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四、悔いるのは、悪魔

「まこと、昼」

「うん」


 騒がしかった教室が、途端にしんと静まり返った。


 昼前最後の授業が終わると同時に席を立った黒須が、まことの席へ行き親しげに声を掛けたのを、クラスメイトのほぼ全員が目を見開いて凝視していた。

 そんな視線にはお構いなしに、まことは鞄から弁当の入った布袋を取り出し席を立つ。


 そして当たり前のように、ふたりは連れ立って教室を後にした。


 橋本は、もうまことに近寄ることはなかった。

 今も唯ひとり視線を向けずにいる彼は、失恋のショックから立ち直るにはもう少し時間が必要だからだろう。


 告白をしてすぐに断られなかった為、脈があると勘違いしたのが昨日。

 とんでもない地雷を踏んだものだった。

 時折、少し切なそうにまことを見つめる瞳がクロには印象的だった。


 だが、同情などもちろんしない。

 クロは黒須として、徹底的にまことの傍にいた。


 あの一件から、クロのまことに対する態度が変わった。


 朝も家から黒須の姿になって一緒に登校し、昼はもちろん休み時間も側にいて、昨日は帰りも揃って帰宅していた。

 その為、教室は混乱と憶測で騒がしかった。


「なんだよ!あれ!」

「名前で呼んでたぞ、結城さんのこと」

「聞いた!まこと、って!」

「しかもなんか、ワイルドっていうか」

「な!なんかキャラ違うよな!」

「俺なんてさっき声掛けようとしたら、にやっと笑われて躱されたぞ……」


 黒須の友人たちは、今朝まことと共に登校したのを目撃した瞬間からずっと話を聞くチャンスを狙っていた。

 しかし、黒須は常にまことの傍にいて、そんな隙は全くなかった。


「あれってやっぱ……」

「付き合ってるのかな?」


 そう呟けば、教室中の女子から悲鳴があがる。


「やだ!なんで!」

「嘘でしょ!?」


 至る所でまことに対する負の感情が湧き上がった。

 そしてそれは、男子たちにも。


「なんでだよ、結城さん」

「いつも黒須ばっかり……」


 混沌に包まれる教室の現状を知ってか知らずか、元凶の二人は既にいない。

 当の二人は、待ちに待った食事の時間を楽しんでいた。


 中庭のベンチでまことの用意した弁当を広げる。

 今日は曇っているが雨は降っていないので、外で食べようと朝の内にクロが提案していた。


「いただきます」

「いただきます」


 食事は必要ないクロだが、まことの作る食事はやはり美味い。

 いそいそと弁当箱を開けて箸を取り出した。


 今日の弁当のおかずは、昨夜の夕食で作ったハンバーグ。

 夕食では大葉と大根おろしを添えてポン酢で食べたが、弁当は特製のケチャップソースを絡めてある。


 それと、作り置きのきんぴらごぼうにマカロニサラダ、塩茹でしたブロッコリーなど、まこと手製のおかずがぎゅっと詰められていた。


「来週ね、うちの神社で結婚式があるんだよ」

「ふうん」


 家での食事と同じように、他愛のない話をしながら弁当をつつく。

 黙々と食べるクロはまことの話に相槌を打つだけだったが、それでもまことは色々なことをよく話しかけていた。


 いつものように米のひと粒も残すことなく完食すると、嬉しそうな笑顔を見せるまことにクロは満たされた。


「ごちそうさまでした」


 そう言えば更に深まる笑みに、クロも自然と笑みが浮かぶ。

 こうして食後も中庭でのんびりと過ごしていた。


 クロは根本的にやり方を変えることにした。


 今まではまことと距離を取ることで守ってきた。

 極力悪意を生まないように、穏やかに過ごせるようにとそうしてきた。


 しかし、橋本の件があった時に対処できなかった。

 それは悪意ではなかったが、むしろそれ以上にまことが酷く傷ついた。


 もう、嫉妬や妬みなどどうでもいい。

 クロは回りくどいやり方に、早々に見切りをつけた。


 つまり、常に側に居て全て正面から守ればいいのだと開き直った。


 今頃教室では大変な事になっているだろう。

 人気者の黒須がまことに急接近した影響は、想像に易かった。


 きっと、負の感情が渦巻いているに違いないと、クロは確信していた。

 しかし、それも後ほどぺろりと喰ってしまえばいい。

 若しくは力づくで散らしてもいいとさえ思っていた。


 やはり無理は良くないだろう。

 悪魔は自己中心的な位が程よいのだと、クロは納得した。


 クロは黒須の人格設定も変えることにした。


 まことから目を逸らせるために目立つキャラクターにしたが、もうその必要もない。

 急な変化では人心に負荷が生じるので、少しずつ本来のクロの人格に移していく事にした。


 学校全体に既に施してある催眠の効果により、次第に浸透する筈だ。


 幸い今日は金曜日。

 週明けには、クラスメイトたちはそれぞれ自分の納得するかたちに黒須の存在を再認識するだろう。


 そして変化があったのはクロの心境だけではなかった。

 まことの、クロに対する態度も大きく変わっていた。


 クロが計画の変更を提案した時、まことはいとも簡単に受け入れた。

 たくさんの悪意に晒される事になるにも関わらず、けろっとしていて、むしろクロの方が少なからず驚いた。


「いいのか?」


 と問えば、


「大丈夫」


 とあっさり返ってくる。

 それを見て、クロはまことの心の強さを垣間見た気がした。


 クロが感心していると、


「クロが傍にいてくれるなら、何にも怖くないよ」


 と言って、まことはにっこりと微笑んだ。


 まことが自分を信頼してくれている。

 クロは、それに喜びを感じた。


 もう失敗はしない。

 出し惜しみもなし。


 使えるものは使って、全てからまことを守り抜くだけだとクロは決めたのだった。


 教室へ戻ったクロは、予定通りそこに渦巻いていたものを喰らい尽くした。


 それは、傍目には深呼吸を一度しただけ。

 周りのものは何が起こったのか誰一人理解する間もなく、苛々とした気持ちを落ち着かせた。


 クロは、最初からこうしていれば良かったとつくづく思った。




 週が明け、登校してみると、驚きの現象が起きていた。


「黒須おはよー!あ、結城さんもおはよー」


 なんと、黒須の友人がまことにも挨拶をしてきた。


「おはよう」


 まことは少し驚いたのの、微かに笑みを浮かべて挨拶を返す。

 それを受けて、黒須の友人はへらっと気持ち悪くにやけて自分の席についた。


 思えば、黒須のすぐ側にいるにも関わらず無視をする方が不自然なのだが、これまでクラスメイトと接点を持たなかったまことにとっては充分驚きに値した。


 しかもそれは一人に留まらず、会うもの皆がまことにも声を掛けていく。

 まことは戸惑いながらも、ひとりひとりに挨拶を返しながら自分も席へついた。


 朝のホームルームが始まると、黒須に後ろの席の友人が憎らしげな声を掛けてきた。


「いいよなー、黒須は」

「何が?」


 黒須が小声で聞き返せば、だってと愚痴が聞こえてきた。


「結城さんみたいな幼馴染がいてさ」

「は?」

「家が近いからって、ずっと一緒だろ?」

「……」

「羨ましすぎる!」

「そこ!煩いぞ!」


 担任の一喝で友人は黙り込んだ。


 どうやらクラスメイトたちは、みんながみんな自分に都合の良いように黒須とまことの関係を解釈したようだった。

 それは決して恋仲ではないという希望的観測が大いに働き、概ね“ふたりは仲のいい幼馴染”という事で落ち着いたらしい。


 実に人間らしい思考に、クロは暫し笑いを堪えるのに苦労した。


 昼休みに弁当を食べながらそんな話をすると、まことも声を上げて笑った。


「おかげで悪意もあまり生まれずに済むな」


 クロがそう言うと、まことも嬉しそうに頷いた。


 全ては結果オーライ。

 程よく事態が落ち着いて、クロは小さく息を吐いた。


「クロ、ありがとう」


 唐突にまことが頭を下げた。

 クロは黙ってまことを見下ろす。


「私、嬉しかった。クラスのみんなが声を掛けてくれて」


 顔を上げたまことは微笑んでいた。

 言葉通り嬉しそうに笑みを浮かべる姿に、クロも表情を和らげる。


「良かったな」


 クロは手を伸ばしてまことの頭を撫でた。

 さらりとした髪が、指に心地好かった。


 まことはそれを気持ち良さそうに受け入れて、笑みを深めると頷いた。


「ちょっとちょっとー」

「ここは公共の場ですよ!」


 頭上から声をかけられて顔を上げると、黒須の友人の二人がいた。

 ボリューム満天の定食の載ったお盆を、それぞれ手に持って立っている。


 今日は雨が降っているので、まことたちは学食のテラス席で弁当を食べていた。

 庇はあっても雨の日に外に出るものはなく、まこととクロは席を二人占めしていたのだが、どうやら見つかってしまったようだ。


「黒須!校内でいちゃつくな!」

「そうだ!」


 友人たちは黒須に抗議しながらテーブルにお盆を置く。

 そして、まことと黒須の座る四人掛けのテーブルの、空いている席に腰を下ろした。


「おい」

「え?」

「なんでここに座るんだ。他にも空いてるだろ」


 黒須がクロそのままの口調で言う。

 しかし、友人たちはお構いなしに割り箸を割った。


「別にいいじゃんか」

「ここだって椅子余ってんじゃん。ね、結城さん」

「えっ!?う、うん」


 突然振られたまことは、つい頷いていた。

 それを見た友人二人はにやりと笑い、ぱんと手を合わせる。


「よっしゃ!」

「いただきまーす!」


 軽くパニックを起こすまこととこれ見よがしに溜息をつく黒須には構わずに、二人は定食を食べだした。


「まったく」


 黒須は呆れながらも仕方ないと早々に諦めて、自分も食べかけの弁当を食べる。

 それを見て、まことも食事を再開した。


 なんだかおかしな事になった。

 黒須くんの友人と食事をするなんて。


 まことがちらっと黒須に目をやると、黒須は少し肩を上げただけで何も言わなかった。

 その反応から悪意がないことを確信し、まことは少しだけ緊張を解いた。


 クロは案外、クラスメイトの友人たちを気に入っているようだ。

 まことと無関係を装っていた時から、どことなく本気で楽しそうにしている時があったのを、まことは見ていた。


 まことはこっそりと黒須の友人たちに視線を向ける。

 今ここにいるのは、特によくつるんでいる二人だった。


 生姜焼き定食をがっついているのが、小室。

 目を閉じて味噌汁を美味しそうに啜っているのが、岡崎だった。


 まことは二人とは二年になって初めて同じクラスになったので、どういう人物なのかよく知らなかった。

 しかしここ暫くの黒須とのやり取りを見ていれば、なんとなく分かり始めていた。


 小室は何か運動部に入っていて、よくジャージ姿で授業を受けている。

 そして授業中は寝ている事が多かった。


 岡崎はいつも真面目に授業を受けていて、教師に当てられても難なく問題を解いているのをよく見た。

 テスト前になると、岡崎が小室に騒ぎながら勉強を教えていたから、岡崎は頭が良いのだとまことは認識していた。


 二人は見た目も中身も体育会系と文系という感じだが、気はとても合うようで、黒須や他の数名も交えてよく楽しそうにしている。

 時には真面目に、時にはふざけたりしながら話しているのをまことは見ていた。


 二人とも明るくて社交的な為、女子たちともよく気軽に接している。

 だから今、自分がここにいてもあまり気にしないのかもしれないとまことは考えていた。


「ねぇ」


 不意に話し掛けられて、まことは岡崎に視線を向けた。


「黒須の弁当って、もしかして……」

「え?」


 岡崎はみなまで言わずにまことの弁当を凝視し、続けて黒須の弁当にも視線を向けた。

 まことは意味が理解できずに首を傾げる。


 すると、それを聞いていた小室が何かに気付いたように声を上げた。


「あ!黒須の弁当と結城さんの弁当同じだ!」


 あ。

 そうだった。


 もう変える必要もないかと考え、まことはこの間から同じ内容の弁当にしていた。


 今日のおかずは、野菜の肉巻きとしらす入りのだし巻き卵、それにミックスビーンズとトマトのサラダなどを詰めていた。

 更にそれとは別の容器にマスカットを何粒か持ってきていたが、箱は違えど中身は全く同じ。


 つまり、まことの弁当と黒須の弁当は、明らかに同一人物が作ったものだった。


「まさか、結城さんの手作り弁当!?」


 がたん、と席を立ち人差し指を突き付けて黒須に迫る小室。

 黒須は平然と弁当を食べ続けてから静かに嚥下し、にやりと笑った。


 そして一言。


「そうだけど?」


 当然のように答え、また食べ始めた。


 目を見開く岡崎はわなわなと震え出した。

 小室は目に涙を溜めて、黒須を睨み付ける。


「ま、まさかいつも食ってるうまそうな弁当は、全部……」

「結城さんが作ってるの……?」

「え、うん」


 まことが控えめに頷き、恐る恐る小室と岡崎を見上げる、と。


 ぼろり。

 小室の目から涙がこぼれ落ちた。


「えっ!」


 慌てて岡崎にも目をやれば、そちらも目元を手で覆い震えていた。


「な、なんで……」

「神は不公平だ……」


 まことは言葉が出ない。

 呆然と二人を見つめていた。


 黒須はひとり黙々と食べ続ける。


「黒須ばっかり、ずるい!」

「俺も、結城さんの手料理が食べたい!」


 黒須に掴み掛かりそうな勢いで二人が叫ぶ。

 まことは慌てて席を立ち、二人を落ち着かせようと言葉を探した。


「あ、あの!じゃあ夕飯食べに来ませんか!?」


 静寂が辺りを包み込む。

 微かに降る雨の音が、久し振りに耳に優しく届いた。


「は?」


 その静寂を打ち破ったのは、黒須の怪訝な声。

 まことは自分の発した言葉を理解できずに固まっていた。


 そしてようやく頭が動き出して、とんでもない事を口走ったと気付き、再び口を開こうとしたところで。


「うおおおおおおおおおおおお!」

「いよおおおおおおおおおおし!」


 小室と岡崎が咆哮を上げた。


「ありがとう!結城さん!」

「楽しみにしてる!めっちゃ楽しみにしてる!」


 そう叫び、いつの間にか完食していたお盆を手にスキップをしながら去っていった。


 まことはただ呆然とそんな二人を見送った。

 とんでもない提案をしたことに気付き、夕食の招待ではなく明日の弁当を作ってくる事に変えてもらおうと思ったのだが。


 全ては遅かった。


「記憶、消すか?」


 頭を抱えるまことに向けて、クロが呑気に提案をした。


 クロの提案に、まことは本気で悩んだ。

 しかし結局、二人の記憶は消されることはなかった。


 まことは小室と岡崎と話をしてみて、良い印象を受けていた。

 とても素直で明るくて、楽しい人たちだと思った。


 クロも二人には気を許している様だし、クロの態度が二人には危険がない事を物語っている。


 それだったら、一度だけ。

 招待してみても良いかもしれない。


 咄嗟に言ってしまった事ではあったが、まことはそう考えていた。


 それに、あんなに嬉しそうな顔を見たら、もう断れる気がしない。

 まことは腹をくくって、二人を夕食に招待する事にした。


 そうと決まればまことは早かった。


 昼休みの残りの時間に色々と考えながらメニューを決める。

 そしてスマホからネットスーパーを使って食材を注文した。


 部活のある小室と掃除当番に当たっていた岡崎は、揃って夕方に来ることになった。

 夕食に押しかける手前、どうやら岡崎は気を使ったようだ。

 小室の部活が終わるのを図書室で待って、一緒に来ると言っくれた。


 まことは帰り道にそれをクロから聞いて、やはり悪い人たちではないと確信した。




 帰宅するとまことは政道を探した。


 人を招待するなら、まずは家主である政道の許可を得なければならない。

 今日は外出していなければ良いなと思いながら、境内を行くと、運良く社務所にいたところを見つけ、声をかけた。


「おじさん」

「ああまこと、おかえり」

「ただいま」


 笑顔で挨拶を交わす二人だったが、政道はまことがなんとなくいつもとは様子が違うことに気がついた。

 何か言いたそうにしているのがわかり、作業の手を止めてまことが切り出すのを待つ。


「あの、お願いがあって」


 まことが指を組んで、俯きがちに声にする。

 お願いなどされたことのない政道は喜びと戸惑いを感じながらも、それは表に出さずに落ち着いた声で聞き返した。


「なんだい?」

「今日、友達が、夕食を食べに来てもいいかな……?」


 まことの言葉を聞いて、政道は目を見開いた。

 そしてすぐに顔を綻ばせた。


 政道の記憶にある限り、まことに友と呼べる存在はいなかった。

 それはまこと自身のせいではなく、その特異な体質のせいだったのだが、政道はずっとそれを不憫に思っていた。


 それが今、友達がいるという。

 しかも、家に招待する程の仲の。


 政道はその吉報を受けて、お願いを断るはずもなく笑みを浮かべて大きく頷いた。


「もちろん、構わないよ」

「ありがとう」


 まことはほっとした表情を浮かべると、嬉しそうに笑う。


「じゃあ準備するね」


 社務所を後にするまことを、政道は笑顔で見送った。


 まことに友ができた。

 良かった。

 本当に良かった。


 政道は喜びに満たされながら、いつもまことのすぐ傍で何やら動いているクロを思い出した。


 どんな良からぬ事を考えているのかと内心冷や冷やしていたが、特に悪さをするでもなくただ寄り添うその姿を。


 これも、あの悪魔の影響か。

 心外ではあるが、認めざるを得ない。


 初めは不安しかなかったが、最近のまことを見ていれば良い影響を受けている事は明らかだった。


 政道は感慨深くまことを想う。


「このまま、普通の人生を送らせてやれたら……」


 政道は、どこか悲しげな瞳で呟いた。

 その呟きは誰にも届く事なく、風に消えた。




 自宅に戻ったまことは、食器棚の上から平べったい大きな箱を下ろそうとしていた。


「よい、しょ」


 踏み台に乗って不安定な所へ両手で抱えきれないほど大きなその箱を持っている様子に、堪らずクロが空中に姿を現してまことから箱を取った。


「ありがとう」


 クロが箱を調理台に置くと、踏み台から降りたまことが箱を開けて中身を取り出す。

 出てきたのは円盤型の大きな家電。ホットプレートだった。


 以前に政道が買ったらしいが、使われることなく食器棚の上でずっと眠っていた事に、まことは気付いていた。

 今日は折角の大人数、しかも賑やかな食事になりそうだと考えて、まことは鉄板料理にしようと考えていた。


 箱を片付けてホットプレートを拭いていると、食材も届いた。

 まことは受け取りを済ませると、キッチンに運ぶ。

 クロも黒須として姿を現し、それを手伝った。


 キッチンに全て運び入れると、まことは早速準備に取り掛かった。


 まず、えびの殻を剝いて背わたを取り、いかと豚肉を切る。

 その横では驚くべきことに、クロが包丁を使ってキャベツを切っていた。


 クロはいつからか、まことに習って料理を手伝うようになっていた。

 初めはただ興味深そうに見ていただけだったが、まことが試しにやってみるか聞いたところ、やりたいと即答した。


 卵の割り方、人参の皮の剥き方などから教えていたが、悪魔の特性なのか物覚えが非常に良く、瞬く間に料理を覚えていった。

 その為、今もまこと程の早さではないが、手際よくキャベツを切っていた。


 まことは魚介と肉の下処理が終わると、チーズ、キムチ、天かす、小さく割ったお餅を小さめの器に入れていく。

 更に紅生姜、ソース、マヨネーズ、かつお節もたっぷりと用意した。


 最後に大きなボウルに卵を割り入れて泡立て、水と薄力粉で溶いた生地を作れば、あっという間にお好み焼きの材料が揃っていた。


 一通り準備が終わりふうと一息つくと、ちょうど小室と岡崎が来る時間だった。

 まことはお茶の準備も済ませると、緊張しながら二人が来るのを待った。


 まことの暮らすこの神社は、そこまで大きくはない。

 しかしその格式の高さから、この辺りでは割と有名だった。


 その為、小室と岡崎は迷うことなく辿り着き、玄関で黒須に迎えられた。


「お邪魔しまーす!」

「お邪魔します!」


 黒須の案内で居間に入った二人は、目の前にある料理と食材に歓声を上げた。


「あ!やった!お好み焼きだ!」

「なんかおかずもいっぱいある!」

「すげー!うまそう!」

「あ、結城さんお邪魔します!」


 いきなりのテンションの高さに戸惑いながら、まことも二人を迎え入れる。

 嬉しそうな様子にまことは安堵した。


 よかった。

 がっかりさせてしまったらどうしようかと思っていたが、大丈夫だった様だ。


 とりあえず席を勧めて座って貰った。


 いつもクロと二人で食べている大きな食卓には、今日はたくさんの物が載っていた。

 まず真ん中にホットプレートを置き、その脇にお盆を置いた。

 お盆にはお好み焼きの生地や、先程準備した具材の数々が置いてあった。


 更に、招待しておいてお好み焼きだけではあれなので、おかずもいくつか作って並べてある。

 肉じゃが、水菜と大根とじゃこのサラダ、鮭のフライが大皿に並んでいて、小室などは席に着くよりも前に手を伸ばし岡崎に引っ叩かれていた。


 あまり時間が無かったのでそんなに手の込んだものはできなかったが、二人には受けが良かったようで、まことは密かにほっと息を吐き出した。


「クロ、焼いてくれる?」

「ああ」


 みんなが座ったところでまことが黒須に声をかけた。


 いつも通りに何気なく呼んだのだが、小室と岡崎が大袈裟なくらいに驚いた顔をした。


「「クロ?」」


 どうやら、まことの黒須の呼び方に反応したようだ。


 暫くすると驚き顔からぱあっと表情を明るくする二人。

 そして徐に黒須の肩にぽんと手を置くと、


「クロ!」

「いいね、クロ!」


 満面の笑みで自分たちも呼びかけた。


「……好きに呼べよ」


 黒須は盛大なため息を吐きながら、ホットプレートに油を敷く。

 そして、慣れた手付きで油を伸ばしながら小室と岡崎に視線を向けた。


「お前らトッピングは?」

「うーんと、豚とキムチとチーズ!」

「俺えびといか!」


 それを受けて、黒須はホットプレートに魚介と豚肉を並べて炒め始めた。


 まことは二人に冷たいお茶を出してから、手際よくお椀に生地を取り分けキャベツや天かすを加えて一枚分ずつ種を作る。

 その内の一つにはキムチとチーズを混ぜ込んだ。


 小室と岡崎はまじまじと、手分けしてお好み焼きを作るまことと黒須を見ていた。


「結城さんは料理上手だとは思ってたけど」

「クロもうまいなぁ」

「そうか?」


 黒須はそうでもないと言いながら、まことから無言で種を受け取り、焼き上がった魚介と肉の上にそれぞれのせて焼いていく。

 綺麗な円形に整えられたそれを見れば十分手際がよく、まるで夫婦でお好み屋を営む店に来たような錯覚に陥った。


 黒須が見事な手付きでお好み焼きを引っくり返せば歓声が上がり、ふたりは肉じゃがやフライに手を伸ばしながら楽しそうに焼き上がるのを待っていた。


「えっ、何この肉じゃが!?まじでうまい!」

「こっちのサラダも食ってみ!止まんない!」

「俺が今まで食ってたフライって何だったんだ……」

「ああ、サックサクのホックホク……」


 漸く両面に焦げ目が付くと、黒須がお好み焼きを皿に取りまことに手渡した。

 まことはそこへソースとマヨネーズを掛け、かつお節をたっぷりと載せる。


 最後に青のりと紅生姜も載せて二人の前に置けば、小室も岡崎も目を輝かせていた。


「うまそー!」

「いただきます!」


 まことはどきどきしながら二人が食べる様子を見ていた。

 黒須はまことと自分の分のお好み焼きを焼き始めていて、見てもいない。


「あー!うっま!」

「はふっ、はふっ、んまあ……」


 まことの心配を他所に、小室と岡崎は至福の表情を浮かべて頬張る。

 熱くてなかなか食べられないもどかしさを顕にしながら、それでもばくばくと凄い勢いで食べていた。


「結城さん、まじでうまい!」

「最高!」


 一枚ずつぺろっと食べてしまうと、二人はまことに興奮しながらそう言った。


 まことは嬉しくなって、自然と笑う。


「良かった」


 頬を染めて、目一杯の笑顔でそう応えれば、二人は呆けたような顔になった。


「……うわ」

「か、可愛い……」


 ごくごく小さな声で呟かれたそれは、まことの耳には届かない。


 しかし、黒須の耳にはしっかりと聞こえていた。


「ほら、焼けたぞ」

「うわ!」

「危なっ!」


 熱々に熱せられたヘラに焼きたてのお好み焼きを載せて、黒須は小室と岡崎の目の前に突き出していた。

 小室と岡崎は慌てて皿を出してそれを受け取る。


 そうしている間に、黒須はまことのすぐ隣に行くと、かつお節やマヨネーズの載ったお盆を二人の方へ押し出した。


「ここからはセルフサービスだ」


 そして、同じく焼きたてのまことの分のお好み焼きをまことへと手渡す。


「ほら。えびとチーズでいいよな」

「うん、ありがとう」


 嬉しそうに微笑むまことに、穏やかに微笑み返す黒須。

 その二人の表情を目の当たりにすれば、小室と岡崎は何となく色々と悟ったのだった。


 わいわい騒がしくお好み焼きを食べていると、すっと襖が開き政道が顔を出した。


「やあやあ、こんばんは。よく来てく……」


 いかにも保護者ですという感じで挨拶を始めたが、しかし途中でぴたりと言葉を止めた。


「……まこと、今日来てくれたお友達はこれでみんなかな?」

「うん」

「そうか、ゆっくりしていきなさい」

「「はい!ありがとうございます!」」


 想像していたのとは違い中々に野太い声を受けて、政道は頬をひくつかせた。


 てっきり、女の子の友達が来るのだと思っていた。

 それがまさか男三人とまことひとりだとは、政道は思いもよらなかった。

 いやひとりは姿を変えたクロか。


 政道は引きつる笑顔を貼り付けたまま、まことを見る。

 まことは実に楽しそうに笑っていた。


 それを見て、政道は心の中で首を振った。

 いや、例え男だろうと友人が出来たのだ。

 多少もやっとはしたが、これは素直に喜ぼうと思い直した。


「それじゃあ、私はまだ仕事があるので失礼するよ。たくさん食べていってね」

「「はい!ありがとうございます!」」


 廊下に出た政道は、涙の浮かぶ目元をそっと拭って社務所へと戻っていった。


「ああー、食いすぎたぁ」

「でも、うまかったー」

「なー、ほんとはもっと食いたいもん」

「でもこれ以上食ったら腹が破れるぞ」

「なー」


 結局、小室と岡崎はそれぞれお好み焼きを五枚も食べた。

 しかも他の料理も見事に完食していた。


 まことは二人のあまりの食欲に呆気にとられながら、消えゆく料理を終始眺めていたのだった。


「結城さん、今日は本当にありがとう」

「凄く美味しかった!ごちそうさま!」


 そう言いながら、二人は満足げに腹をさすりつつ靴を履く。


「どういたしまして」


 と返せば、にかっと笑いかけられて、まことは何だか面映さを感じた。


 まことは、こんなに賑やかな食事は初めてだった。


 生まれ故郷で母と祖母と食べていた時は、多少の会話はあっても静かな食事だった。

 こちらに来てからは殆どひとりきりで、当然会話などない。

 クロが現れて二人にはなっても、どちらかといえばやはり静かだった。


 それが今日は、兎に角騒がしく、笑いに溢れ、たくさん食べた。


 まことはつい先程までの光景を思い出して、ふふっと笑ってしまった。

 そして、笑いの収まらないまま、


「楽しかったね」


 石段を降りていく小室と岡崎の後ろ姿を見送りながら、ぽつりとそう言った。


 クロは黒須の姿のまま、そんなまことの頭を撫でる。

 まことが本当に楽しそうな様子に、クロも自然と頬が緩んだ。


 今回ばかりはあいつらも良い働きをしてくれた、と心の中で二人を讃える。


 クロは絹のような手触りの髪を指に絡ませながら、囁いた。


「良かったな」


 まことはそんなクロを見上げて、笑う。

 楽しかった、という気持ちがそのまま現れた笑顔だった。


「うん」


 まことが頷くのと同時に、クロはするりと髪を開放する。

 髪は重力に従って真っ直ぐに落ちていった。


 クロは肩口から新たに髪を一房掬い上げると、口元に引き寄せて香りを吸い込む。


 甘い、甘い香りがクロを満たした。

 その香りに酔いしれたまま、クロは口を開く。


「でも」


 息を吐き出すのと当時に囁けば、まことが首を傾げた。

 クロはそんなまことを漆黒の瞳で見つめ、一言。


「俺はお前と二人がいい」


 その髪もさらりと手放すと、そう続けた。


 まことは少しだけ頬を染めて、微笑んだ。




 翌朝。


「結城さんおはよ!」

「昨日はありがとう!」


 黒須と登校するなりにこやかに声を掛けられて、まことは戸惑った。


「小室くん、岡崎くん、おはよう」


 慌てて挨拶を返せばふたりはにっこりと笑みを深め、黒須が少し不機嫌に声を上げた。


「おい」

「あ、クロもおはよー」

「おっすクロー」

「……」


 なんだか黒須の人格がクロに近付けば近付く程、扱いが雑になっていくのは気のせいだろうか。

 クロは二人をじとりと見て、ため息をついた。


 小室と岡崎はクロの反応は特に気にせず、再びまことに話し掛けた。


「あのさ、今日帰りに駅前のファミレスに行こうって話してたんだけど、一緒にどう?」

「昨日のお礼に奢るよ?」


 突然の提案にまことは驚きも新たに二人を見つめる。


「実はさっきクーポン貰ってさ、こいつから」

「こいつ言うな!」

「いてっ!」


 小室の背中をべしっと叩いて顔を出したのは、まことにとって因縁のある相手。

 嘗てまことを虐めていた、村上だった。


「村上このファミレスでバイトしてんだって」

「……」


 まことと村上の関係は、クラスの誰もが知っている。

 それでも小室は、何でもない様に話を振った。


 それに対して、村上は何も言わずに、俯きがちにまことの前に立ち尽くしていた。


 あの一件の後、三日程体調不良で休んだ村上だったが、その後復学してからまことに絡むことは無くなっていた。


 お互い一切接触せず、周りも何も言わない日々。


 大きな憎悪をクロに奪い取られて倒れ、精神の崩れを心配したが、普通に過ごす村上を見てまことは安心したのだが。

 反対に村上は、誰にも責められないことに、苦しんでいた。


 クラスメイトに酷いことをした。

 いつ怪我をしてもおかしくないような事までした。

 たくさん傷付けて、傷付けて、傷付けた。


 悪いのは自分だって、分かっていたのに。

 それでも、謝っていなかった。


 他のクラスメイトたちはまるで禁忌であるかのように、それには触れない。

 その事が、密かに村上を苦しめ続けていたのだった。


 今の村上からは、クロもまことも悪意は感じない。

 村上はただ気まずそうに、まことの前に立っていた。


 なにか言いたそうにして、言えない素振りを繰り返す。

 それでも漸く、


「よかったら、来てよ。私も何か……奢るから」


 村上は消え入りそうな程小さな声で、まことに言った。


 まことは、言葉が出てこなかった。

 今までこんな事は無かった。


 関係を悪くしてしまった相手と再び向かい合えるチャンスなんて、これまで一度だって無かった。


 まことは言葉にならないまま、口を動かす。

 何か言いかけて、声が出なかった。


 村上が、何も言わないまことをゆっくりと見上げた。

 酷く頼り無げな視線に、まことの心が激しく揺れた。


「あの、」


 まことがやっと話し始めるのを、小室も岡崎も黒須も黙って見守っていた。


 行きたい。

 この誘いだけは、断りたくない。


 きっと、行けたら、それはとても楽しい時間を過ごせる予感がした。


 昨夜の夕食の様に、みんなで騒いだりして。

 レストランだから怒られてしまうかもしれない。

 でもきっとみんなは、失敗したねって笑うだろう。


 そんな未来が想像できた。


 そんなの、きっと、最高に楽しい。


 でも。


「……ごめんね、とっても行ってみたいんだけど、……行けなくて」


 まことは丁寧に返事を返した。

 行きたいという気持ちそのままに、言葉にした。


 今までは必要以上の言葉をあえて使わないように気を付けていたが、自然と気持ちが溢れ出ていた。


「そっか、……なら仕方ないね」


 村上は残念そうにまた俯いた。

 しかし、ぱっと顔を上げるとまことを正面から見た。


 ちゃんと視線を合わせて、宣言する。


「また、誘うから」


 その瞳には強い意思が宿っていて、まことは溢れそうになる涙を必死に堪えていた。


「……ありがとう」


 そうか。

 こうしていれば良かったんだ。


 もっとちゃんと、話していればよかった。


 言葉を交わせば交わしただけ、悪いことが起きると思っていた。

 だから、極力目立たないようにしてきたけれど。


 でも、初めから諦めていてはいけなかったんだ。

 まことが村上に笑いかけると、村上もぎこちなく笑う。


 絡まりあって決して解けないと思っていた糸が、いとも簡単に解けたように感じた。


 黙って見守っていた男三人も、いつしか微笑みを浮かべていた。

 小室はぱっと黒須に向き直り、肩にぱんっと手を置いた。


「クロは行くよな!」

「な!」


 岡崎も小室に習って逆の肩に手を載せたが、黒須は両手でそれぞれの手を払い落とした。


 そして、冷たく言い放つ。


「行かない」

「「そう言うと思った」」


 小室と岡崎が軽く笑い飛ばせば、みんな笑顔になった。


 教室には悪意が生まれることはなく、笑いが生まれていた。

 その中で、まことはまるで生まれ変わったような気持ちを味わっていた。




「よかったのか?」


 放課後、ファミレスへ行く友人たちと校門で別れ、いつもの帰り道を歩いていると、クロが聞いた。


「うん。私は、行けないから……」


 奥歯にものが挟まったような、まことらしくない言い方だった。

 クロはそれに引っ掛かりを覚えて、少し首を傾げた。


「行きたいなら、行けばいい」

「……うん」


 クロがそう言えば、まことは少し俯いて頷く。


 学校ならまだしも、見知らぬ人で溢れ返る人混みはやはりまだ不安なのだろうか。

 いくらフォローするとはいっても、唯でさえ犯罪の生まれやすい市街地。


 恐らくまことは、友人たちにも及ぶかもしれない悪い可能性を考えて、行かないという選択肢を選んだのだとクロは理解した。


「俺が守ってやる」


 敢えてそう言葉にしてやると、まことは顔を上げた。


 そしてどこか儚く、しかし嬉しそうに笑う。


「ありがとう」


 クロはなぜか、その顔がまぶたに焼き付いて離れなかった。


 まことは唐突に普段の表情に戻ると、今日はね、と切り出した。


「予定があるの」

「予定?」

「うん。結婚式」

「ああ」


 そういえば、この間そんな事を言っていた。


 今日だったのか。

 今日は予定もあり行けなかったのだと判り、クロはそれ以上はもう何も言わなかった。


 きっと遠くない未来に、また機会はやってくる。

 その時にはもう少しだけ背中を押してやろう。

 そう考えながら、まことと並んで神社まで帰ってきた。


 境内には、梅雨時にも関わらず陽が差していた。


 雨の季節の貴重な晴れ間。

 結婚式という人生に於いて大切な日に、天気も味方したようだった。


 お社や社務所には普段は見かけない神職や巫女が何人かいて、結婚式の準備に取り掛かっていた。

 まことは彼らと挨拶を交わしながら、家へと向かう。


 普段なら境内で姿を消すクロも人目に配慮してか、しっかり玄関に入ってから姿を消した。


 まことは着替えを済ませ、洗濯物を片付けていると、


「まこと」


 今日は特に忙しい筈の政道が自宅へやって来て、まことに声をかけた。

 その雰囲気から、どうやらまことの帰りを待っていたようだ。


「すまない、頼みがある」

「あ、はい。すぐに行くね」


 まことは慌てて洗濯物を抱えて立ち上がる。

 しかし、政道はやんわりとそれを静止した。


「いや、頼んであった雑用じゃないんだ」

「え?」

「実は、今日舞を舞う予定だった巫女が事故にあってな」

「えっ!」


 予想外の話に、まことは慌てた。


 いつも舞を舞ってくれる巫女は、まことも何度も顔を合わせているし、会話も交わす間柄だった。

 それが事故に遭ったなどと言われれば、当然心配し取り乱した。


 政道はそれに気付き、直ぐにまことに取り繕う。


「ああ、事故自体は大したことないんだ」


 片手を振り、怪我もそれほど酷くない旨をまことに伝えた。

 しかし政道は、安心するまことを眺めると、振っていた手を持ち上げ困ったという顔で頭をかいた。


「ないんだが……」

「どうしたの?」


 まことが聞けば、政道は言いにくそうに口を開く。


「足を捻挫してしまってね」

「足を……」


 それだけで、次に何を言われるのかまことは悟った。


 政道はその頼みを、躊躇いながらも声にする。


「代わりに舞ってくれないかい?」


 それを受けて、まことは目に見えて動揺していた。

 姿を消したまま傍にいるクロにも、それはよく見えた。


 政道は何も言わずに、まことがどう応えるのか反応を待つ。

 結婚式で舞を舞う巫女がいなければ非常に困るのだろうが、だからといってまことに無理強いをする様子はなかった。


「おばあちゃんは、なんて?」


 考え込んでいたまことが、政道に聞いた。

 政道は、苦笑するとそれに答える。


「今回だけお許しをもらったよ」


 それを受けて、まことは意を決したように頷いた。


「じゃあ、……わかりました」


 まことが頷けば、政道は安堵とも恐れともいえない難しい顔をした。

 しかし直ぐに笑顔を浮かべると、頼んだよと言って式の準備に戻っていった。


 何をそんなに悩んでいるのか、クロにはわからなかった。


 巫女の舞がどんなものなのかは、サクラの知識でなんとなく理解している。

 だがそれを舞うことが、何故ここまでまことを悩ませるのか。


 今のクロには想像もできなかった。




 夕方、黄昏時と呼ばれる時間に差し掛かり、灯篭に火が灯される。


 普段は灯ることのないその火が、元より厳かな雰囲気をより一層幻想的なものに変えていた。


 社務所の更衣室で支度を済ませたまことは、草履を履いて境内へと出た。

 その姿は、白衣に緋袴を身に着け、千早を纏っている。


 艷やかな黒髪は一纏めに和紙で包まれ、水引で留められていた。

 額の上には金色の前天冠がきらきらと光を反射しながら載っていて、まことの顔を華やかに彩っている。


 クロはそんなまことを目にした瞬間、動けなくなっていた。

 姿を消したまま、桜の木の上からいつもとは違う神社の様子を眺めていたのだが、今はもうまこと以外目に入らなかった。


 薄っすらと化粧が施された色白の顔。

 その唇には自然な色味の紅が引かれていた。


 ごくり、と唾を飲み込む事で、クロは漸く動けるようになった。


 クロは自分のいる桜の木の方へと歩いてくるまことを見つめたまま、そこに姿を現す。

 葉の茂みの中なので、他のものには死角となっていた。


「クロ」


 見慣れない姿ではあるものの、いつも自分に向けられる笑顔を浮かべるまことに、漸くクロは余計な力が抜けた。


「よくわかったな」

「サクラが教えてくれた」

「もう始まるのか?」

「うん」


 新婦の着付けも無事に終わったらしく、参列者もちらほら境内の方へと姿を現し始めていた。


「ここから見てるの?」

「ああ」


 問いかけに簡潔に答えるクロに、まことは少しだけ視線を逸して、ささやかな願いを口にする。


「舞は見ないでね」

「なぜ?」

「恥ずかしいから」


 クロがじっと見つめると、まことは気恥しそうに俯いた。

 どうやら巫女装束を見られるのすら恥ずかしそうな様子に、クロは湧き上がる衝動をぐっと抑えた。


 まことは衣装を自ら見下ろして、呟く。


「本当は、あんまりこういう事しちゃいけないんだけど……」


 クロはその理由が分かる気がした。


 まことが何か行動を起こせば、それは同時に僥倖も厄災も同等に呼び寄せるだろう。

 それが儀式的なものになれば、何らかの作用をより起こしやすくなる事は想像に容易かった。


「頑張れよ」


 クロはそれだけ伝えると、また姿を消した。

 まことは桜の木に向かって微笑むと、踵を返して社務所の方へと戻っていった。


 石段の上辺りに人が集まり、それを神職の一人が誘導してニ列に並ばせる。

 列が整ったところで、前のものから順番に御社へ向かって歩き出した。


 先頭を歩いてくるのは二人の巫女。

 その内のひとりがまことだった。


 その後ろから、紋付袴姿の新郎と白無垢を身に纏った新婦、更に親族らが長い列をなして歩いていく。

 静かな境内にはざり、ざり、と言う足音だけが響いていた。


 クロは境内の奥にある桜の木から降り、姿を消したままそれを見ていた。


 列が御社の内側へと入り、それぞれ指定の位置に着席すると、結婚式が始まった。

 式はもちろん政道が執り行ってゆく。


 時折雅楽の生演奏が響き渡る中、滞りなく進んでいった。


 まことは要所要所で的確に役割をこなし、式の進行を見守る。

 普段それほど巫女の仕事はしていないにも関わらず、かなり板についていて、もう一人の巫女とは全く違った空気を纏っていた。


 新郎新婦が誓詞を読み上げ、指輪の交換も済むと、遂にまことが神楽鈴を手に新郎新婦の前に歩み出た。

 まことは参列者の眼前の中心に立つと、一度すっと目を閉じる。


 そして再び開かれた時、巫女の舞が始まった。


 クロはそれを、姿を消して見ていた。

 先程の見ないでの願いには了承していないので、端から約束になっていない。

 姿は消しているものの、参列者のすぐ後ろから堂々と見ていた。


 しゃりん、と鈴が鳴る。

 すっと弧を描く腕に、袖が柔らかく舞い上がった。


 足音も立てずに緩く回れば、緋袴もふわりと揺れる。

 まるで、地から足が浮いているようにクロには見えた。


 しゃりん、しゃりん。

 涼やかに、清浄に、高く澄んだ音が響く。


 音自体は小さいはずなのに、その音色に合わせて辺り一体の空気が震えているように感じた。


 まことが顔をこちら側へ向けて、視線を下方へと移す。

 すっと流れるように、どことも取れない一点を見つめる瞳に、クロはいつしか胸を押さえていた。


 苦しい。

 心がぎゅっと締め付けられる様に、苦しくて痛い。


 クロは動くことも、瞬きも忘れてまことを見つめていた。


 その顔を、その瞳を、まともに見る事ができない。

 しかし、目を逸らす事もできなかった。


 しゃん、と再び鈴が鳴らされる。

 神社の周りの空気が一瞬にして浄化されたのがわかった。


 まことの力に引き寄せられて、神社の遥か外から遠巻きに漂っていた悪しきものたちは、一瞬にして消滅していた。


 これだけの清浄効果となると、悪魔であるクロにも影響はありそうなものだったが、クロは契約しているからか、何の影響もない。

 そういえば召喚された時から、何の抵抗もなかった。


 もしかすると、この神社の御神木であるサクラがクロを呼び寄せたからかもしれないと、クロはこの時に気がついた。


 クロはゆっくりと舞うまことを、その目に焼き付けていた。


 しゃららら、と鈴を振れば、新郎新婦の二人に加護が与えられたのがわかった。

 どうやら、まことの願いが舞によって付与されているようだ。


 能力がなくても、願い舞うだけでそれが出来てしまうというのが恐ろしい。

 きっと、この舞自体がひとつの術なのだろうとクロは理解した。


 クロは、まことの舞に釘付けになっていた。


 ずっと、時を忘れてしまう程、魅入っていた。




「クロ」


 結婚式も終わり、新郎新婦を始めとする参列者たちは披露宴会場に移動していった。


 それを見送ってから桜の木の元へやって来たまことに呼ばれて、クロは姿を現した。


「どうだったかな」


 見ていたのはとうにばれていたようだ。


 しかしまことは怒ることもなく、少し照れた様子でクロに感想を求めた。


「ああ」


 クロは、それだけ応えた。

 なんと言えばいいのか、言葉が全く出てこない。


 それでも心に浮かびあがった感想を、ぽつりと伝えた。


「綺麗だった」


 そう。

 ただひたすらに、綺麗だった。


 あんなに何かを美しいと思ったのは、初めてだった。


 今この瞬間も鮮明に覚えている。

 あの姿を忘れることは、きっと永遠にないとさえ思った。


 それくらい、クロは衝撃を受けた。

 それくらい、心を揺さぶられていた。


 クロの頬を、涙が一滴流れ落ちた。


 まさか、感動しているのか?

 悪魔が、巫女の舞に?


 戸惑うクロに、まことが近づく。

 まことは手を伸ばしクロの頬に添えると、指先でその涙に触れた。


 そして何を思ったのか、そのまま唇を寄せ、そっと吸い取った。


 それはいつか、クロがしたように。


「舞を見た対価に、貰うね」


 まことは頬を赤らめて、微笑んだ。

 それを目にした瞬間、クロはまことを抱きしめていた。


 前天冠についた飾りがしゃりん、と小さく鳴った。




「あの、クロ、着替えてくるね」


 どれだけの時間そうしていたのか、まことの躊躇いがちな声でクロは我に返った。


「……ああ」


 腕から開放してその顔に目をやれば、頬を染めて恥ずかしそうに俯くまこと。

 クロはその表情に再び抱きしめそうになるが、なんとか我慢する。


 離れた温もりに大きな未練を残しつつ、クロは姿を消した。


 まことも、クロのいた場所を暫くみつめてから、自宅へと歩き出した。


 クロは以前まことがサクラに願ったことをサクラから聞いてから、着替えや風呂の時は自ら離れるようになっていた。

 まことは自宅の洗面室で巫女装束を脱いで、メイクをシートで落とし始める。

 ひとり洗面所で鏡に向かい、自分の顔を見つめながらぼんやりと手を動かしていた。


 そこに映る顔は、まだ赤く色づいてる。

 抱きしめられた身体も熱い。


 あんなに強く誰かの腕に包まれたのは、初めてだった。


 まことはメイクを落とし終えると浴室に入り、丁寧に身体を洗ってからゆっくりと湯船に浸かった。

 お湯のせいだけでなく、顔が、身体が熱くて、すぐにのぼせてしまいそうだった。


 クロの涙があまりに綺麗で、感動してくれたのが嬉しくて。

 なんだかとても、愛しくて。

 つい、あんなことをしてしまった。


 それだけでも信じられないのに。

 抱きしめられて、とても安心した。


 どきどきして胸が苦しいのに、離れたくなかった。


 もっと、抱きしめていて欲しい。

 強く、強く。

 決して離れることなく。


 ずっと、抱いていて欲しい。

 なんて。


「……」


 ぱしゃん。


 まことは堪らず湯船のお湯で顔を洗う。

 熱を増す頭を冷ませるかと思ったが、当然お湯では意味はなく、ただ余計にのぼせただけだった。


 お風呂から上がり、まことは下着を身に着けて髪を乾かした。


 丁寧に櫛で梳きながら再び鏡に目をやれば、顔の赤さはさっきまでよりも酷い。

 パジャマを着て部屋にそのまま戻ろうかと思ったが、少しのぼせた気もするし、まことは縁側に立ち寄る事にした。


 涼やかな夜風に当たりたい気分だった。


 カーディガンを手に縁側に来ると、すでに雨戸は開け放たれていて、先客がいた。


「クロ」

「ああ」


 クロは時々、こうして自ら姿を現していることがある。

 そういう時は大体、雲が流れていくのを眺めていたり、雨の音を聞いたりしている様だった。


 まことは何も言わずにクロの隣に腰を下ろす。

 ふたりでぼんやりと夜空を眺めた。


 都会にあるこの神社はいくら高台にあると言っても、街が明るすぎて星はあまり見えない。

 時々流れていく雲を見つめながらのんびりと涼んでいた。


 まことは空から視線を隣に移した。

 夜の中では銀色に輝くクロの髪と瞳が、きらきらと光って見えた。


 視線に気づいたクロも、まことに目を向ける。


「どうした?」

「綺麗だな、と思って」


 クロは何と返そうか逡巡したが、そうかとだけ呟いた。


「星空みたい」


 まことがそう言うと、クロは視線を空へと向ける。


「ここはあまり見えないな」

「うん。しょうがないよ」


 残念そうにまことは頷くと、自分も空へと視線を戻した。


 ここは星があまり見えない。

 故郷で見た満天の星空が、きっと懐かしいのだろう。


 クロは、見えない星を見つめるまことに宣言した。


「見せてやる」


 まことは意味が分からずに、クロに視線を向けると首を傾げる。

 すると、その目の前でクロの背中が蠢き、あっと言う間にコウモリの羽のような翼が生えていた。


 クロはただ、まことの喜ぶ顔が見たかった。

 まことが星を見たい思うのなら、見せてあげたかった。


 式台に降り立って手を差し出せば、まことは躊躇いがちにその手を取った。


「何処に行くの?」


 聞きながら、まことも立ち上がる。


 クロはにやりと微笑むと簡潔に答えた。


「空の散歩」

「散歩?」

「ああ。もう少し上に行けば星が見えるかもしれない」


 どうやら空へと飛び立って、星を見せてくれようとしているようだ。


 まことは少し考え込んで、頷いた。


「じゃあ、少しだけ。この近くだけなら行ってみたい」


 まことはクロの気持ちが嬉しくて、薄く微笑むとそう返した。


 答えるや否や、クロはまことの手を引く。

 一気に懐まで引き寄せると、そのまま両腕で抱き締めて、空へと飛び立った。


「寒くないか」

「大丈夫」


 翼を羽ばたかせながら聞くクロに、まことがぎゅっとしがみついて答える。

 次第に高度を増していけば、しっかりと背中に腕を伸ばしてぴたりとクロに掴まった。


 ある程度の高さまで昇り、クロは羽ばたきを止めた。

 そこから夜空を見上げてみても、地上から見るそれと対して変わらない。

 上空に来ても、眼下が明るすぎて星はあまり見えなかった。


 もっと上がることもできるが、まことは生身の人間だ。

 寒さも息苦しさも増すだろうし、現実的ではなかった。


 クロは気落ちしながらまことへと視線を向けた。


 すると、


「凄い、綺麗」


 まことは、空を見上げてはいなかった。

 星などよりもよっぽど眩く煌めく夜景を見下ろして、まことは嬉しそうに微笑んでいた。


 その瞳には人工の光が大量に映り込み、きらきらと輝いて見えた。


 ああ。

 はやり、美しい。


 クロは星空も、夜景にも興味をなくして、まことだけを見つめていた。


 暫く夜景をうっとりと眺めていたまことだったが、不意にクロを見上げてくすりと笑みを浮かべた。


「ありがとう、対価をあげなくちゃ」


 まことは嬉しそうにそう告げる。

 しかしクロは、


「いらない」


 素っ気なく断った。


 星を見せて欲しいと願われた訳でもない。

 ましてや、ここまで連れてきたにも関わらず、星を見せられていない。


 そんな状況で頷ける筈はなかった。


「でも、」


 何か言いたそうなまことを、クロは至近距離から見下ろす。

 控えめに見上げるまことと、視線が合った。


 そして、


「あげたいなぁ」


 まことは、ぽつりと呟いた。


 それが耳に届いた瞬間、クロは自分の中で何かが弾けたような気がした。


「……じゃあ」


 まことを抱いていた腕をそっと緩める。

 重力制御の力を使っているので、多少離れても落ちることはない。


 腰に回していた右手をゆっくりと背中に滑らせると、まことがくすぐったそうに僅かに身をよじった。

 クロは構わずにそのまま手を上へと動かしていき、項の辺りまでくると、指に髪を絡ませる。


 艶のある黒髪は絡めた指をすり抜けて、はらりと落ちた。


 クロは落ちた髪には未練を見せずに、また項に指先を添わせる。

 まことはその感覚にびくりと小さく震えた。


 顔を覗き見れば、さっきのくすぐったそうな表情によく似ていたが、その裏にはさっきはなかった熱のようなものが見て取れた。


 クロはまことの鎖骨をなぞる様に指先を動かし続ける。

 首をゆっくりと撫であげれば、まことがこくりと唾を飲み込んだのがわかった。

 最早、その顔は赤い。


 手を耳元まで滑らせると、クロはその顔を見つめた。

 頬は朱に染まり、瞳は少し潤んでいる。


 しばらくそのしっとりとした表情を見つめていると、まことの薄く開いた唇から微かなため息のような吐息が漏れた。

 それを合図とするように、顔を近づけていく。


 まとこは抗うことも拒否することもせずに、目を閉じた。

 クロは誘われるように、唇を重ねた。


 生気を奪うためでも、心を惑わすためでもない。

 人間同士がするような、ただ触れ合うだけのキス。 


 なのに、クロは今まで感じたことのない感覚を抱いていた。


 ぞくぞくする。

 まこととの触れ合いがあまりにも心地良く、あまりにも蠱惑的で、心がざわざわと波立った。


 クロは初めての感覚の正体を知るために、手を伸ばしていく。


 甘い。

 以前に少しだけ味わった時よりも。

 ずっと、ずっと甘い。


 一度知ってしまったら、もう忘れることなどできない。

 その味は、まるで麻薬のようだった。


 触れ合っただけの唇から、吐息が漏れた。

 どうやらまことは息を止めていたようで、苦しくなったようだ。


 唇の端から漏れたその熱い吐息すら、味わいたい。

 クロはその欲求を抑えて、少しだけ唇を離した。


 まことに息をさせてやると、はあっと少し苦しそうに呼吸を繰り返した。

 そんなまことの顔は、さっきよりも遥かに色づいている。


 息の乱れが落ち着いたところで、クロは再び顔を寄せた。

 まことはその意味を理解して、また瞼を閉じる。


 今度はその口元を覆うように口付けた。


「んっ」


 まことは驚いて目を開けたが、視線の先にあったまっすぐ自分を見つめる夜空色の瞳に囚われて、逸らせなくなった。


 クロはいつも食事の時にしていたように、まことの唇を吸い上げる。

 今は肌の触れ合いだけだというのに、最早止められそうもなかった。


 飢えているわけでもないのに、その味はどこまでも甘くまろやかで、もっともっと味わいたいという衝動が込み上げる。


 まことは今度は息を止めるのも忘れて、クロに応えていた。

 何度か刺激されて、閉じていたそれを開く。

 決して力ずくではなく、強制するでもなく自然と開かれていった。


 充分となった隙間から、クロがキスを深いものにしていく。

 まことは掴んでいたクロの服をぎゅっと握りしめてそれを受け入れた。

 初めての刺激に、まことが震える。

 それを快感からのものだと理解したクロは、少しずつ本能のままに進んでいった。


「……っ」


 動きに合わせて、時折僅かに離れた隙間から甘い吐息が漏れる。

 クロは身震いするような気持ちを抑えながら、その吐息ごと味わった。


 もっと。もっと。

 クロはその先を求めるべくしっかりと唇を合わせて、深く絡ませる。

 まことも辿々しくも応えるように、クロの動きに合わせていった。


 夢中になったクロがつい首筋に触れると、まことはたまらず顔を背けた。

 離れた唇から熱い吐息を漏らしながら、濡れた瞳と口元を微かに震わせる。


 クロですら初めて見るあまりにも扇情的で妖艶な光景に、喉が鳴るのを抑えられなかった。


「……まこと」


 こぼれ落ちたクロの声は、少し掠れていた。


 まことはそれに応えるようにクロへゆっくりと視線を戻し潤んだ瞳で見上げると、控え目に首へ腕を回す。

 そして、再び深く口付けを交わすのだった。




 クロにかかっていた成約は、いつの間にか全て解けていた。


 生気を奪うつもりはなかったのだが、有り余る力を抱えたまことから溢れ出るそれを、無意識に口付けから吸収していたようだ。


 意図した訳ではなかったが、これで本来の力が使える。

 召喚に応じた時のように、また時空を超えることもできるようになっていた。


 もっと、星の見えるところまで。

 それどころか別の世界へも連れて行く事ができるようになった。


 クロはまことを横抱きにすると、街の明かりの少ない方向へ向きを変える。

 まことに、今度こそ故郷の星空を見せてやりたかった。


 しかし、そこで、まことがはっと息を呑んだ。


「だめ!クロ!」


 まことの切羽詰まった声に驚いた。

 こんなに慌てたまことの声を聞いたのは、初めてだった。


 クロは明らかに様子のおかしいまことに視線を向けた。

 先程までの夜景の明るさは無くなり、その顔には薄暗い影が掛かっている。


 その影の奥で、まことが震えていた。


 そこは今までいた都心上空ではない。

 一瞬の内に空間転移し、二人は東北上空にいた。


 空には、見せたかった満天の星空。

 しかし、クロもまこともそれを見上げることはなかった。


 ぞわ、とクロは悪寒を感じた。


 何かがいる。

 それを察知し、まことをしっかりと抱き直した。


 クロは片腕でまことを支え、もう片方の腕をその気配へと向けた。


 何だ?

 何が起こっている?


 クロは状況を飲み込めないまま身構えた。


 まことの震えは、治まらない。

 明らかな恐怖を感じ取っているようだった。


 ぎゅっと、クロの服を掴むまことの手は、白い。

 顔は真っ青になり、クロと同じく差し迫るものを見つめていた。


 不快でしかないその気配は、物凄い速度で文字通り飛んできた。


「なんだ、あれは……」

「!」


 クロが呟いた、次の瞬間。

 どん、と爆風のような衝撃が二人を襲った。


 気付けば二人は、巨大な黒い影の塊に呑まれていた。




 そこは、温度も、湿度も、匂いも、音も、光も、何も感じなかった。

 真っ黒な霧の中にいるような、異様な空間だった。


 クロは気配を研ぎ澄ませて辺りを注意深く見回す。

 しかし、何も感じなければ見えもしなかった。


 ただ、腕の中のまことだけが、確かにそこにいた。


「……逃げて、クロ」


 まことが、震える声で囁いた。


「お願い、今すぐここから……」


 まことが最後まで言い切る前に、霧の中を何者かの意識が飛んできた。

 それは空を切って一直線にクロへ、そしてまことへと向かってくる。


 そして、警戒の為にかざしていたクロの腕を力づくで吹っ飛ばすと、そのまままことを抱えるクロの身体にぶつかった。


「くっ……」

「クロ!」


 クロの腕は、無残に千切れ飛んでいた。

 腕のあった場所からは、血が滴り落ちる。


 身体を捻ってその身で庇った為、まことに傷はない。

 クロは、それにほっと安堵しつつ、ぶつかって来た相手を見た。


 それは、異様な姿をしていた。


 意識体とでもいうのか。

 明確な輪郭はなかった。


 もやもやとした影のようなものに、紅く丸い目玉が二つついた、それ。

 禍々しい気配を撒き散らしながら、クロとまことを凝視していた。


 影は常に形を変えて、生き物のようにも、ただの黒い塊のようにも見える。


 クロは失った腕を再生させると、再びその影に向けた。

 今度は構えると共に術式を展開し、攻撃に打って出るつもりだった。


 しかし、クロは攻撃を放つ間もなく、再び身体を裂かれていた。

 咄嗟に翼で覆った為、致命傷は免れたものの、その身体には酷い裂傷が残っていた。


「クロ!」

「……大丈夫だ」


 心配するまことを、力を込めて抱き寄せる。

 気休めにもならないだろうが、少しでも安心させてやりたかった。


 移動速度を上げる為に、翼も再生する。

 しかしそれもまた、瞬く間に引き裂かれた。


 重力制御しているにも関わらず、重いプレッシャーに墜落しそうになる。

 クロは、反撃に転じることも叶わずに、ただしっかりとまことを抱きしめて耐えていた。


「……ごめん、巻き込んじゃった」

「え?」


 影の攻撃をなんとか凌ぎつつ退路を探し続けるクロに、まことが呟いた。

 クロがまことを見下ろすと、まことはもう震えることも無く、この事態にも戸惑ってはいなかった。


 それどころか、何が起こっているのか理解しているようだった。


 ぞわり。

 クロの中に、嫌な予感が湧く。


「クロが契約を持ちかけてきたときに、私思っちゃったの」


 まことは、辛うじて攻撃をかわすクロに伝える。


 この非常事態に危機感を感じさせない、異常とも言える落ち着いた表情で。


「うまく使えるかもしれないって。……あれをどうにか、できるかもしれないって」


 それはつまり、この意識体にも心当たりがあるという事。

 それどころか、全てわかっている口ぶりだった。


「ごめん」


 クロは必死に逃げながら、謝るまことの髪を撫でる。


「ごめんね」


 影の容赦ない攻撃は、クロの治癒能力を大きく上回り、クロの身体は傷を増やしていった。


 見た目は人のものと変わらない悪魔の血は、その悪魔の魔力そのもの。

 それが多く流されれば流されるほど、クロは抗う術を失っていった。


「傷付けて」


 まことの目から、涙が零れた。


 クロは、力を治癒に当てることも出来ずに、大きな力に抵抗する。


「痛いよね」

「気にするな」


 痛くないと言えば、それはとんでも無い大嘘だ。


 クロは、痛みに何度も意識が遠のいていた。

 でも今は、そんなことはどうでも良かった。


 狙われているのは、明らかにまこと。

 なんとしてでも、まことを守らなければ。

 その想いだけで、クロは動き続けていた。


 しかし、ついに限界を迎えたクロは、その黒く禍々しい意識体に呑まれそうになった。


 ここまでか。

 まことを強く腕の中に抱き締めて、クロは最後の抵抗を試みていた。


 すると、闇に包まれたその空間に、突如として淡いピンク色の光が灯った。

 まことの左耳で、ピアスが輝き出いていた。


「……サクラ、力を貸して」


 強い意思を含んだ、まことの囁きが聞こえた。


 やめろ!


 膨れ上がる悪い予感を払拭すべく叫んだクロの言葉は、声にならなかった。


「サクラ、クロをお願いね」


 言うや否や、まことはクロの腕をすり抜ける。

 クロは、咄嗟にその手を掴んだ。


「……まこと!」


 まことの身体はあっと言う間に黒い影に纏わり憑かれ、掴まった。


 クロは、まことのしようとしている事を悟り、必死にまことの手を掴む。


 まことは、掴まれた手と逆の手で、クロの手を優しく包み込んだ。

 そして、ふっと笑みを浮かべた。


 それは、出会った頃によく見たあの笑顔。

 悲しみや諦めを含んだ、儚い微笑みだった。


「クロ、さよなら」


 薄紅色の閃光が、クロを包み込んだ。

 クロは堪らず目を閉じて、まことの手を引き寄せる。


 しかし、気付いた時にはクロの手は何も掴めてはいなかった。


「まこと!」


 次の瞬間。

 クロは神社の境内のサクラの木の根元にいた。


 木の幹に背を預け、凭れ掛かるように座って。

 まことに向けて伸ばしていた腕だけを、何も無い空に向かって伸ばしていた。


 クロはたくさんの傷を受け、しばらくは動けそうもなかった。

 ただ呆然と、伸ばした手の向こうにある微かな星空を見上げる事しかできなかった。


 どうやらクロは、サクラの力でここに転移してきたようだ。

 クロの能力覚醒と共に、サクラもだいぶ力を得たらしく、まことの願いに応えてクロをここへ転送したのだった。


 クロは力なくサクラに目を向ける。


 サクラからクロへと生気が送られ、クロの傷は少しずつ治っていった。

 クロを癒やすサクラからは、悲しみや憤りの念しか伝わってこなかった。


 これは、完全なる敗北だった。


 クロは、サクラのおかげで空間を超えて神社に飛び、あの影から逃げ仰せた。

 しかし、まことは連れて来られなかった。


 まことは、あの忌々しい影に、奪われてしまった。

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