番外編一、愛娘は、悪魔
まとわりつく喧噪を置きやり、忠義は人でごった返す東京駅を足早に歩く。
混み合ったエリアを素早く抜けて、あっと言う間に新幹線乗り場までやって来た。
忠義は指定席の座席番号を確認して目当ての車両に向かい、慣れた様子で東北新幹線に乗り込む。
今日、大分久方ぶりに急遽有給休暇を取ったのは、妻と義母に会いに行く為だった。
しかし、久し振りの再会が目前だというのに、その表情は暗い。
事の発端は、昨夜だった。
突然まことから電話が掛かってきたかと思うと、耳を疑う事を言われた。
“クロをおばあちゃんとお母さんに紹介してくるね”
それを聞いた瞬間、忠義は凍り付いていた。
そんな事など知らないまことは、自分の要件を簡潔に話す。
明日の学校帰りに行ってくると言ったのだが、それすらもまともに耳に入らず、ちゃんと理解したのは電話を切った大分後の事だった。
学校帰りに、青森まで行く。
違和感しかないその発言の真意が分からずに、我に返った忠義はすぐさま政道に電話を掛けた。
学校帰りに?
コンビニじゃあるまいし。
そんな気軽に本州最北端まで行ける訳がない。
何を馬鹿な事を言っているのだ、と思っていたのだが。
“ああ。まことはクロから力を譲り受けて空間転移ができるようになったそうだよ”
空間転移、って何だ。
そんなツッコミはもはや出来なかった。
政道が聞いてもいないのにご丁寧に説明してくれるのを、ただ呆然と聞いていた。
空間を繋げて目的の地へ転移する?
具体的にイメージの及ぶ場所なら何処でも可能?
地球上なら、大体できる?
訳が分からなかった。
そんな得体の知れない力は、聞いたこともない。
あまりに次元の違う能力に、現実感が全く伴わなかった。
それでも、娘は本当に悪魔になってしまったのだと、忠義は受け入れざるを得ない現実に、直面していた。
認めない。
認めてなるものか。
妻よ、義母よ、頼む。
どうか、阻止してくれ。
忠義はそれだけを思って、新幹線で北上していたのだった。
雲一つない晴れ渡った富士山山頂に、忠義はいた。
鬼の分身体がまことを攫い、苦しい防戦を強いられていたのはさっきまでの事。
今は部下である陰陽課の職員たちの歓声が、煩いほどに響き渡っていた。
鬼を完全に倒した。
ずっと、不可能だと思われていた。
千年間も、打つ手が無かった。
あの恐るべき鬼を。
最愛の娘のまことが倒したのだ。
まことの放った滅鬼の術より、鬼は消滅。
空に浮かんでいた雲諸共、吹き飛ばしていた。
わあわあと興奮した部下たちは、まとこに駆け寄っていく。
まこともそれを、笑顔で迎えていた。
忠義は、石のように重たい足を動かして、自らもまことの側へと向かった。
その隣を、政道が嬉しそうな顔をして歩いていた。
「まこと」
「お父さん」
手を伸ばせば、変わらぬ娘の笑顔と温もりに迎えられて、忠義は少し落ち着いた。
ふたりは強く抱き合い、喜びを分かち合った。
「まこと……」
まことには決して言えないが、もうまことを助ける事はできないのではないかと、頭を過ぎった事もあった。
生まれた時から見つからないようにひた隠しに隠して、大切に育ててきた娘。
大変なことはいくつかあったが、それを苦労と思ったことは一度も無かった。
むしろ、常に鬼の目を気にしてひっそりと生きてきた娘を思えば、いつも涙が浮かんだ。
それが、それらの柵から、解き放たれたのだ。
忠義はその喜びから身体を震わせて、涙に滲む瞳でまことに笑い掛けた。
なんと素晴らしい娘だろうか。
自分に降りかかっていたの不遇の運命を、自らの力で打ち破るなど。
なんて、誇り高い娘だろうか。
忠義は感動のまま、まことに声を掛けた。
「まさかお前が、あの鬼を倒すとは……」
しかし、当のまことはその言葉に笑顔のまま首を振る。
そして、あっさりと否定した。
「ううん、私の力じゃないよ」
「え?」
忠義が、意味がわからず呆けていると、
「クロのおかげ」
まことがなんとも美しい笑顔を浮かべながら、その悪魔の名を呼んだ。
忠義だけでなくそこに居たもの全員の視線が、少し離れた場所から様子を見ていたクロに集まった。
「そうか、君が……。よくやってくれた」
建前上、感謝の意を伝える。
しかし、想像を遥かに超えた異様な気配を感じて、忠義のこめかみを汗が流れ落ちた。
弟の政道から、まことを助けた悪魔の存在は聞いていた。
聞いてはいたが。
クロは、さすがは政道の兄といったところかと感心しながら、ゆっくりとまことに向かって歩み寄る。
忠義は近付いてくるクロに、無意識に半身に身体を引いて構えていた。
まことの雰囲気が変わったのは、この悪魔のせいか?
なんだかとても嫌な予感を抱きながら、目の前で立ち止まる悪魔をじっと見つめていた。
「俺はクロ。まことが異世界から召喚した悪魔だ」
クロがそう言えば、はぁ?っとあちこちから素っ頓狂な声が上がった。
まことはそれはそうかと苦笑した。
異世界、召喚、悪魔。
そんな単語は、おそらく物語の中でしか出会わない。
しかし、実際に鬼と対してきた彼らは、まだ耐性があったようだ。
先程目の当たりにした現実も踏まえて、なんとなくそれぞれ納得したようだった。
忠義も、とりあえず無理やり納得し、父親らしくクロに声をかけた。
「そ、そうか。ありがとうクロくん」
しかし、感謝されたクロはにべも無く返した。
「別に、あんたに礼を言われる筋合いはない」
その返答に、忠義は混乱した。
「え?いやでも、娘を助けてもらったからね」
「当然だ」
人間と悪魔の価値観の違いからか、会話がなんだか噛み合っていない。
政道は横で聞きながら、引きつった笑みを浮かべていた。
そして、なんとなく会話が良くない方向へ進みそうな気がして、顔を青くしていった。
ずっと噛み合わないまま言葉を交わしていた忠義とクロだったが、不意に、
「もうまことは大丈夫だ」
「ああ」
会話が噛み合った。
忠義はそれに少なからず安堵して、労いの気持ちを込めて言葉にした。
「もう自分の世界に帰っていいぞ?」
「は?」
「は?」
クロが意味がわからないという顔をすれば、忠義も意味がわからないという顔をしていた。
まるで合わせ鏡のようだ、と思いながら、周りの者たちは黙って見ていた。
忠義は、きっとまことは鬼を倒す為に悪魔を召喚したのだから、当然倒せばクロは元の世界へ帰るのだと思っていた。
だから、最上級の感謝の意を込めてそう言ったのだが。
「まことは俺の花嫁だ。離れることはない」
「……は?」
言うや否や、クロはまことの腕を軽く引き寄せる。
そして後ろからふわりと抱きしめた。
首筋に顔を埋めて深く吸い込めば、その甘い香りに酔いしれる。
「あ、クロ……」
目の前で悪魔といちゃつき出した娘に、衝撃を受ける忠義。
その横で、政道が頭を抱えて俯いていた。
まことはやんわりとクロの腕から抜け出ると、忠義の正面に立つ。
クロは黙って、傍で見守っていた。
「お父さん」
「は、はい」
なぜか娘に敬語になってしまった。
しかし、誰もそれを気にしない。
もっと衝撃的な事が起こる予感が、そこにいる全員にしていた。
「私、クロのお嫁さんになったの」
「……え?」
忠義は、最早理解が追いつかない。
何を言っている?
およめさん?
それって何だっけ?
愛する娘の言葉を、忠義は理解できなかった。
というか、理解したくない。
したくないのに、
「私、悪魔になっちゃった」
にっこりと微笑んで駄目押しとばかりに報告する娘に、父は意識を手放した。
その後、政道に問い詰めた。
そして驚愕の事実を知る。
あの悪魔がまことの傍にずっといた事。
普段の生活も学校でも、何もかも共に過ごしていた事。
それを聞いて、またしても気が遠くなった。
しかし、一番ショックだったのは、政道のクロに対する信頼だった。
言葉では何も言わないが、政道は明らかにあの悪魔を認めていた。
この一年、まことの側にいて守ってきた、自分が世界一信頼している弟が。
恐らく今一番信頼しているのが、あの悪魔だった。
クロがまことを狙った暗殺者を殺さなかった事も、大きく評価を上げたようだ。
洞窟内に暗殺者を眠らせてあるとクロから聞いた政道は、すぐに確認に向かった。
言葉通りそこに眠る武装した者たちは皆無傷で、ただ深い眠りに落ちていた。
強硬派の話をした時、クロはその者等に確かな殺意を持っていた。
もしもまこと救出時に遭遇したら、きっとクロは彼等を殺すのだろうと思っていたし、政道もその覚悟はしていた。
それが、強大な力を持つにも関わらず、それを振るう事無く収めた事に、政道は感動したのだった。
暗殺者はその後催眠を解かれ、厳重な処罰を与えて裁かれた。
鬼の一件後にその話を親しげにクロと話す政道の姿を見て、忠義は呆然としたのだった。
忠義にはまるで、旧知の友と話しているように見えた。
そんな事を思い出して打ちひしがれている内に、新幹線は八戸駅へと着いた。
そこから電車に乗り換える。
忠義は海沿いを走る車窓から、ぼんやりと外の景色を眺めていた。
政道は、きっと頼りにならない。
頼みの綱は、妻と義母しかいない。
ぎゅっと拳を握りしめて、静かに海を見つめていた。
そして更に下北駅からバスに乗って、ようやく恐山に到着した。
バスを降りて妻と義母の住まいの方へ歩いていくと、遠くに人影を見つけた。
よく知ったその人物は、穏やかな顔で忠義に声を掛けた。
「兄さん」
「ああ、政道、早かったな」
既に政道が到着していた。
昨夜、電話で自分も青森へ行くと言ったら、政道も行くと言ってくれた。
自分と同じくかなり多忙である筈だが、有り難いと思った。
例え、あの悪魔を認めていたとしても、素直に嬉しかったし心強かった。
いつ頃着いたんだ、と話していると、ぶわっと、唐突に力の奔流を感じて身構えた。
なんだ、この異常な感じは。
何か良からぬものが迫ってくるようなプレッシャーに、忠義は焦りの表情浮かべた。
しかし、
「あれ、お父さん?おじさんも」
不穏な力の流れが収まると、聞こえてきたのは娘の声。
目の前に、まこととクロが立っていた。
「ふたりも来たの?」
「ああ。私達も事態の報告がてら、便乗させてもらうよ」
「そうなんだ」
「私は兄さんと少し話してから行くから、先に行きなさい」
「うん。じゃあまた後で」
動けない忠義に変わってまことと話し、政道はまことの頭を撫でる。
そして、歩き出すまこととクロを見送った。
クロは当然の様にまことの腰を抱いて、寄り添って歩いていく。
まことは幸せそうにクロに微笑みつつ、あれこれ説明しながら行ってしまった。
きっと家ではなく敢えてここに転移したのは、まことが故郷の景色を色々と見せたかったのだな、と嫌でも理解した。
「兄さん……」
「……ああ」
「大丈夫?」
「あんまり」
「……」
政道の同情する視線に涙が出そうになった。
その時、よく分かった。
政道も、きっとこれらのショックをひとつずつ乗り越えたのだと。
そして、受け入れてしまったのだと。
その目を見て、嫌でも理解してしまった。
分かっている。
彼がいなければ、そもそもまことは助からなかった。
こうして再び娘と会えるだけで、奇跡なのだと。
その奇跡は彼によって齎されたのだと。
頭では分かっていた。
ぽん、と政道が兄の肩を抱いた。
それに促されてふたりもゆっくりと歩き出した。
政道と共に家に到着し玄関に入ると、奥から笑い声が聞こえた。
それを聞いて、忠義は諦めの境地で靴を脱ぎ、声のする居間へと向かった。
「そうか、そういう手があったかのぅ」
「本当、お義母さん盲点でしたねぇ」
「この世界に打開策がないからといって、まさか異世界から助けを呼ぶとはのぅ」
「我が娘ながらあっぱれですね」
もう駄目だ。
味方だと思っていた最後の砦も、既に落ちていた。
忠義はがくっと肩を落として居間に入った。
もうとっくに受け入れられている様子に、乾いた笑いしか出てこない。
悪魔だぞ?
悪魔にされたんだぞ?
は、花嫁、にされたんだぞ?
何故こうもあっさり受け止められるんだ。
忠義は具合が悪くなってきた気がした。
不幸中の幸いだったのは、その話題の中心である彼がいなかった事だ。
居間にはまことと妻、義母の三人しかいない。
どこに行ったのかと疑問に思っていると、隣から小さな声で答えが帰ってきた。
「きっと女性陣の賑やかさに疲れて姿を消してるんだよ」
政道の正確な分析に、なる程と納得した。
妻と義母は久し振りに会うまことと絶え間なく話しながら、ずっとにこにこと笑っていた。
高校にも元気に通っている。
友人もできた。
力も安定して、コントロールもできるようになった。
よく頑張ったね、と優しく二人が抱きしめれば、まことは目に涙を溜めて嬉しそうに頷いた。
……。
そうだな。
まことは、充分頑張った。
これ以上ないほど頑張って、自ら未来を手に入れた。
その為に頼ったのが悪魔だとしても、まことに非はないし、クロにもない。
寧ろ親から見れば、感謝してもしきれない程の事をしてくれた。
それに、まこととクロを見ればいつも穏やかに微笑み合っていて、想い合っているのは明らかだった。
自分の勝手な感情でそれを引き離そうとするなど、間違っている。
忠義は自らにそう言い聞かせた。
それに気付いてか、政道が優しく肩を叩き、お茶を手渡してくれた。
忠義はそれに儚い笑みを浮かべて礼を返し、受け取る。
温かな湯呑みの温もりと、忙しくて滅多に飲まなくなっていた緑茶の良い香りに深く息を吐いた。
まことは見る目がある。
大丈夫だ。
悪魔だって。
一口啜れば、ふっと余計な力が抜けた気がした。
「ところで、まこと」
「なに?おばあちゃん」
少し声のトーンを変えて、義母がまことに声をかけた。
まことはどうかしたのかと首を傾げる。
すると、
「ひ孫は期待してもいいのかのう」
あまりにも予想外の台詞に、忠義と政道はぶっとお茶を吹き出した。
兄弟で見た目だけでなく、動きまでそっくりだ。
「あ、どうなのかな」
まことはその質問に頬を淡く染める。
そして考えたことも無かったそれを知るべく、名前を呼んだ。
「クロ」
呼べば一瞬でまことの傍らにクロが現れた。
当然のようにまことを抱き寄せる。
そして、
「作ろうと思えばいつでもできる」
あっさりと肯定した。
まことは元は人間だった。
クロと交わり半精神体とはなったが、逆に言えば半分はまだ人間でもある。
そしてそれはクロも。
まこととの婚姻で人間の因子を取り入れていた。
その為、望めばそれに応え子を成す事ができる身体となっていた。
「おお!」
「まあ!」
歓喜に湧く、妻と義母。
忠義と政道は、震える手で溢したお茶を拭き取る。
「クロくん、娘をよろしくね!」
「ひ孫、楽しみにしておるよ!」
クロの手を取りきゃあきゃあと乙女のようにはしゃぐ二人に、最早何も言えなかった。
静かに畳を拭く兄弟は同じ思いを共有していた。
うちの女性陣は、身も心も強すぎると強く思うのであった。