政道に配慮しての事だった。
その為、ふたりの持つ大きな力は、その片鱗さえも感じ取れない程に普段は隠されていた。
それが今。
お互いに夢中になる余り、箍が外れてじわりじわりと溢れだし、その存在感を知らしめていた。
そしてそれは、ダムが解放されるかのごとくあっという間ににだだ漏れとなって、辺り一帯を埋め尽くしていった。
キサラとディヴェロッサが、目を見開いて凝視していた。
他の下等な眷属も、主の強い力を感じ帰還を察知してやってきては、遠巻きに目を凝らす。
更に、尋常でない力に呼び寄せられた新参の者たちまでも集まりだし、辺りは悪魔だらけになっていった。
次々に増える悪魔達で、その高原は異常な雰囲気に包まれていた。
それは、興奮。
そこに集った悪魔たちは、畏れ、震え、歓喜した。
しかし、誰もクロには近づけない。
遠目にただ見つめるだけだった。
悪魔たちでさえもたちが悪いとしか言いようが無いほどの濃厚な力の放出と、ふたりの甘過ぎる世界に誰も動けなかった。
「キサラ、大丈夫か」
ディヴェロッサが声を掛けた。
脂汗が背中を伝って落ちていく。
恐ろしい。
これはもう、悪魔の持ち得る力ではない。
これは、言うなれば魔王級だ。
ディヴェロッサは震えと笑いが込み上げてきた。
キサラは垂れてきた鼻血を抑えつつ、クロとまことを瞬きもせずに見つめる。
ディヴェロッサも同じように視線を向けていた。
あの娘、ただの人間ではなかったか。
いや、むしろ、そもそも人間か?
ディヴェロッサは己の浅はかさを恥じた。
「……まこと様」
「は?」
唐突に聞こえたキサラの呟きに、ディヴェロッサは間抜けな声を上げた。
いつしか、キサラの心は折れていた。
そして、ぽっきり折れたプライドは跡形もなく砕け散り、まことに対するリスペクトが急速に膨れ上がっていた。
その目はもうクロではなく、完全にまことに向けられている。
いつしかキサラは、新たな主のそのポテンシャルに、完全に魅了されたのだった。
クロと濃密な時間を過ごしたまことは、乱れた服をイメージの力で整えるとクロの肩に凭れるように身を預けた。
クロも身だしなみを一瞬で整え、まことの髪に唇を寄せて片腕でやんわりと抱き締めれば、そのまま白い花を眺めた。
そして、お互いから他へと漸く意識が向き始めたと同時に、
「まこと様!」
「えっ?」
飛び込むようにキサラが目の前に現れた。
「まこと様!素晴らしいですわ!」
「えっ、えっ?」
キサラはぐいっとまことの顔の真ん前まで身を乗り出すと、その細く美しい指を組んでうっとりと見上げた。
その瞳はキラキラと輝き、頬は紅潮している。
酷く興奮した様子にまことは訳がわからずに混乱した。
クロは特に興味がないようで、まことの髪に鼻を寄せたままその香りを楽しんでいる。
まことがちらっと視線を送っても、我関せずといった表情だ。
キサラからは、さっきまでまことに向けていた睨みつけるような視線も、クロに向いていた熱い眼差しも、最早なかった。
キサラの迸る想いは、今はまことにびしびしとぶつけられていた。
「あのクロ様を、ここまで虜にするなんて!」
その言葉に、まことは顔を引き攣らせた。
え?
それって。
「……も、もしかして」
「私など目に入らないはずですわ!」
何かを思い出すように目を閉じてうっとりと笑みを浮かべるキサラに、まことは青ざめていく。
嫌な予感しか、しない。
え、いや、まさか。
そんな、ねえ、まさか……ね。
……。
「み、見ていたの……?」
お願い。
違うと言って。
そんな淡い期待を込めて言ってみたけれど。
「はい!勉強させて頂きましたわ!」
ぎゅっとまことの手を握って鼻息荒く即答するキサラに、まことはぼんっと顔を真っ赤に染めた。
真っ青から真っ赤へ、それはまるで手品のような変化だったが、誰もそれには触れない。
まことは恥ずかしさの余り、意識が飛びそうになった。
心なしかその手は震えていた。
クロは見られていた事にも特に何とも思わないようで、今度はまことの首筋に顔を埋めていた。
まことは後ろからクロに、前からキサラに迫られて、しかも情事を見ていたと言われて、混乱を深めていく。
まさか、見られていたなんて。
嘘でしょ……。
は、恥ずかしい。
恥ずかしすぎる。
恥ずかしさで、……死にそう。
目をぐるぐるさせながら、ひとり羞恥に耐えていた。
すると、またしても容赦の無いキサラの言葉がまことを襲う。
「私にも、私にも手ほどきを!!」
「ええっ?!」
がばり。
興奮の臨界点を突破したキサラが、まことを押し倒そうとした。
しかし、キサラがまことを抱き締めたと思ったのも束の間、その腕は虚しく空を切った。
クロがまことをキサラから引き離していた。
「ああん!クロ様、独り占めはズルいですわ!」
「煩い。まことは俺のものだ」
「そんなー!」
「触るな」
まことを深く胸に抱き込んだクロが、冷たくキサラを突き放す。
例え同性であろうとも、他の悪魔がまことに触れるなど許す気はなかった。
それでも必死にすがり付くキサラと、独占欲丸出しでまことを隠すクロ。
ディヴェロッサは呆然と、そんなやり取りを見つめていた。
こんなクロは初めて見た。
ひとりの女に、こんなにも執着している姿は。
いや、女だけではない。
何かに対してここまで感情を露にしている事にも驚きを隠せなかった。
常に冷静で、思慮深い。
力を誇示することもなければ、欲望を表に出すこともない。
それがディヴェロッサの知るクロの姿だった。
それに。
なんだ、この娘は。
さっき感じた力は、クロの持っていたものではないのは明確だった。
と言う事は、あの力の根元はこの娘だという事。
先ほどはその力の大きさに恐れを抱いたのだが。
それが、今は全く、微塵も感じ取ることはできなかった。
改めて娘を観察してみても、初め見た時と同じく只の人間としか思えない。
それはつまり、あの魔王に匹敵する力をいとも容易く制御し隠し果せると言う事で。
その能力は図りしれなかった。
ディべロッサは、その事実にぞっとした。
驚きを通り越して、最早恐ろしかった。
無意識にまことを見ていると、目が合ってしまった。
クロとキサラに挟まれて困ったような顔をしていたまことだったが、ディヴェロッサと目が合った途端に、ふっと微笑みを浮かべた。
「あ、はじめまして」
「!」
ふわり、と花が咲いたような。
春の日差しが薄雲から柔らかく差し込んできたような。
そんな表情に。
ディヴェロッサは、何も言えなかった。
今まで考えていたことも、憂いていたことも、吹っ飛んだ。
「あの?」
突然動きを停止したディヴェロッサに、まことは控えめに声を掛ける。
その後ろでは、まだキサラとクロが言い合っていた。
「なんと、お美しい……」
「え?」
ディヴェロッサは無意識に呟いた。
その目がまことに釘付けになると、吸い寄せられるように歩みより、恭しく跪く。
そして流れるようにまことの手を取ると、そこへ口付けていた。
「ディヴェロッサでございます。まこと様」
「よ、よろしくお願いします?」
馴染みない習慣に戸惑いつつ、とりあえず挨拶を返したまことだったが、手に口付ける様子を目撃してしまったクロにより、突如抱き上げられた。
「きゃ、え、クロ?」
クロは静かな瞳でディヴェロッサを見下ろす。
まさかキサラだけでなく、ディヴェロッサまでもがこうくるとは思いもしなかった。
クロはぎゅっと力強くまことを抱え込むと、ディヴェロッサを睨み付けたまま低い声を発した。
「まことに触れるな」
「えっ、く、クロ」
怒りを露にするクロと、戸惑うまこと。
「挨拶でございます」
「あっ、じゃあ私もご挨拶を」
怒気を放つ主に怯むかと思いきや、けろりと返すディヴェロッサと、むしろ楽しげなキサラに、ふたりは怒りも戸惑いも忘れて唖然とした。
これにはクロも、かつてない程焦り出す。
まことの唇へキスしようとするキサラ、そして再び手を伸ばそうとするディヴェロッサをかわし、クロはまことを抱いたまま空へと飛び上がった。
どういう事だ?
何がどうしてこうなった?
クロもまた混乱した。
ディヴェロッサは、あんな男だったろうか?
キサラはまあ、分からなくもないが。
いや、キサラも男には積極的に迫るが女に対してあんなに心酔しているのは初めて見た。
何が起きた?
クロは混乱深まる頭で考えた。
わからない。
わからない、が。
ただひとつ、確かな事があった。
それは、ふたりはまことに惹かれていたという事。
いつの間に、何故かは分からないが、視線を見ればそう確信した。
それは好感というレベルではなく、崇拝と呼べる程の眼差しで。
どうして突然こんな事態になったのか。
クロは首を捻った。
まことは確かに美しい。
美しさ故に魅了されたかとも考えたが、それだけではない気がした。
上空から大地を見下ろして、ふたりは初めて気がついた。
一面の草原の中に、無数の人影。
大勢の悪魔たちが集まっていた。
しかもその影はどんどん増えていく。
これだけ集まっているということは、自分達の気配はかなりの広範囲まで関知されているのだろう。
と、いう事は。
……あ。
さっきまでお互いに夢中すぎて、失念していた。
普段は常時周りに気を配っていたが、今回はこちらに来て気を抜いていた。
それに仲直りできたことが嬉しくて、つい盛り上がり、お互いしか見えていなかった。
漸く、ふたりは気がついた。
欲情に身を任せて、それだけに全てを注いでいた事に。
このはた迷惑なほどの大きな力を制御する事を、すっかり怠っていた事に。
つまり、普段は意識的に抑えている力を大解放してしまったのであろう事実に思い至った。
そしてその力は、これまでのクロには持ち得なかったもので。
まことの生まれ持った力であることは、眷属にしたら明白。
羨望の眼差しの理由も、漸くふたりは理解した。
クロとまことは呆然としながらも、再び花畑に降り立つと、周りを見回した。
続々と眷属たちが集まってきては、一人ずつ挨拶をしていく。
クロとまことは半ば自業自得かと諦めて、眷属たちの挨拶を受けることにした。
そして挨拶を交わす度に、眷属たち皆に同じ現象が起きた。
みんなまことに魅了されていく。
クロを心酔していた者たちが、ことごとくまことに落ちていった。
その様子を、クロはなんとも言えない表情で見ていた。
「まこと様」
「ああ、まこと様」
「……まこと様」
「……」
これまでクロ様クロ様と慕ってきた者たちが、みんな揃ってまことを見つめている。
その瞳は、以前はクロへと向けられていたものだった。
ぷつん、と。
クロの中で何かが切れた音がした。
「……まこと、帰るぞ」
「え?もう?」
「「「えー!」」」
突然のクロの言葉にまことは驚き、眷属たちは大ブーイングを鳴らす。
それでもクロは、構うことなくサクラをマーカーに方向を示した。
それに合わせて絶妙のタイミングでまことが時空間転移の魔術を発動すれば、幾重にも重なる繊細で美しい紋様が、あっという間に空中に浮かび上がった。
まことが力を使ったことに、歓声が上がる。
それは元はクロの力だったのだが、眷属たちにはもう既にまことの力として認識されたようだった。
「なんと見事な!」
「素晴らしい!」
「美しい!」
「ブラボー!」
「ピーウィー!」
「結婚して!」
そんな歓声を聞き届ける筈もなく、クロはまことを横抱きにするとゲートへ飛び込んだ。
眷属たちにはもう、言葉はもちろん視線さえも向けない。
一刻も早く、サクラの待つあちらの世界へと帰りたかった。
クロはどういう訳か、ダメージを負った気分だった。
ふたりは異世界に行って結局殆ど何も見ずに、帰りのゲートを潜る。
紋様に入った瞬間に歓声は消え失せ、時空の波をサクラを目指してひた進んだ。
程なくして、ふたりは明け方の境内へと降り立った。
こちらの世界では白い渦の形をしているゲートは、役目を果たすと霧のように霧散して呆気なく消えていく。
それを確認すると、ようやくまことを腕から降ろし、クロは大きなため息を吐いた。
結局、あちらの世界の食べ物はおろか、人の暮らす街にも行けなかった。
見たのはこちらの世界とそう変わらない草原と花だけ。
しかも、そこで喧嘩をして、仲直りをして、いちゃついて、つまらない失敗をして、逃げるように帰ってきた。
初めての異世界旅行は、そんな感じで呆気なく終了したのだった。
この日、まことは初めて嫉妬を経験した。
そしてクロもまた、嫉妬というものを知ったのだった。