七、待っていたのは、悪魔
真青な空に、白く大きな入道雲が浮かんでいる。
強い日射しと樹木の影の強すぎるコントラストが、目に痛い程に鮮やかだった。
境内に響く蝉の鳴き声が、煩いのと同時にどこか懐かしく感じて、まことは笑みを浮かべた。
今年も、暑い夏がやってきた。
エアコンの効いた和室に、そうめんを啜る音が響く。
クロは氷水の中に漂う麺を掬い上げて、少しのつゆを付け一息に吸込むと、そののどごしに満足した。
美味い。
以前に食べた煮込みうどんも良かったが、これもまた気に入った。
手を止めることなく次々に口に運んでいけば、出汁のほのかな香りを楽しんだ。
まことは黙々とそうめんを食べるクロに、かき揚げとちくわの天ぷらを大皿から取り分けて手渡す。
クロはそれを黙って受け取ると、めんつゆに付けて頬張った。
「うまい」
「よかった」
クロが笑みを浮かべてまことに伝えれば、まことも微笑みを返した。
いつしか日課となった食事は、まことが悪魔となった今も変わらず続いていた。
まことがクロの悪魔としての性質を得たのと同様に、クロもまことの人間としての性質をいくつか得ていた。
その一つとして生気以外にも人間の食事からエネルギーを得られるようになり、生きているものだけでなく、死んだものからも力を得る事ができるようになった。
力を得られると言っても物質は吸収されることなく、エネルギーのみをとりこんでおり、クロもまことも今では料理を食べることを主な食事としていた。
まあ単純に美味しいから食べたいというのも大いにあるのだが。
クロはこの変化にそこまでの違和感は無かったが、まことは色々と戸惑っていた。
「なんか、トイレに行かなくてもいい身体って変な感じ」
そう言って笑ったが、クロには理解できなかった。
他にも睡眠も取らなくてもよくなり、病気にもならなくなった。
風呂に入る必要もなくなったが、習慣と気持ちの問題でまことは入っていた。
あとはいずれ実感する事だが、歳をとらなくなった。
それどころか、肉体年齢という概念がなくなり、好きな容姿に変態ができるようになっていた。
服さえもイメージで創り出せることにはかなり驚いたが、物体として明確な身体が無くなったのだから、衣類の必要性は無かった。
むしろ、衣服を着てしまうと姿を消した時に服だけその場に残ってしまうので、まことは慣れないながらもエネルギーを具現化した服を身に纏っていた。
これらの変化は人間から悪魔になったまことが、大いに実感していた。
未だ戸惑いはあったが、あれから一月も経てばだいぶ慣れてきた。
まことは悪魔らしいそれらの生活を、純粋に楽しんでいた。
クロ側には、食事の他にもうひとつ大きく変わった事があった。
それは、夜の事。
「……まこと」
「あっ、クロ……」
肌を滑る大きな手に翻弄されながら、まことは身体を震わせた。
衣擦れの音が聞こえるだけでぞくぞくしてしまう。
更に唇を合わせれば、その微かな水音だけで身体の芯が熱くなるようだった。
「んっ、……あ」
クロとまことは、毎夜の様にお互いを求め合っていた。
精神体から半精神体になっても、クロの身体には見た目的には特に主だった変化はない。
元々人間のような実体の身体を構築する能力があったのだから、当然だった。
しかし、実際に人間の因子を取り入れたクロは、ある大きな変化を実感していた。
本物の肉体に変態できるようになったおかげで、身体の感度が格段に上がっていた。
繊細な手触りがわかる。
体温の細かな変化がわかる。
クロはその事に、後になって気がついた。
まことを悪魔にする為に、洞窟で身体を重ねた。
その時も、まことの香りや反応に我を忘れるほど溺れたのだが、今はその比ではなかった。
悪魔となってもまことの味は変わらなかった。
芳しい香りは、むしろ強くなった気さえする。
ふと鼻を掠めるそれに誘われて口付ければ、はやり極上の甘さで。
クロは隙さえあらばまことにキスをした。
今では無限とも言える力を共有しているため、空腹を感じることは殆どないが、まことの甘い香りを感じれば手を伸ばさずにはいられない。
欲望のままに、満たされるまで求め続ける。
もはや中毒の様だった。
まことが恥ずかしいからと人目さえ気にしなければ、きっと所構わずに求めただろう。
クロは自分で自分をそう分析すると、自嘲ぎみに笑った。
まこともまことで人目がないと思えば、悪魔らしくクロを誘うのだから、偶然目撃した周りのものからすれば甚だ質の悪いカップルに見えた。
クロがまことに触れると、まことはいつも過剰な程の反応を返して、クロの理性を簡単に揺るがした。
潤んだ瞳で見上げて名前を呼び、熱い手のひらでクロの頬をそっと撫でれば、クロはそれだけで果てそうになった。
重ねたまことの体温があまりにも熱く、のぼせた様に頭が朦朧とする。
しかし、触れ合う肌はあまりにも気持ちが良くて、もっと、もっと触れたいという衝動に、冴え渡る。
触感が過敏になったクロは、相反したそれらの感覚に翻弄された。
永く、本当に永く生きてきたが、こんな風になったのは初めてだった。
クロはその変化を、身震いしながら受け入れる。
その顔には、蠱惑的な笑みが浮かんでいた。
まことの小さなベッドに寝転がるクロは、自分の上に横になるまことの髪を撫でた。
眠る必要はなくなっても、これまでの習慣で夜は横になる。
そんなまことに合わせて、クロも夜は横になるようになっていた。
眠るわけではなく、寄り添って会話を楽しんだり、夜空を見上げたり、激しく抱き合ったりして過ごす。
クロは、この夜の時間がとても好きになった。
今も情事を終えた余韻に浸りながら、まことの髪を機嫌良く指で梳いていた。
すると、不意にまことがもぞもぞと動き出し、クロの顔を覗き込んで口を開いた。
「クロ、お願いがあるの」
「なんだ」
甘く囁く様な声に、クロは微笑んで応える。
まことはその優しい反応に、自分も笑顔を浮かべると躊躇いがちにそれを声にした。
「前世の私に、会ってきてくれる?」
クロは一瞬、その意味が理解できずにいたが、直ぐに考えを巡らせて答えた。
「時空を超える力はお前に譲渡した。もう俺に時間を飛ぶ力はない」
そう。
まことを花嫁にした時に、時空を司る能力は全てまことへと受け渡した。
その為、クロにはもう時間を操る事はできなかった。
「うん。だから、私が送るよ」
しかし、まことはあっさりと返す。
クロはそれに驚き、目を見開いた。
「簡単に言うが、そもそも千年の時を遡る事などできるのか?」
「うん」
「……」
簡単に肯定するまことに、クロは絶句した。
以前のクロも時を遡ることはできた。
しかし、できても数秒前の自分に戻る程度。
それをいとも容易く千年前まで可能だというまことに、言葉が出なかった。
しかも、ピンポインで望んだ時間、場所に送れるという。
まあそれは、行き先が同じ魂を持つ前世のまことの元であるから可能なのだろうが。
しかしクロには、驚愕に値した。
「でも、そんなに長い時間は無理かな」
だとしても、恐るべき力だ。
できると断言できてしまう時点で、もう恐ろしい。
クロは戸惑いながらも、とりあえず話を続けるべく相槌を打った。
「……そうか」
「うん。だから、タイムリミットになったら、サクラに呼んでもらうから」
「わかった」
クロの眷属であるサクラがマーカーとなり、戻る地点を示す。
まことが言うには、地に根を張った霊木であるサクラがマーカーなら、誤差は殆どなく戻せるだろうという事だった。
「会って、何をすればいい?」
会いに行って欲しいということは、何か会わなくてはいけない理由があるのだろう。
そう思って聞いたのだが。
「ううん、何も」
まことはそう言うと微笑んだ。
「会うだけでいいの」
まことがそう言うなら、それでいいのだと納得し頷いた。
「ありがとう」
まことは嬉しそうに笑うと、クロの首に腕を回す。
そして上から甘いキスをした。
それからもう一度、存分に身体を重ねてから、ふたりは境内の桜の木の前へやって来た。
サクラが帰る時の目印になるので、行く時もここから向かう事にした。
朧月が浮かぶ空は仄かに明るく、熱帯夜の境内から見上げれば蜃気楼のように揺らめいて見える。
クロはそれを、不思議な気持ちで見つめていた。
飛ぶのは千年前の、鬼が封じられる前。
前世のまことが鬼に相対する日の前夜だと、まことはクロに伝えた。
「クロ、よろしくね」
「ああ」
まことが時空間転移の術式を展開しながら、クロに微笑む。
クロはその手際の良さに目を奪われながら頷いた。
「いってらっしゃい」
「いってくる」
ゲートが出来上がり、白い渦がクロの前に現れていた。
クロはまことの腰を引き寄せてキスをすると、そこへと躊躇いなく入る。
そして、そのまま光の渦と共に消えた。
まず初めに目に映ったのは、寝殿造りの広大な建物だった。
細部にまで手入れの施された美しい邸宅に、月明かりが眩しいほど降り注ぐ。
クロはその光の降る広い縁側に、転移して現れていた。
転移前に見ていたのは雲のかかった満月だったが、こちらは見事な晴れ空に明るい上弦の月が浮かんでいる。
形は違えど見慣れたそれは、どこか心を落ち着かせてくれた。
千年前の夏も、夜だというのに蒸し暑い。
しかし外から時折流れてくる夜風が、肌に心地良かった。
「誰?」
唐突に掛けられた声に、クロは顔を向けた。
その視線の先には御簾が降りていて、中の様子は見えない。
しかし、それが誰なのかはもう分かっていた。
クロは躊躇うことなくそちらへ向かうと、一度姿を消して御簾を通り抜ける。
そして、その人物の前に現れると視線を向けた。
それは、どう見てもまことだった。
歳の頃は今よりもだいぶ幼い。
しかし、容姿はそのまままことだった。
どこからどう見ても、間違いなく、最愛の伴侶。
その相手が、泣いていた。
こんな年端もいかないうちに、全てを背負う宿命を負うのか。
クロはやるせない想いを懐きつつ、それを表に出さないようにしていた。
過去に影響を与える訳にはいかなかった。
未来の情報も、別の時からやって来たクロとの関係性も、残してはならない。
元来、時空を司る悪魔だったクロは、それを重々理解していた。
絶対に、いかなる理由があろうとも、干渉してはならない。
でないと、未来が変化しどんな悪影響が及ぼされるか、わからなかった。
だから、
「俺の事は夢だと思っておけ」
クロはそう言葉にした。
すると、涙を零して泣いていた顔が、ふっと緩んだ。
「おかしな奴だな」
そして、そう呟くと、花の様に笑った。
口調の違いに違和感はあれど、まことと同じその笑顔に、クロは胸が締め付けられた。
「姫巫女様」
焦りを含んだ女の声が、御簾の向こうから聞こえた。
どうやらクロの気配を感じ、駆けつけたようだ。
クロも他者に悟られないように気を遣ってはいたが、そこはさすがと言う他ない。
さてどうするかと考えていると、
「問題ない。下がれ」
「はっ」
その一言で、足音もなく女の気配は消えた。
「……」
「……」
特に会話もなく、静かな空気が辺りを包み込む。
遠く、一匹の蝉の鳴き声だけが聞こえていた。
クロは、まことに言われた通り特に何をするでも無くそこにいた。
姫巫女も何を思っているのか、ぼんやりと御簾の外を見つめたまま動かなかった。
暫くそのまま、夏の夜の音に耳を澄ませていると。
「……怖い」
ぽつり。
言葉が落とされた。
「鬼が。鬼と対するのが、怖い」
それはそうだろう、とクロは思った。
姫巫女の御簾の先を見つめる瞳は、まだ涙に濡れている。
きっと、ひとりでこうして鬼の恐怖と戦っていたのだと、クロにはわかった。
しかし、ここで折れてしまっては未来が確実に変わってしまう。
少し厳しいかと思いつつ、クロは口を開いた。
「だが、お前にしかできないのだろう?」
その言葉を受けて、姫巫女は息を呑む。
暫くして小さく息を吐いた。
そして、その息のまま、
「……ああ」
ため息のように吐き出した。
クロは目を逸らすことができなかった。
姫巫女の自嘲したその表情が、胸をえぐる。
全く歳に似合わないその顔と言葉に、クロは思わず口を開いていた。
「逃げてもいいぞ」
「……え?」
「嫌なら、怖いなら、逃げればいい」
クロは、躊躇いなくそう言い放つ。
姫巫女は言われた言葉に、驚愕の表情を見せた。
蝉がじじっ、と飛び立つ音がして、ふたりを静寂が包み込む。
姫巫女以外どうにも出来ないこの状況に、周りのものの誰もが彼女を頼りにしているのだろう。
同情、恐れ、敬意ばかりをその小さな身体に受け続けてきたのは、想像に易かった。
クロは姫巫女を想って、悪魔の囁きを齎した。
すると、
「私は、逃げない」
姫巫女は、真っ直ぐにクロを見つめて、呟いた。
「……みんなを、守りたいから」
消え入りそうなほど小さな声ではあったが、震えることもなく言い切った。
クロには、その言葉に力が籠もっているように感じた。
「そうか」
「ああ」
クロが簡単にそう返すと、姫巫女は今度はしっかりとした声で肯定し頷いた。
もうその目に、涙は無かった。
桜の花びらが、ひらりと目の前に舞い落ちた。
これはサクラの合図だ。
「帰るのか?」
「……」
聡く気付いた姫巫女に、返事も返さずに視線だけ送ると、姫巫女はクロに穏やかな表情を向けた。
そして、
「ありがとう」
まことと同じ顔で、微笑んだ。
ああ。
本当なら、今すぐにでもここから連れ出してしまいたい。
これから千年を孤独に過ごすまことを想うと、苦しかった。
クロは伸ばしそうになる手を握りしめて、時間跳躍の流れを受け止める。
白い光の渦が、次第にクロを取り巻き始めていた。
光はゆっくりと強くなり、桜の花弁が時折舞い散る。
それと共に、少しずつクロの輪郭が薄れていった。
そして、間もなく消える、その瞬間に。
「……未来で、待っている」
それだけ、囁いた。
そしてクロは時間の波を飛び越えた。
桜の木に凭れてクロを待つまことは、一年前の自分を思い出していた。
東北から東京に出て来てこの神社に始めて来た時に、まことはサクラを見てどうしてか涙が止まらなかった。
その理由が、悪魔となって漸くわかった。
あの時の花弁は、サクラだったんだね。
「また会えて嬉しい」
幹に額を付ければ、サクラも嬉しそうにした。
サクラはクロにとっては眷属だが、まことにとってはたったひとりの親友なのだ。
まことは太い幹を抱き締めて、その力強い息吹を感じていた。
仄かな月明かりの下、ふたりで会話を楽しんでいると、桜の花びらが一枚落ちた。
今花は咲いていない。
これは、クロの帰りを知らせる幻視だった。
「クロ」
まだ何もない空間に呼びかければ、ゆっくりと輪郭が浮かび上がり、間もなくクロが現れた。
「クロ」
「……」
再び呼び掛けると、クロがゆっくりと目を開けた。
軽い目眩を覚えたが、他は特になんの問題もなく戻ってこれたようだ。
「おかえり」
クロは返事を返すことなく、まことを抱きしめる。
「……まこと」
「うん」
ゆっくり背中に回された腕の感触を感じながら、クロは目を閉じた。
そして、まことへと囁く。
「おかえり」
今帰ってきたのは自分。
それでも、そう口にした。
漸く帰ってこれたのは、まことの方なのだ。
クロは聞こえるか聞こえないかの小さな声で、もう一度繰り返した。
「おかえり、まこと」
そして深く、強く抱き締める。
「……ただいま」
まことの頬を、涙が一筋流れていった。
姫巫女は、夢の消えたあの時に掴めなかった花弁を思い出しながら、手のひらを見つめた。
明けの明星の様な色の、不思議な男だった。
誰も彼もが助けを乞いに来る中で、ただ一人、逃げてもいいと言った男。
残酷なほど優しく、どこか悲しみを宿した瞳が、頭から離れなかった。
何も無い手のひらにその姿を浮べれば、どうしてか心が落ち着いてゆく。
もう見ることはないと思っていた桜の花と共に、目と心に焼き付いていた。
「姫巫女様」
「ああ」
緊迫した声で呼ばれて、力強く応える。
ぎゅっと、見つめていた手を握り視線を上げた。
目の前には、鬼。
私が絶対に封じてみせる。
その気持ちそのままに、力強く頷いた。
鬼を倒す方法はあった。
しかし、倒すには力不足だということはわかってた。
だから私は、鬼の悪災の力を奪って、黄泉で眠りにつくことに決めた。
如何に強大な鬼であろうと、力を奪ってしまえばあとは他の者たちでも治めることが出来るはずだ。
悪災の力が、永い時を経て浄化されることを願って、私は眠る。
いつか、その奪った力に呑まれてしまうんじゃないかと不安だった。
いつか、私の魂の方が先に擦り減って消えてしまうんじゃないかと怖かった。
でも、もう大丈夫。
ひとりじゃないって、わかったから。
遥かに遠い時の彼方で、あなたが、待っているから。
姫巫女は鬼を見据えて笑う。
もう、怖くなかった。
「クロ」
「会いに来てくれて、ありがとう」
「前世でも、現世でも」
【END】
本編はこれで完結です。
最後まで読んでくださってありがとうございました。
次話から番外編です。