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三、落ちたのは、悪魔

「黒須くん!」


 移動教室からの帰り。

 廊下を歩いていると、後ろから呼ばれて振り返った。


 少し目に掛かる黒髪から覗く黒い瞳が、呼び止めた女子生徒に向く。

 女子生徒は目が合っただけで顔を真っ赤にして俯いた。


「あ、あの。これ……」

「ん。サンキュー」


 差し出されたのはラッピングされた小さな包。

 そこから甘そうな焼き菓子の匂いが漂う。


 それを笑顔で受け取って手を振れば、女子生徒はきゃあと手を振り返して去っていった。


 前の時間に調理実習で作ったらしいそれを教室へ持ち帰り席へ戻ると、同じものが机にもいくつか積まれていた。

 どうやら隣のクラスの女子たちからの贈り物のようだ。


「うわ、黒須すげぇ」


 隣の席の男子生徒が驚いた顔を見せると、ははっと爽やかに笑う。


 催眠の能力を使い、クロはまことのクラスにいた。


 昨日までいなかったクラスメイトが一人増えていても、誰も不審がるものはいない。

 それどころか、クロはクラスメイトたちにひっきりなしに声を掛けられていた。


 催眠は学校全体に施してあるので、校内外で一生徒として過ごすことに何ら問題はない。

 髪や目の色、それに見た目の年齢も合わせて変えているし、どこから見ても普通の人間だった。


 しかし、クロの周りはずっとざわついていた。


 それはそうだろう。

 悪魔であるクロは、テレビに出ているような人たちでさえも遠く及ばない魅力を持っている。

 見た目だけでなく言動や動き方まで器用に普通の人間に近づけているようだが、まことには全く一般人とは思えなかった。


 はっきり言ってオーラが違う。

 むしろこの圧倒的な存在感は、悪魔としてまことの側にいた時よりも増している気さえした。


 クロには目立っている自覚があった。

 というより、あえて目立つように振る舞っていた。


 女達の興味が自分に向いていれば、その分まことに向く害意も減る。

 クロは自分を餌に、目を逸らさせることにしたのだった。


 また、男達にとってもクロは魅力的だった。

 潜在能力の底がしれないクロは、どんなスポーツをさせてもずば抜けて上手く、勉強も難なくこなす。

 そこへ明るく気安い性格を演じれば、あっという間に男女問わず人気者になっていた。


 その為、まこととはあまり親しげにしない方が良いだろうとクロは判断した。

 せっかく目を逸らさせるのだから、それが最善だと考えたのだ。


 それは徹底していて、朝は姿を消してまことと登校してから適当な死角に姿を現し、帰りも別々に教室を出てから姿を消して合流することにした。


 そうした甲斐もあり、正にクロの目論見通りになっていた。

 まことへ向いていた関心は、今ではその殆どがクロに向いている。


 まことは、クラスで自分とは真逆の存在となったクロを啞然として見ていた。

 いつもとはあまりに違う言動や表情に、別人としか思えない。


 悪魔って、凄い。

 まことは漠然とそう思い、感嘆の溜息を漏らす。


 まことは、自分の席で本を読むふりをしながらクロを見ていた。

 いつもの姿より少し幼く見えるのがなんだか可笑しい。

 その為か橋本も、この間会ったのがクロだとは気が付かなかったようだ。


 本当は何年生きているのかもわからないクロが、本当に同じ歳のクラスメイトのようで、遠目に観察していたまことはなんだか気が楽になった。


「黒須ー!遊んでこうぜー!」

「悪い、用事あるから帰る」


 すっかり友人に見える男子生徒に片手を上げて謝ると、クロはさっさと教室を後にする。

 まことはゆっくりと帰り支度を整えてから、学校を出た。


 校門を出て坂道を登っていくものは殆どいない。

 みんなだいたい逆側の繁華街の方へと向かい、駅から電車やバスを利用していた。


 まことが坂道をひとりで歩いていると、左耳のサクラが何かを伝えてきた。

 具体的な意思疎通は出来ないが、ちょっとした感情やサインは感じ取ることができる。


 まことはクロが側に来たことを悟り、誰もいない隣へと話しかけた。


「クロ、凄いね」

「?」

「別人みたいだった」

「そうか?」

「うん」


 まことは教室でのクロを思い出してくすりと笑う。

 みんなの人気者、黒須くんの姿を。


「気に入った?」

「え?」


 にっこりと爽やかに微笑みを浮かべて、顔を覗き込まれる。

 まことは驚いて、鞄を落としてしまった。


「大丈夫?」

「く、黒須くん」


 さっき教室で囲まれていたままの黒須の姿になって、クロが目の前にいた。


 クロは鞄を拾い上げて、砂埃を軽く払ってから差し出す。

 まことはそれを慌てて受け取った。


「……クロ」

「うん?」


 どこから見ても好青年にしか見えないその姿。

 でも、これもやっぱりクロなんだよね。


 まことはなんだか落ち着かなくなって、懇願した。


「元に戻ってよ」


 クロは穏やかな微笑みをにやりとした笑みに変えて、元の姿に戻った。

 どこか楽しそうなその表情に、まことはじっとりと見上げて抗議する。


 間違いない。

 これはからかって遊んでいると確信した。


「……いじわる」


 他にいい言葉が浮かばなくて、そう言ってみた。

 更に少し睨んでみても、クロはどこ吹く風。


「若い女は、ああいうのが好きなんだろう」


 などと、しれっと宣った。


 多分正解だ、とまことも思う。

 現に黒須くんはみんなの人気者だった。


 でも。

 まことは、納得できなかった。


「私は、」


 黒須くんは確かに格好良いけど。


 無言でご飯を味わって食べる姿が。

 そっと助けてくれる優しさが。


 暗い所で見せる、クロ本来の、きらきらと銀色に光る髪と目の色が。


「いつものクロが、いい」


 そう呟いていた。


 クロは少しだけ驚いた表情を見せると、


「そうか」


 一言だけ囁いて、また姿を消した。


 クロは、まことの言葉の余韻が、どこか甘い香りを漂わせている気がした。




 帰宅して玄関の鍵を開けていると、宅配業者が荷物を届けに来た。

 まことはペンを借りてサインをし、荷物を受け取る。

 ご苦労さまですと声をかけて見送ると、その小包の伝票に視線を落とした。


 どうやら待っていたものが思いの外早く届いたと分かり、頬が綻ぶ。

 まことはそれを大切に抱えて家へ入った。


 小包を居間に置き部屋で着替えると、洗濯物を取り込んで片付ける。

 手際よく取り入れてきちっと畳まれた洗濯物は、それぞれ決められた場所へと納められていった。


 慣れた手付きで次々家事をこなしふうと一息つくと、クロが姿を現した。

 まことはそれに気がついて、微笑みかける。


「行こうか」

「ああ」


 いつも通りの流れでふたりは廊下を歩く。

 そしてこれも、いつも通りに、


「食べたいものある?」


 まことが聞いた。


 クロは少し悩んでから、視線をまことに向ける。


「あれがいい」

「また?」


 まことは思わず笑ってしまった。


 一緒にご飯を食べるようになって暫くしてから、メニューの希望を聞くようになったけれど、クロはちょくちょく同じものをリクエストしていた。

 余程気に入ったらしく、今では週に一度はそれが食卓に上がる。

 だから、いつでも作れるように冷蔵庫には材料が既に用意してあった。


 キッチンにつくと、まことは髪を簡単にまとめて手を洗う。

 そして手際よく調理の準備を始めた。


 まずは鶏のもも肉を取り出して切っていく。

 殆どを大きめに、少量を小さめに切り分けてボウルに入れた。

 そこへ生姜、にんにく、醤油、酒などの調味料を加えてよく混ぜ合わせ、少しおいて味を馴染ませる。

 フライパンにたっぷり油を入れて加熱を始め、その間に付け合せのレタスとトマトを洗って切った。


 副菜には茸と小松菜のバター炒めを隣のコンロでさっと作り、デザートにオレンジを切る。

 油が充分温まったところで、寝かしていた鶏肉に薄力粉と片栗粉を合わせた衣を付けて揚げていく。

 じゅわじゅわと良い音がキッチンに広がった。


 隣のコンロでは、いつの間にか豆腐とわかめの味噌汁が出来上がっている。

 その頃には綺麗なきつね色に揚がった唐揚げが、一つずつ取り出されていった。


 油を切ってレタスとトマトの待つお皿に盛れば、あっと言う間にクロの大好物が出来上がった。


「さ、食べよう」


 まことが声を掛けると、クロは黙って頷いた。


 クロは一連のまことの動きを、ずっとキッチンの隅で見ていた。

 そして心底、感心していた。


 何という手際の良さ。

 調理が終わったキッチンを見ても、揚げ油の入ったフライパンくらいしかもう置かれていない。

 調理器具の殆どは、すでに洗われて片付けられていた。


 一日二回、朝と夕方。

 まことが料理をするところを見るのが、クロの楽しみになっていた。


 悪魔は当然料理などする必要もないし、しない。

 クロはまことの料理を、まるで魔法のようだと思った。


 見ているだけでとても面白く、それが自分の好む料理だとすれば、興味は深まるばかりだった。


 まことが既に炊けているご飯をお茶碗によそい、お盆に載せていると、珍しく政道が帰ってきた。


「ただいま」

「政道おじさん、おかえりなさい」


 キッチンに顔を出した政道は、姿を現していたクロに僅かに驚いたものの、何でも無いように声をかける。

 そして、着替えてくると言い残して自室へと向かった。


 まことは、取り分けてあった政道の分も一緒に食卓に出すために手早く準備する。


 今日は初めて三人でご飯が食べられる。

 まことはそれが嬉しくて、機嫌よく料理を運んだ。


 テーブルの真ん中に唐揚げの大皿と、作り置きしていたポテトサラダを置く。

 そしてそれぞれの席にご飯と味噌汁、副菜、デザートと箸を並べた。


 準備が整った頃には、政道も着替えを済ませてやってきた。

 四人程座れるテーブルの片側に政道、向かいにまことが座り、まことの隣にクロが座った。


「いただきます」


 しっかりと声に出してから、正しく箸を使って食べ始めるクロに、政道はぽかんとしてしまった。


 悪魔が普通にご飯を食べている。

 しかも、とても上手な食べ方で。

 不躾とは分かっていても、驚きすぎて目を離せなかった。


 クロは取皿に唐揚げを取ったところで、不意に動きを止めた。


「あ、クロごめん。忘れてた」


 それに気づいたまことが、慌てて席を立とうとするのをクロが止める。


「俺が行く」


 クロはそう言うと、箸を置いて姿を消した。

 すぐにキッチンの方から冷蔵庫を開け閉めする音が聞こえたかと思うと、すぐに自分の席に姿を現して戻ってきた。


 その手に握られていたのは、マヨネーズ。

 そして反対の手にレモン汁の入った小さなボトルも持っている。


 クロはすっとレモン汁をまことへと差し出した。


「ほら」

「うん、ありがとう」


 まことは嬉しそうに微笑むと、それを受け取る。

 二人は取皿に取った唐揚げに、それぞれ掛けた。

 そして同時に頰張れば、カリッといい音が聞こえた。


 政道は、そんな様子を呆然と眺めていた。

 箸は手に持っているが使われる気配もない。


 なんというか、無性に居た堪れない。

 非常に焦る。


「おじさん?」


 食の進まない政道に、まことは不安そうな表情を向けた。

 政道ははっと我に返り、慌てて食べ始めた。


「すまんすまん、ちょっとぼんやりしてただけだ」

「疲れてるの?」

「いや、大丈夫。まことのご飯を食べれば疲れも吹っ飛ぶさ」


 それを聞いて、まことは安心したように食事を再開した。

 隣のクロはずっと無言で食べている。


 政道は、何だか頭が痛くなった。


 自分が忙しくて家にあまり居ない間に、まこととクロの距離感が異常な程近くなっている。

 一見、恋愛のような甘い雰囲気は見て取れない。

 しかし、熟年の夫婦のような、そんな空気を感じた。


 お互いの食の好みも分かっているし、食べるペースもほぼ同じ。

 おそらくはクロが合わせているのだろうが、自然と呼吸が合っているように見えた。


 政道は、味さえよくわからなくなる程混乱していた。


 このままにしておいて、いいのか。

 引き離した方が、いいのでは。


 しかし、自分にはその権利もなければ、実力行使する力もない。

 どうしようもない現実に、ただ黙って食べ進める事しかできなかった。


 ああ、頭痛がする。

 胃も痛い気がするし。

 目眩もするような。


 政道は、味のしない夕食をひとり黙々と続ける。

 その額には、暑くもないのに汗が浮かんでいた。


 まこととクロは政道の苦悩など知る由もなく、いつも通りの食事を楽しむのであった。


 食事が終わると、まことはお盆の上に食器を重ねてシンクへと運ぶ。

 そこで洗い始めようと腕をまくり、ある事を思い出してキッチンを出た。


 居間に置いたままになっていた小包を手に取り、簡単な梱包を解いてみれば、中から弁当箱が出てきた。


 二段重ねの黒い弁当箱は、どうみてもまこと用にしては大きすぎる。

 それは、クロの為に用意したものだった。


 昨日クロからクラスメイトになると聞いて、まことはすぐにネットショップで買っていたのだ。


 これで明日からクロにも弁当を作れる。

 今日は昼の時間をうまく誤魔化した様だったが、折角なら昼も同じように食べて欲しかった。


「明日はお弁当もあるからね」


 既に姿のないクロにそう呟けば、クロが笑った気がした。


 ごはんを食べるのが好きなクロ。

 実はさっき、小さめの唐揚げを弁当用に作って取り分けてある。


 明日も唐揚げだよ。

 まことはクロが弁当を食べる姿を想像して、少し楽しくなった。




「うわ、黒須の弁当うまそー!」

「あげないよ」

「えぇ!?一個くれ!!」

「だめ」


 優しい設定の黒須くんが真顔で拒否した姿に、まことは吹き出しそうになった。


 朝、弁当を渡した時には特になんの反応も無かったのだが、どうやら楽しみにしていたようだ。

 友人にはおかずの一つも分けてあげるつもりは無い様で、クロは黙々と食べ始めた。


 クロの弁当には定番のおかずを詰め込んだ。

 一段目にはご飯を詰めて白胡麻を振りかけ、梅干しと漬物。

 二段目にはレタスを薄く敷いて、唐揚げ、タコウィンナー、プチトマト、南瓜の煮物、甘い玉子焼きを入れた。


 念の為、まことは自分の弁当とは内容を少し変えていて、おかずを多めにしてある。

 気を使ったのはその程度の、普通の弁当の筈だが、何故かクロの周りの者たちが盛りあがっていた。


「黒須の弁当、いつもうまそうでいいな」

「母ちゃんマジで料理うまいよな」


 催眠の効果か、初めて見たはずのクロの弁当は、いつも美味しそうという事になっていた。


「うちほぼ冷凍食品」

「うちはコンビニ」

「うちなんて今日、ご飯と焼きそば詰めてある……」

「炭水化物オンリーかよ」

「意味わかんねぇ」

「作って貰えるだけマシだろ」

「まあね……」

「てか黒須、マジで一個、」

「だめ」

「くそー!!」

「あー!羨ましい!」


 友人たちは声を大にして嘆く。

 クロはそれに構う事なく、黙々と弁当を食べていた。


 友人の一人が、クロを恨めしい目で見ながらコロッケパンに齧り付いた。


「……ねぇ、黒須」

「なに?」

「うまい?」

「うまい」


 クロが笑顔でそう答えれば、友人たちは深い溜め息をついて、自らの弁当を細々と食べ始める。


 まことは彼らの会話に思わず微笑みを浮かべると、自分も弁当を食べ始めるのだった。




 学校から帰り部屋へ入ると、まことはいつもの様に部屋着に着替え始めた。

 クロは学校からずっと姿を消していたので、まことは特に視線を気にすることもなく、制服を脱ぎハンガーへと掛けていく。


 弁当を食べるクロを思い出して、頬が緩んだ。


 キッチンへ行けば、きっと空の弁当箱が待っている。

 それを見るのがなんだか楽しみだった。


 まことは制服のしわを伸ばしてから、ベッドの上に畳んで置いてある部屋着を手に取る。

 着ようとしたところで、ぴたりと動きを止めた。


 顕になった肩。

 滑らかな肌の広がる、すらりと伸びた腕と脚。


 ふと、触れてみたくなって、クロはまことの首筋に指を伸ばしていた。


 いつの間にか姿を現していたクロに驚き、まことはびくっと身体を震わせた。


 いくら悪魔だからといっても、見た目は殆ど人と変わらない大人の男性。

 素肌を見られ触れられているということに、まことは途端に恥ずかしくなり、頬を赤らめて慌てて着替えを済ませた。


 そうか、クロは姿を消している時も、ずっと側にはいるんだ。

 そして見えているんだ。


 まことは失念していた事実に気付き、自分の無防備さを反省した。

 反省したところで、かなり今更な気もしたが。


 とりあえずまことは、密かにサクラにお願いする。

 着替える時にクロが側にいたら教えてね、と。


 そんな事を思われているとは露知らず、クロはまことの肌の手触りを思い出していた。


 まことはクロが出会った人間の中で一番綺麗な肌をしていた。

 もしかしたら、男を惑わすインキュバス等よりもよっぽど美しいかもしれないと思う程に。


 気付けばクロは、思ったままを口にしていた。


「白く透き通るような肌だな」

「そうかな」


 まことはそれを素直に賛辞と受け取って、微笑んだ。


 悪魔であるクロはお世辞なんて言わない。

 着替えを堂々と見られていたことには焦ったけれど、まことは嬉しくて少し饒舌になった。


「私ね、東北って言って、この国の北の方にある寒いところで育ったの。だから肌が白いのかも」


 クロはサクラから得た知識で場所と情報を確認する。


 なるほど。


「東北か」

「うん。今も母と祖母がそこにいるの。父は単身赴任してて、私が産まれてすぐから別に暮らしてるんだけど」


 まことは故郷に想いを馳せて、どこか遠くを見つめた。


「中学校までは母と祖母と東北で暮らしてた。夜になるとね、満点の星空が広がって綺麗なんだよ」


 その目にはまるで、その星空が見えているかの様に光が映っている。


 しかし、それは一瞬で消え去り、まことは視線を落として続けた。


「今は、……進学のために、高校から近い政道おじさんのいるこの神社に住まわせて貰ってるんだ」

「ふうん」


 クロは何でも無いように返しながらも、注意深くまことを観察する。

 嘘はなさそうだが、何か隠しているように感じた。


 別に何を隠されていたっていい。

 言いたくない事くらいあるだろう。

 こんな身体なら、尚更。


 幸運も不運も呼び寄せるだろうが、圧倒的に不運の方が多かったはずだ。

 なぜなら、不幸を好むものが常に纏わり付いているような状態だったのだから。


 それらは今はいない。

 クロが、契約したのと同時に早々に散らした。


 いくつかは喰って、あらかたは逃げていった。

 吸収したところでたいした役にも立たないので、クロにはどうでも良かった。


 そこらに漂うものの中で、未だまことに寄ってくるものは殆ど無い。

 クロが側に居るというだけで、まことは守られていた。


 後はまことの行動によって具現化した悪意だけ。

 それも今では、クロがクラスメイトになった事によって、生まれにくくなっている。


 まことは今、きっとこれまでの人生で一番穏やかな生活を送っているのだった。




 皆が下校した後の教室に、二人の男女がいた。


「橋本くん」

「あれ、石井さん」


 日直の仕事である日誌を席で書いていた橋本に、クラスメイトの石井が声をかけた。


 静かな教室に、窓の外から部活動に励む音がよく聞こえる。

 しかし石井には、それらの音は聞こえていなかった。


 激しい鼓動がどくどくと耳にまで響いていて、煩い。

 腹の前で組んだ指は、薄っすらと汗ばんでいた。


「忘れ物?」

「ううん。あの、橋本くんに話があって……」


 石井はなんとかそこまで言葉にすると、目を閉じてこっそり深呼吸を繰り返す。


 橋本は何となく勘付いて、書きかけの日誌を閉じて身体を石井の方へと向けた。


「あの、私、……橋本くんが好きなの」


 言えた。

 やっと伝えられた。


 長い間片思いをして漸く告白できた喜びに、強く閉じていた目を開いて橋本を見た。


 驚くかな。

 喜んでくれたり、するのかな。

 そんな期待を込めて。


 しかし、石井の期待とは裏腹に、橋本は申し訳なさそうな困ったような表情を浮かべていた。


 ……あ。


「ごめん、俺好きな人がいるんだ」

「そっ、か……」


 石井は溢れそうな涙を堪えて、必死に笑顔を作る。

 たとえふられても、うざい女だと思われたくなかった。

 だから、努めて明るく振る舞う。


 悲しくて、苦しくて、辛いけれど。

 嫌われたくないから。

 まだ、好きだから。


 その為か、つい聞きたくもない事をぽろりと口に出してしまった。


「それって結城さん?」

「え?」


 やめろ。

 聞くな。


 これ以上は。


「見てればわかるよ」


 だめ。

 だめだよ。


 心が警鐘を鳴らすのに、どうしてか止められない。


「いつから好きなの?」

「……一年の時かな」


 あ。


 石井は告白の緊張とふられたショックで、うまく自分をコントロールできなかった。

 そのせいで、絶対聞きたくなかった事を自分から聞いていた。


「委員の仕事で一緒になったんだ」


 やめて。

 聞きたくない。


「本当に貧乏クジみたいな仕事だった。誰も真面目にやってなかった。でも、結城さんだけはいつもちゃんとしてて」


 やめてよ。


「って、ごめん。ぺらぺらと」

「……ううん。いいの」


 痛い。

 胸が痛い。


「……応援、してるね」


 嘘だよ。

 応援なんて、できるわけない。

 したくもない。


 なのに。


「ありがとう」


 嬉しそうに笑う橋本を見た瞬間、石井は自分の中で何かがぷつりと切れたような感じがした。


 石井の中に、まことに対する憎悪が育ち始めていた。




 音のない雨が降りだした。

 まことは薄紫色の傘を開いて、小雨の中を歩き出す。


 まだ梅雨入りの発表はないが、最近は雨が多い。

 もう間もなく、季節は春から夏へと移り変わろうとしていた。


 帰りのホームルームで担任から配られた進路調査書。

 まことは折り畳まれたそれを、歩きながらぼんやりと見つめていた。


 分岐点は、もう目の前。

 有無を言わさず、誰の前にも見え始めていた。


 進学、就職、その他。

 みんな自分で考えたり、誰かと相談したりして決めていく。

 人生の選択が、少しずつ迫っていた。


 坂の途中でクロが姿を現した。


「クロ」


 クロはプリントに視線を向ける。

 まことはそれを何気なくポケットにしまうと、クロに笑いかけた。


「帰ろう」


 クロには、まことはもう普通の顔に見えた。


 でもさっきは、何故か。

 泣いているように見えた。


 クロは考える。

 まことは進学も就職も難しいと考えているのだろうか、と。


 まことの人を惹きつける魅力は、身に余る力を持つことによる過剰な幸運が生み出したものだとクロは理解していた。

 大き過ぎる運気の流れが、周りのものを有無を言わさずに巻き込んでいるのだ。


 幸運が元ではあるが、どんなことでも限度というものがある。

 幸運も強すぎれば簡単に厄災と結びついてしまう。


 例えば、大金を手に入れて幸せになったと同時に、それにより事件に巻き込まれ元よりも不幸になるといったようなことが起こったりするのがそれだった。


 クロにはその辺りの機微を感じ取ることができる。

 悪意や害意が生まれ、育つのがわかった。


 だから、クロはまことの傍にいた。

 その特性を活かして、悪魔はそれらを利用することが殆どなのだが、クロはまことから厄災を遠ざける為に動いていた。


 良質の対価を得るためなら、どうということもない。


 クロは、まことに安定した生活を送らせることなど造作もないと捉えていた。


 望めば好きな未来も選べるだろうに。

 なぜ願わないのか。


 クロは考えながら、まことの側を離れた。


 また、まことに悪意が迫っていた。




 昼休みも間もなく終わる。

 次の化学の授業の為に、教室にいたものはぱらぱらと実験室へ移動していった。


 数人残っていた女子のグループが騒がしく連れ立って行けば、途端にしんと静まり返る。

 隣のクラスの喧騒をとても遠くに感じながら、ひとり教室に残った石井はゆっくりと視線を落とした。


「……結城さん」


 石井が見下ろすのはひとつの座席。

 それは自分の席ではなく、まことの席だった。


 カチカチカチ。


 石井は無表情に、右手に持ったカッターの刃を出していく。

 その目は淀んでいて、酷く暗い。


 机に傷を付けてやろうか。

 それとも、机の中の教科書やノートを引き裂いてやろうか。


 にやりと歪んだ笑みを浮かべて、石井はそんなことを考えていた。


 すると、


「石井さん」


 唐突にすぐ後ろから声をかけられて、石井はびくりと肩を揺らした。


「えっ!?」


 慌ててカッターを後ろ手に隠し振り返れば、そこには黒須がにこやかな表情で立っていた。


「く、黒須くん!」

「何してるの?」

「え、えっと……」


 穏やかに尋ねられて、石井は口籠る。

 嫌がらせをしようとしていたなど、人気者の黒須にはとても言えなかった。


 気を削がれた石井はカッターの刃を静かに収めると、誤魔化しながらスカートのポケットに入れて隠した。


「は、早く実験室行かないと、遅れちゃうよ」


 石井は取り繕うように黒須を急かす。

 それでも黒須は穏やかに微笑んだまま。


「うん、そうだね」


 簡単に応えて、にっこりと笑みを深めた。


 石井は何故か、黒須から目が離せなかった。


 クラスと言わず、学校で一番かっこいい男子が自分に向ける視線に、顔が熱くなってくる。

 鼓動も段々と早くなり、苦しくなっていった。


「石井さん?」

「あ、は、はい」


 名前を囁かれただけで、どうにかなってしまいそう。

 気付けば石井は、熱の籠もる目で黒須を見上げていた。


 黒須は一歩踏み出して、石井に近づいた。


 目の前にある端正な顔立ちから、もはや視線を逸らすことはできなかった。

 石井はただ潤んだ瞳で黒須を見つめ続ける。


 黒須はそんな様子を確認すると満足げな表情を浮かべて、石井に顔を寄せた。

 そして、顎を持ち上げて口付ける。

 石井は目を閉じて、されるがまま受け入れた。


 合わせた唇から、黒須は深く吸い上げる。

 その瞳は昼間の明るさに反して闇の様に黒く、クロがその本性を覗かせていた。


 クロは石井の感情を操作して、早々に膨れ上がっていた憎悪を消す。

 橋本へ向いていた好意は、最早石井の中になく、恋をした記憶は残っているが、もう吹っ切れた筈だ。


 しかしクロは、更にキスを深いものにしていく。

 石井は呼吸を乱しながら、クロの首に腕を回して身を任せた。


 感情を操作したり記憶を消すだけなら、ただ視線を合わせればいい。

 クロが石井にキスしたのは、ちょっと小腹を満たすためだった。


 クロは憎悪に染まりつつある石井の感情を操作するついでに、つまみ食いをしたのだった。


「……」


 しかし、そんな思惑とは裏腹に、クロは満たされることはなかった。

 今までこんなもので満足していたのかと馬鹿馬鹿しくなっただけだった。


 石井から得た生気は、味なんてしなかった。 

 多少は感じたかもしれないが、全然美味しいと思えない。

 まるで、水か空気を吸い込んだような味気なさを感じた。


 生気が特に欲しかった訳でもない。

 ただ単に、目の前に丁度良くあったから頂いたまで。

 だったのだが。


 まことの作る食事の方がよっぽど美味いとクロは思った。


 石井から得た生気は、エネルギーとしてはそれなりに吸収できた。

 しかし、何も吸収されないまことの料理の方が、遥かに満たされる。


 クロは料理するまことの姿を思い出すと、突き放すように石井から離れた。

 石井はぼーっとした表情のまま、そこに立ち尽くしていた。


 ……。

 まことはきっと、甘いに違いない。


 髪よりも。

 血よりも。

 きっと、もっとずっと甘い。


 クロはそれを想像して、ごくりと喉を鳴らした。


 それは、まことの作る料理も霞む程に、最高に美味いだろう。


 そんな事を思っていると、廊下から誰かが見ているのに気がついた。

 クロは素早く視線を向けると、そのまま固まった。


 どうして今まで気付かなかった。


 まことが出入口辺りで、立ち竦んでいた。


 クロと目が合ったまことは少し驚いた顔をした後、困ったように微笑むとそのまま行ってしまった。

 クロは立ち去るまことをただ見送る。

 どういう訳か、無性に腹が立っていた。


 どん、と石井がクロに抱きつき見上げてきた。

 とろんとした顔で見つめてくるのは、悪魔に魅了されている為だ。


 クロはその瞳を真正面から見つめ返す。

 視線に少し力を込めた途端、石井の身体がびくりと硬直しそのまま虚ろな目になってクロから力なく離れた。


 間もなく覚醒すれば、橋本に対する恋心は綺麗に消えている。

 それに伴い、まことへの憎悪ももう生まれる事はない筈だ。


 つまみ食いの為に掛けた魅了の効果で、黒須との事も覚えていない。

 あと数分もすれば慌てて実験室へと向かい、ポケットの中のカッターの存在に首を傾げる未来が見えた。


 クロはもう用済みになった石井を教室に残し、まことの元へ行くために姿を消した。


 今すぐにまことの元へ行かなくてはいけない。

 そんな気がした。


「まこと」


 クロは、黒須の姿で実験室へ向かうまことの隣に現れて、声を掛けた。


「ん?どうしたの?」

「……いや」


 クロは口調が黒須になりきれないまま、よく分からない感情に翻弄されていた。

 どうしてこんなに後ろめたい気持ちになるのか、わからない。


「あの、さっきはごめん。覗くつもりはなかったんだけど、忘れ物しちゃって」

「いや」

「ルーズリーフ、一枚分けてくれる?取れなかったから」

「ああ」


 クロは自分のフォルダから一枚取ると、まことへと手渡した。

 それをまことが微笑みながら礼を述べて受け取る。


 全くいつも通りの様子に、クロは苛立ちを募らせた。


「もうちょっと人目を気にしたほうがいいよ」


 また困ったようにまことがくすりと笑えば、その顔がまた更にクロを苛つかせる。

 しかし、そんな感情は表には出さない。


 クロは自らの中に生まれた感情を静かに飲み込んで、何でもないように頷く。


「わかった。今度から、食事には気をつける」


 食事、と敢えて言ったのは無意識だった。


 その後もまことは特に気にした様子もなく、午後の授業を過ごしていた。

 そしてクロは、不可解な気持ちを閉じ込めたまま、黒須として過ごした。


 しかし、最後の授業前の休み時間に、珍しくまことが黒須に近付いた。

 まことは、席に座り友人と話す黒須の横を通り掛かると、一度身を屈めてから声を掛けた。


「黒須くん、これ落ちてたよ」

「あ。結城さんありがとう」

「ううん」


 まことはシャーペンを黒須に手渡す。

 黒須はさも自分のものであるかのように受け取った。

 周りの友人たちも、黒須が落としたものをまことが拾ったのだと思った。


 だが、それはクロのものではない。

 紛れもなくまことのものだった。


 クロはその意味を正しく理解した。


 まことは黒須にシャーペンを渡し、そのまま教室から出ていく。

 黒須は暫く友人たちと喋ってから、トイレに行くと言って教室を出た。


 トイレには行かず人気のない渡り廊下に行くと、そこにはまことが待っていた。


 クラスメイトに扮してから、問題は減ったが面倒なことは増えた。

 人のふりをするクロは、常に他人の目を気にしないといけない。

 黒須は人気者の上、まこととは接点の無い設定の為、こうしてただ話をするだけでも苦労があった。


 設定を無視して動いて不整合が起こったとしても、また記憶を消したり催眠をかけ直せば取り繕う事ができる。

 ただし、掛けられた方は多少精神に負荷が掛かる。

 何度も繰り返せばそれだけ負担が増え、精神のバランスを崩すおそれがあった。


 また、いちいち記憶を改ざんして回るのも面倒ということもあり、こうして面倒な手順を踏む事にしていた。

 その為、緊急事態ならまだしも、普段はお互いに誤魔化しながらコンタクトをとっているのだった。


「どうした?」


 まことの前まで歩いてくるなり、クロは要件を聞いた。


 また黒須の姿なのにいつもの口調で話すクロに違和感を覚えながら、まことは切り出した。


「サクラが何か知らせてくれてるみたいなんだけど、よく分からなくて」


 言われてクロは、すぐにサクラへと思念を繋げる。

 ものの一秒も掛からずに、クロはその返事を受け取って頷いた。


「ああ、わかった。問題ない」

「そう?」

「学校から帰れば分かる」


 クロの簡潔な返答を聞いて、まことは緊急事態でない事に安堵した。

 ほっと表情を和らげるとわかった、と呟いて頷く。


 クロは安心させるような黒須特有の優しい笑顔で、まことに笑いかけていた。




「あ!」


 帰り道。

 坂を登りきったところで、まことが珍しく大きな声を上げた。


「クロ!」


 視線は空へ向けたまま、興奮した様子でクロを呼ぶ。


「燕が、飛んでる!」

「ああ」


 それ程高くない空を、燕たちが飛び交っていた。


 今朝までは親鳥が二羽。

 でも今は、上手に飛ぶものから拙いものまで、たくさん。


 そして巣にも、巣の下にも、取り残されている雛はいなかった。


「みんな!」

「ああ」


 雛はみんな飛び立っていた。


 暫く巣の近くを飛んでから、まるで集団演習の様に大きく円を描いて遠ざかって行く。

 時々不安定に揺れながら、それでもしっかりと風を切って羽ばたいていた。


「みんな飛んでいったよ!」

「落ち着け」


 サクラが伝えてきたのはこの事だったのだが、サプライズは成功だったようだ。

 興奮するまことに、隣に姿を現したクロは頭をぽんと叩いて落ち着かせようとした。


 すると、今までずっと空を見上げていたまことがくるりと振り返り、唐突にクロに抱きついた。

 ふわりと、甘い香りがクロの鼻を擽る。


「ありがとう、クロ」

「……」


 不覚にも、クロは驚いて返事が返せなかった。


「雛の羽、治してくれたでしょう」

「……忘れた」


 クロが小さく呟くと、まことはクロを見上げて嬉しそうに笑った。


 目を細めて、頬を染め、きゅっと口角を上げて。

 それは嬉しそうに、笑った。


 ……そうだ。

 その笑顔がいい。


 最近はよく見るようになった、その顔が。


 最初は困ったような笑顔や、憂いを含んだ微笑みばかりだった。

 それが最近になって、時折こういった笑顔を見せるようになっていた。


 クロは自分を見上げるまことのその表情を、静かに見下ろす。


 ああ、やっぱり。

 自然と溢れるそれが、一番いい。


 嬉しそうなまことの顔を、ただ眺めていた。

 ただ、見ていたかった。


 クロは分かった気がした。

 自分は、単純にこの顔が見たかったのだと。


 気付けば心の底に沈めていた苛々も、不可解な感情も消えていた。


 クロは妙にすっきりとした気分で、飛び交う燕たちをまことと一緒に見上げるのだった。


 暫くしてまことは聞いてみた。


「対価は?」

「ただの気まぐれだ。いらない」


 クロがぶっきらぼうに答えると、まことはやっぱりと確信した。


 やはり雛の翼を治してくれていた。

 しかも、忘れてなんていない。


 クロは、優しい。

 感覚のずれに戸惑う事も多いけど、本質はとっても優しいのだと。


 最初は自らを悪魔と名乗り、対価を貰うと言われ、まことも多少警戒していた。

 でも今まで一緒に過ごしてきて、対価を強要されたことはない。

 まことが対価を支払うべきではと思うような事も、無償で自らやってくれていた。


 もしかすると、それすらも悪魔の計略なのかもしれないけれど。

 そうだったとしても、まことはクロの優しさに救われていた。


 クロは優しい。

 悪魔だけど、私に一番優しい。


 まことは更に笑みを深めた。

 気が付けばクロも、笑っていた。


 その笑顔がまるで黒須のようで、まことはさっきとは逆だなと思った。


「ふふっ」


 クロの姿で黒須のように微笑む姿に、まことは可笑しくなって、声を上げて笑う。

 クロはそれを笑顔で見つめていた。




 毎日のように雨が降る。

 時には静かに、時には激しく、大地を潤す雨が降る。


 例年通りに梅雨入りしてからというもの、青空は全く見ていなかった。


 今日は雨は降っていない。

 しかし、分厚い雲に覆われていて、今にも降り出しそうだった。


 クロは雨の落ちる様子を見るのが嫌いではなかった。

 席替えで窓際の席になったので、授業中はよく雨空を眺めていた。


 他に興味の尽きないクラスメイトたちは、天気など大した問題でもないようで、空を見上げるものは殆どいない。

 女たちは髪が纏まらないだの靴が濡れるだの、単純に雨を嫌っているようだった。


 そんな中で、クロと同じく雨を楽しむのはまことだけ。

 それほど酷い雨でなければ、まこともお気に入りの薄紫色の傘を差して上機嫌に雨の中を歩いていた。


 たまに人気がない時には、クロは姿を現して一緒に歩いて帰った。


 黒須の姿で紺色の傘を差して、まことの隣を歩く。

 クロもまた、傘というものを気に入っていた。


 濡れないように、雨除けとして使う傘。

 しかし、激しい雨に降られれば、足元はいつもぐっしょりと濡れた。


 この世界に何百年も前から形を変えずに在り続ける道具でありながら、未だに不完全なそれが、クロには面白くもあり不思議だった。


 まことの提案で少しだけ寄り道をして、紫陽花の花を見に行ったりもした。


 クロの世界では見たことのないその花は、小さな花が寄せ集まって一輪の大きな花のように見える。

 その花に顔を寄せて微笑むまことは、普段よりも一層美しく見えた。


「クロの世界には花はあるの?」

「ある。だが、こんなに種類は多くない」

「そうなんだ」


 クロが自分のいた世界に咲く花の話をすると、まことは嬉しそうに聞いていた。

 クロは自然と饒舌になり、よく話して聞かせるようになった。


 燕たちの巣立った巣はもう綺麗に片付けられ、朝そこへ立ち寄ることはなくなった。

 朝もふたり並んで傘を差して歩き、他の生徒に会う前にクロが姿を消すのが当たり前になっていた。


 教室へ入ると、いつもの喧騒がまことを迎え入れる。

 誰とも挨拶を交わすことなく自分の席に着くと、クロも教室へと入ってきた。


「黒須おはよ」

「おはよう」


 クロはたくさんのクラスメイトと挨拶を交わしながら一番奥の窓際の席に着いた。

 いつも通りの、一日の始まりだった。


 昼休みになり、弁当を食べ終えたクロは窓の外へ目を向けた。


 窓から空を眺めると、濃い色の雲が早い動きで過ぎていく。

 今は小雨だが、その内に土砂降りになりそうだった。


 クロは視線を動かして少し遠くを見下ろす。

 渡り廊下へ続く通路の窓越しに、まことを見つけた。


 さっき担任から係の仕事を言い付かっていた。

 その用事でそこにいると、クロは知っていた。


 今はまことに向く悪意も特に無い。

 だから、教室から遠目に見ていたのだが。


 まことの向かう先にひとつの気配を見つけて、クロは席を立った。

 自然な動きで教室を出て、渡り廊下の方へと向かう。

 人目のない廊下の角を曲がったところで、一度姿を消そうと思っていた。


 しかし、角を曲がる直前に見つかってしまった。


「あ!黒須ー!」

「こんなところで何してんの?」


 クロはまことの元へ移動する前に、クラスメイトの女たちに囲まれた。

 騒がしくどこに行くのかと聞く女に、適当に応える。

 女たちの後ろにある窓から、まことのいる渡り廊下が見えていた。


 姿を消していた時は、いつでも何処でもすぐに側に行けたのだが。

 黒須として存在を認知されている今のクロには、ただまことの側へ行くということがなかなか面倒であり難しかった。


 女たちの騒がしさに気が逸れていたのもある。

 しかし、悪意や害意を感じなかったからこそ起き得た事だった。


 適当に相槌を打って早々に開放して貰おうと相手をしながら、クロは渡り廊下に視線を移した。

 その視線の先で。


 まことが腕を掴まれて、引き寄せられた。


 クロは駆け出した。

 クラスメイトの女たちは、驚いて黒須の名を呼ぶ。

 クロはそんな事は構わずに、廊下の角を曲がった瞬間に姿を消し、すぐに渡り廊下に現れた。


 そこで目にしたのは、まことと、まことに好意を寄せる橋本の姿。

 橋本がまことの腕を掴み、まことにキスしていた。


 奪われた、まことの唇。


 クロの中で、何かが切れる音がした。


「嫌っ!」


 まことが橋本の腕を振り払って、後退った。

 そして両手で口を抑える。

 その手は微かに、震えていた。


 真っ赤な顔で目に涙を溜めているまことを見た瞬間、クロは激しい衝動に取り憑かれた。


 殺す。


 橋本に対する殺意が、臨界点を突破して溢れ出した。

 いつしかクロの右手の爪は長く鋭く伸びていて、鋭利な刃物となっていた。


「え、黒須?」


 クロに気づいた橋本が、動揺した様子でクロとまことへ交互に視線を向けた。


 クロは殺意を持って、緩慢な動きで橋本に差し迫る。

 しかし橋本に辿り着く前に、クロは動きを止めていた。


「……クロ!」


 まことが、クロに抱きついていた。


 クロは一瞬驚いた表情を覗かせてから、震えるまことを抱き寄せる。

 そしてそのまま、殺気を隠すことなく橋本へ視線をぶつけた。


 クロは辛うじて黒須の姿ではあるものの、激しい怒りを顕に橋本を睨みつける。


「……!」


 それを正面から受けた橋本は、思わず一歩後ずさり足元が震えるのを感じた。


 普段の穏やかで明るいクラスメイトからは想像もつかない黒須の姿に混乱した。

 そして、はっと何かを察して目を見開くと、酷く傷付いた様な悲しげな表情を見せた。


「そうか……結城さん、ごめん。……黒須も」


 橋本はショックを受けた様子で、静かに立ち去った。


 いつの間にか、雨足は強くなっていた。

 しがみつくまことを抱いたまま、クロはその雨音を聴いていた。


 雨が、全てからふたりを包み隠しているような錯覚に陥る。


「……ありがとう」


 まことがゆっくりとクロから離れた。


 ようやく見えたまことの顔は酷く頼りない表情で、クロはすぐに声を掛けることができなかった。


「来てくれて、ありがとう」

「……何があった?」


 クロは、極力優しくまことへと問いかける。

 悪意を感じなかった為、何が起きたのか分からなかった。


「告白されたの」


 クロはそうか、と納得した。


 純粋な好意はクロの警戒網には引っかからない。


「返事をどうしたら、なんて断ったらいいのか分からなくて」


 まこと俯いたまま、ぽつりぽつりと話す。

 クロはずっと黙って聞いていた。


「何も言えなくて、そうしたら突然……」


 それ以上の言葉はもう無く、まことは黙り込んだ。


 クロの中に、再び怒りがこみ上げる。

 橋本に対する殺意がまた湧いてくるのを感じた。


 しかし、それは一瞬で消し飛んだ。


 まことの目から、ぽろりと涙がこぼれ落ちた。


「あ、あれ?」


 自分の涙に、まこと自身も驚いている。


「ごめん、びっくりして」


 まことは慌てて拭って止めようとするが、それはぽろぽろと止まらない。

 動揺して涙を隠そうとする手を、クロが掴んだ。


 クロは身をかがめると、まことに顔を近づけていく。

 そして、頬を伝うその涙をぺろりと舐めた。


 限りなく甘い、その雫。


 驚いた拍子に、まことの涙は簡単に止まった。


 まことは対価として涙を舐めたと思っているようで、そんなのでいいの?などと言っている。

 事実、溢れ出る生気を吸収し、またクロを縛っていたいくつかの成約が解けた。


 でも、そうではなかった。

 別にクロは対価を得たかった訳ではない。


 ただ、涙を止めたかった。

 これ以上見たくなかった。


 クロは、キスなんてそれこそ数え切れないほどしている。

 それは食事ともいえる行為であり、生気を奪い取ったり、魅了して傀儡にしたり、悪魔として当たり前のことだった。


 でも、クロは決めた。


 もうしないと、決めた。


 理由は至ってシンプル。

 まことがああやって泣いたから。


 例えば他の悪魔がまことにキスをしても少し前までのクロだったなら、なんとも思わなかっただろう。

 思っても自分の獲物に手を出すなど烏滸がましいと、簡単に制裁を加えるだけだった。


 でも、今は、その相手をもう許すことはできそうもなかった。


 八つ裂きにしても、これ以上無いほどいたぶって消滅させても気が晴れる気がしない。

 さっき、橋本を見てそう思った。


 橋本は、クロが石井にしたのと同じことをしただけだった。

 相手の気持ちを無視した、己の欲望を満たすためだけのキスを。


 なのに、この怒りはなんだ。

 そして、この罪悪感は、なんだ。


 クロは心の中で誓った。


 つまみ食いは、もうしない。

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