ニ、クラスメイトは、悪魔
思惑通り契約を結んだ男は、笑みを浮かべたまま名乗る。
「俺のことはクロと呼べ」
クロ。
見たままだな、とまことは少し可笑しくなった。
つられるようにまことも表情を和らげると、自分も名前を告げた。
「私は、まこと。結城まこと」
それを聞いたクロは、満足そうに頷いた。
「まこと」
「うん。よろしく、クロ」
お互いの名を口にしてみると、違和感なくすんなりと声に出る。
それがなんだか不思議だった。
契約といっても、まことに特に変化はない。
悪魔との契約など一体どんな事になるのか怪しいにも程があるが、クロの言うそれはただの口約束の様なものなのだとまことは悟り、何となく上手くやっていけそうだと直感した。
握手でもした方がいいのかな、とまことが考えていると、
「何事だ!」
自宅とは別にある社務所の玄関から、中年の男が飛び出してきた。
どうやら桜の木が裂けた際の衝撃に驚き、慌てて様子を見に来たらしい。
男は引っ掛けただけのサンダルに足を縺れさせながら、まことの元へ駆け寄ってきた。
「政道おじさん」
まことがそう呼ぶと、叔父の政道が白衣袴姿で息を切らせたまま、まことの無事を素早く確認する。
何事もないことに安堵してため息を吐くと、その拍子に白髪の混じった髪が揺れて乱れた。
政道はこの神社の宮司をしている。
普段は外出している事も多いが、どうやら今日は社務所で事務仕事をしていたようだった。
まことが事の顛末をどう説明しようかと考えていると、
「お前は、……何だ?」
不意にクロに視線を移した政道はそう言って、まことを背に庇うように立った。
どうやら政道には、クロが人あらざるものである事がわかるらしい。
さすが一級神職といえた。
政道の背中から、緊張が伝わってくる。
まことは慌てて声をかけた。
「待って、おじさん!」
まことは政道の腕を掴んで静止するが、政道は警戒を解く事なくクロを睨みつけていた。
クロは面倒な事になりそうだと感じ、すうっと空気に溶けるように姿を消した。
それを目の当たりにして、政道は呆然と立ち尽くす。
もういないそこを目を見開いて見つめたまま、驚愕の表情を浮かべていた。
もう怪しい気配も感じない。
政道は背中に脂汗が流れるのを感じながらも、緊張を解いた。
クロは姿と気配は消したものの、まことのすぐ側にいた。
しかし、まことも政道もそれには気付かない。
後はまことが治めるだろう。
クロは全て丸投げして、ふたりの視界から逃げたのだった。
政道は同じ家に住んているが、日頃から忙しくしていて、まことはあまり顔を合わせることもなかった。
ここ以外にも宮司を務める神社がいくつかあり、仕事に追われる毎日。
お正月や節分、七五三、結婚式などの時はいつも決まった神職やバイトさんが来て手伝っていたが、日々の主な仕事はいつも一人でこなしていた。
その為、平時に御守を求めて来る人や祈祷の依頼があれば、まことが対応することもあった。
思いの外仕事の多い神社での暮らしは、世間が考えるよりも大変なのだった。
政道とは朝夕の挨拶を交わしたり、たまに一緒に食事を取るくらい。
政道はそれほど働き詰めであり、日々の食事の殆んどはまことが用意したものをだいぶ時間が経ってからひとりで摂っていた。
更に神社の勤めの他にも仕事があり、正に多忙を極めていた。
和室に置かれた良質な一枚板のテーブルに、学校から持ち帰った桜の枝を生けて置いた。
色々あってもその花は美しく咲き続けていて、まことはその木の持つ強さを改めて感じる。
そのテーブルに、政道とまことが向かい合って座っていた。
政道はまことから経緯を黙って聞いているところだった。
「悪魔と契約をした……?」
「うん」
さらりと衝撃的な話を聞かされ、聞き返せば事も無げに頷く姪に、政道は目眩がした。
「そ、そうか」
悪魔?
悪魔とは、あの悪魔か?
伝承に出てくるような恐ろしい姿が、政道の脳裏に浮かんだ。
その悪魔と契約した、とは一体どういうことなのか。
いや、今まことから説明は受けた。
受けた、が。
混乱する頭を落ち着かせて無理やり納得する。
それしか今の政道にできることは無かった。
「……それで?」
「え?」
首を傾げるまことを見て、盛大なため息が溢れそうになった。
政道は、それをなんとか飲み込んで、懸念している事を確認する。
「まことに害はないのか?」
そう尋ねた。
まことは少し思案して、こくりと頷く。
「たぶん」
今度は我慢しきれずに、大きなため息が出ていった。
まことは眉尻を下げて、少し申し訳なさそうにした。
この娘は、危機感があるのか無いのか。
政道は佇まいを正して咳払いをすると、まことに視線を合わせる。
「もう成されてしまったのなら、今更だ。そのクロとやらを……信じよう」
悪魔にこんな事を言うのも何だが、致し方ない。
半ば諦めの境地でそう言った。
「おじさん、ありがとう」
まことが嬉しそうに笑うので、政道はなんとか納得した。
まことも色々と考えて決めた筈だと、政道には分かっていた。
自分で考えて決めた事なのだから、これ以上なにか言うのはやめた。
まことがそうしたいのなら、政道はどんな事でも背中を押してやりたいのだ。
ずっと不自由に暮らしている可愛い姪っ子。
昨年の春、上京してきてもう一年が経った。
その間、色々と側で見てきたのだ。
政道は叔父らしい優しい顔つきになると、囁くように言った。
「無理に高校へ行かなくていいんだよ」
それを受けてまことは、笑っていた。
儚げなその表情に、政道は胸が締め付けられる。
まことはそんな表情のまま目を伏せると、小さく返す。
「うん。でも、行きたいの」
「……そうか」
普段から静かな神社の一角で、小さく交わされた会話だったが、その僅かなやり取りの中にはあまりにも大きなものが含まれていた。
政道はそれ以上何も言えなくなり、沈黙が二人を包んだ。
手持ち無沙汰な政道がお茶に手を伸ばし、口へと運ぼうとしたところで、
「まこと」
突然別のものの声が響き、驚いて湯呑みを落とした。
「クロ」
「わっ!あっつ……!」
突然まことの傍に姿を現したクロに、政道は心臓が止まりそうになっていた。
跳ね上がった心拍数を胸を抑えて落ち着かせ、湯呑みを拾う。
消える時も突然だったが、出てくる時もあまりにも突然で心臓に悪い。
ああ、溢したお茶も拭かなくては。
そう思い、布巾を取ろうと顔を上げると。先程話題になったばかりの悪魔が、まことに非常に近い距離で迫っていた。
政道はお茶のことを忘れて凍りついた。
クロの長い指が、まことの髪を掬う。
頬の上で切られたそれに鼻を寄せれば、やはり極上の香りがした。
クロはその香りを僅かに楽しむと、ゆっくりと顔を離す。
まことはその様子を至近距離でぼんやりと見つめていた。
クロはその短くなった髪に指を絡めて、上の方から梳くように毛先の方へと流していく。
髪はすぐに指から落ちる、と思ったのも束の間。
それは落ちることなく、クロの手の動きに合わせて長さを増していった。
ゆっくりゆっくりと、絡ませた指を下ろしていく。
頬をくすぐって顎をかすめ、肩から胸の前へと。
自然な動きで伸びて他の部分と同じくらいの長さになると、開放された髪はさらりと揺れて落ち着いた。
気が付けば、最早どこが切られていたのかも分からないくらい、元通りに戻っていた。
「あの木の望みだ」
呆然と自分の髪を手に取って観察するまことに、クロが告げた。
まことは驚きの表情を湛えて、顔を上げた。
「あの木はサクラというのだな」
「うん」
まことは、胸がじわりと温まってゆくのを感じた。
長い髪にそこまで思い入れがあったわけではないが、その気持ちが嬉しい。
自分があの木を大切に想っているのと同じく、あの木も自分を想ってくれていると知って、胸が熱くなった。
まことが自然と笑顔を溢しながら、自らの髪を撫でていると。
「ではサクラ、お前は今から俺の眷属となる」
テーブルにある桜の枝に向かって、クロが宣告した。
突然の言葉にまことはきょとんとし、政道は青褪めた。
「えっ」
「は!?」
慌てて窓から桜の木に目をやるが、特に見た目には何事もなかった。
テーブルの枝もそこに静かに置かれたまま。
「どういうこと?」
まことが疑問を口にする。
クロは何でもなさそうにまことに視線を向けると、簡単に答えた。
「サクラも俺と契約した。そして眷属になるという対価でお前の髪を戻して欲しいと俺に願った」
まことはなるほどと納得し、すっきりとした表情を見せる。
政道は、御神木が、なんて事だ、と頭を抱えながら呟いていた。
クロは思惑通りに事が運んで、満足していた。
眷属になるという事は、クロに従属するという事だ。
サクラを眷属としたおかげで、サクラの知るこの世界の情報と記憶を共有することができる。
クロは早速サクラに意識を繋げて、サクラの持つあらゆる記録を読み取った。
なるほど。
この世界は自分の元いた世界とはだいぶ構造が違うらしい。
クロはそれを知り、この世界の理を学んだ。
この世界にも悪魔というものはあるらしいが、伝承や作り物の中にしかいないようだった。
また、特にこの国には悪魔というもの自体が存在しないらしく、代わりに妖怪や鬼といったものがあるらしい。
おそらく、それらが自分の世界で云う悪魔にあたるのだろうと理解した。
しかし、それも現実性のない空想のものばかり。
そういった存在を、多くの人は認識していないようだ。
あの時クロが喰らった村上に憑いていたものも、言ってしまえば悪魔と同じ精神体。
実際にはいるが、この世界の殆どの人間は気付いてすらいないのだった。
まあ、政道のようなものならば多少気付いてはいるようだが。
クロはさも面白いと、内心で笑う。
この世界の人間は、実物の悪魔など殆ど見たことがない。
それにも関わらず、解釈する悪魔の本質というものは、自分に当てはめてみても、あながち間違っていない。
悪魔が何処の世界でも恐れや畏怖の対象である事に、クロは愉快な気持ちを覚えるのだった。
翌朝。
前日に仕事を中断して話し込んでいた政道は、まことが起きた時には既に自宅にはいなかった。
クロも用のない時は姿を消していたので、まことは身支度を整えると、簡単に朝食を済ませて早々に家を出る事にした。
昨日あんな事があったにも関わらず、当たり前のように学校へ行くというまこと。
いつものようにサクラと挨拶を交わせば、サクラからも心配の心がクロに伝わってきた。
クロは姿を消したまま、当然ついていく。
サクラの心配を受け取って、まことと共に境内を後にした。
政道が御社から用を済ませて出てくると、丁度まことが石段を降りていくところが見えた。
まことの後ろ姿を黙って見送った政道は、ひとり頭を悩ませていた。
兄に、何と報告するべきか。
あの、娘を溺愛している兄に。
政道はまことが悪魔に助けて貰った事は報告するとしても、まことのすぐ近くにクロが存在する事はどうするか、その事に深く悩んでいた。
兄は自分以上に忙しく日々働いている。
しかも、可愛い娘とは長く会えず、家族とも離れて単身赴任しているのだ。
そんな兄に、どう説明するのか。
まことは悪魔と契約し、ずっと悪魔と共に過ごしている。
そう、あるがままを伝えるか。
いや。
それだけは出来ないと、政道は頭を振った。
兄は、表面上は穏やかだ。
しかし怒りに触れれば非常に恐ろしく変貌するのを、弟である政道は何度も目にしてきた。
政道はそれを思い出し、身震いする。
結局、兄の反応が怖くなった政道は、クロの詳しい事は伏せておく事にした。
まことの危機に助けて貰った事実だけを伝える事に決めたのだ。
つまり、まことについて回るクロの存在は見て見ぬふり。
それが離れて暮らす兄の為にも最善だと無理やり自分を納得させた。
そうだ。
無用な心配をさせることはない。
うん、そうしよう。
政道は何度も頷きながら、自分の仕事に戻って行った。
教室に着いたまことは、自分の席に腰を下ろした。
クロは姿を消したまままことの側にいて、教室の中を観察する。
昨日あんな事があったからか、それともいつもの事なのか、まことは誰とも挨拶もしなければ視線も合わさない。
周りも、クラスの中でまことの姿だけが見えていないかの様に反応が無かった。
村上は休みだった。
理由は体調不良。
いじめの首謀者がいないので、嫌がらせは止んでいた。
それだけでなく、昨日のまことの反応を見て、自分が加害者側になる事を恐れた者も多かったのかもしれない。
まことは久し振りに穏やかで静かな学校生活を送っていた。
まことは一人でいることが多かった。
というより、学校にいる間のほぼ全ての時間を一人で過ごしていた。
授業中は元より、休み時間も本を読んだり予習をしたり。
あるいはスマホでネットスーパーの特売を覗いていたりと、誰かと接すること無く昼休みを迎えた。
まことが机の上に弁当を広げ食べ始めると、教室の窓側の方の席がざわざわと騒がしくなった。
普段なら気にしないまことだったが、なぜか気になり視線を向けた。
すると、窓の外を見ていた一人の男子生徒が指を差しながら声を上げた。
「うわっ!まじでピンクじゃん!」
その指の示す先をまことも目で追う。
「だろ?あれ何の鳥?」
「知らね。あんなん見たことねぇよ」
「え?あれって鶯じゃん?」
「は?ウグイス?違うでしょ」
「えーでも、形は鶯だよ」
「だってウグイスって、緑でしょ」
「だったら新種じゃん!」
「突然変異かもよ」
「捕まえようよ!」
「高く売れるかな」
何人ものクラスメイトが窓辺に集まり、賑やかに議論していた。
まことはすぐに気がついた。
慌てて席を立つと、階段を駆け下り、外に面した渡り廊下へとやってきた。
周りに人目がないことを確認し、声を掛ける。
種別でもあり固有でもあるその名を呼んだ。
「サクラ」
呼ばれたサクラは、薄いピンク色の翼を羽ばたかせてまことの元へと飛んできた。
そしてすっと、差し出された指へと留まる。
まことは自分の手にいるその小鳥を、目を見開いて見つめた。
「変態できるようになったか」
「クロ」
クロが姿を消したままサクラへ向けてそう言うと、サクラは小さく鳴いて応えた。
クロが言うには、この鶯はサクラの切り落とされたあの枝が姿を変えたものだという。
村上の一件があった為、学校でのまことが心配で付いてきたのだとクロから聞いた。
まことは開いた口が塞がらない。
悪魔の眷属になったことで、色々とできるようになったそうだ。
これでも目立たないようにしたようだが、側に控えるには目立ちすぎた。
サクラの持つイメージ力では鳥や昆虫に擬態するのがやっとだったらしい。
クロは姿を現すと、鶯に手を翳す。
まことの指にのっていた小鳥は薄いピンク色の光に包まれると小さく丸く形を変えていった。
次第に光が収まると、それはころりと手の平を転がる。
クロの力でサクラはひとつの小さなピアスになっていた。
「耳を貸せ」
「え?」
まことが応えるよりも前に、ちくっとした痛みが耳に走りすぐに消えた。
クロがピアスに姿を変えたサクラをまことの耳につけていた。
「人には見えないようにしてある」
まことはそっと左耳に触れる。
そこには確かにピアスがついていて、サクラの気配も感じ取ることができた。
「これで傍にいられるだろ」
クロの言葉に、まことはぱっと表情を変えた。
「ありがとう!」
余程嬉しかったのだろう。
まことからもサクラからも、深い感謝の感情がクロに伝わったきた。
まことは頬をほんのりと紅く染めて、本当に嬉しそうに笑顔を浮べている。
クロはそれをちらりと目に留めると、また姿を消した。
まことは美しかった。
その容姿で人を魅了したり誑かしたりする悪魔であるクロでさえもそう思う程、整った顔立ちをしている。
無表情でもそうだったのが、淡い微笑みを浮かべていれば尚際立った。
更にサクラのピアスに時々触れる仕草が、妙に色っぽく見えて、午後の教室には不穏な気配が漂い始めていた。
その後クラスメイトの男たちが密かにまことに近づきだした。
それは、他者に聞こえないようにささやかに接触を図る程度だったが。
それがまた、不幸を呼び寄せる気配がした。
午後の一つ目の授業が終わり、僅かな休み時間になった。
まことがトイレから出て教室へ戻ろうと歩いていると、控えめに後ろから声を掛けられた。
立ち止まり振り返ると、そこにはほとんど話したことの無いクラスメイトの男子生徒がいた。
「あのさ、日曜に試合があるんだけど観に来ない?」
唐突な誘いに、まことは意味がわからなかった。
なぜ急にそんな事を言い出すのだろうかと首を撚る。
しかし、悩む間もなく答えは決まっていた。
「ごめん、行けない」
まことは素っ気なくそう答えると、教室へと戻っていった。
一日の授業が終わり、部活や委員の仕事のない生徒が煩く帰宅していく。
まことは今週は掃除当番だったので、教室内の掃き掃除をしていた。
他にも掃除当番のものはいるが、話していたりスマホを弄っていたりしていて掃除の手は進まない。
殆どまこと一人の力で掃除が終わると、当番のみんなもそそくさと帰っていった。
まことは帰り支度を整えてから、さっき纏めたゴミ袋を手に持つ。
あとはこれを収集場所へ持っていけば掃除は終わりだった。
ゴミを捨てて昇降口へ向かおうとすると、またしてもクラスメイトの男子生徒に声をかけられて、まことは立ち止まった。
「これからカラオケに行くんだけど、よかったら」
「ごめん、行けないの」
まことはあっさりと誘いを断る。
男子生徒は、あ、そうと肩を落として帰っていった。
さっきといい今といい、二年になって初めて同じクラスになった男子生徒だった。
まことはまだ名前も覚えていない彼らに、少しの申し訳なさを覚えながら昇降口へと歩き出した。
下駄箱でくつに履き替えていると、突然上から水を掛けられた。
ガランとバケツの落ちた音と、きゃははと高い笑い声があたりに響く。
もう下校している生徒もほとんどいない為、まことは下駄箱でひとり立ち尽くしていた。
どうやら、クラスの女子たちの妬みを招いたようだ。
ちょっと嬉しいことがあって、浮かれただけでこれだ。
まことはため息をついて、濡れた制服のまま家路についた。
帰宅してすぐにシャワーを浴びて着替えたものの、夜になる頃には酷い寒気がした。
まことは、どうやら風邪をひいしてまったようだと悟り、ベッドへ横になる。
思ったよりも身体は辛かった様で、あっという間に眠りに落ちた。
そんなまことの様子を、クロは黙って見下ろしていた。
人間とは、なんて弱い生き物なのだろう。
クロは言葉が出なかった。
弱いものとは思っていたが、あまりに死の近くで生きるその姿に呆然とした。
それでなくとも、まことはせっかく手に入れた特上の契約相手。
簡単に死に奪われてたまるかという思いが込み上げてきた。
対価を以て治してと願えばたちまち治すこともできるのだが、それを持ちかけたまことは大丈夫と一言応えると深い眠りについてしまった。
対価に対して警戒しているのだろうか。
長く利を得たいクロとしては、無理な対価は要求しないのだが。
クロはもちろん看病などしたこともなかった。
だから、姿を消してただ傍で様子を伺っていた。
深夜になって、まことが眠りから目を覚ました気配を感じ、クロは姿を現した。
「……クロ」
力なく潤んだ瞳で呼ばれる。
「なんだ」
呼び掛けに応えると、まことの何かを訴えるような視線を受けて、クロは一瞬姿を消しまたすぐに現れた。
その手には、今冷蔵庫から取ってきたばかりと思われるミネラルウォーターがある。
のそりと身体を起こしたまことに、蓋をひねりあけてから手渡した。
「ありがとう」
まことは薄っすらと笑みを浮かべて受け取り、早速口をつけて飲み始める。
ただ水を飲むだけの動作が、朦朧としている為か頼りない。
少し飲んだ所で、力がうまく入らないのか口の端から水が溢れた。
「あ、」
慌ててペットボトルを置き、ティッシュに手を伸ばす。
しかし、その手はティッシュを掴むことなく、空中で停止した。
「え」
溢れた水が、顎の先からぽたりと落ちる。
溢したのと逆の頬に不意に添えられた手には温もりがあり、まことは、悪魔にも体温があるんだなんてことをぼんやりと思った。
そんなことを考えていると、流れ落ちていた水を顎先から掬い上げるように拭われていく感覚にはっと我に返った。
気づけば至近距離に、整ったクロの顔。
そして、ゆっくりと頬を通り、唇の端まで水を吸い取っていく舌先。
まことは手だけでなく全身の動きを止めて固まった。
溢れた水を舐め取ったクロは顔を離すと、まことが取ろうとしていたティッシュを一枚抜き取り、下に垂れていた水滴を拭う。
「しっかりしろ」
「あ、うん」
戸惑う自分を見て訝しげな表情を浮かべるクロに、まことは納得した。
自分には衝撃的なことでも、悪魔であるクロにとっては何でもないということを。
そういえば、最初の対価の血をあげたときもこうだった。
クロにとってはこれは普通のことなのだと理解した。
「……うん、ありがとう」
とりあえずお礼を述べれば、クロは満足そうな表情を浮かべた。
まことは肝に銘じた。
悪魔と共にあるということは、そういう価値観の違いも受け入れていかなければいけないのだと。
起き上がれるようになったまことは、自分で食事の支度を始めた。
人参と大根、長ねぎに椎茸と順番に切っていく。
手際よく刻まれていくそれを、クロは興味深そうに眺めていた。
まことはふと思い立ち、手を止めて素朴な疑問を口にした。
「悪魔は食事はするの?」
「ああ」
クロはまことの手元から顔へと視線を移して、簡単に答える。
「生き物を食べるの?」
「いや、物質ではなく生気や魂だな」
「生気や魂……」
それがどんなものなのか、まことにはいまいちピンとこない。
暫く考えていると、そういえばと思い出した。
「あ、村上さんに憑いてたっていう?」
「あれはなんの足しにもならなかった」
喰った、とは言ったが、食べてもたいして取り入れられないものも多い。
村上に憑いていたのは所謂、魔物や悪霊の類いだとまことは認識していたが、それにも色んな種類やランクがあるようだった。
あれは小物過ぎて、クロの腹には全く足りなかった。
「じゃあ、対価とか?」
「そうだ。その対価となる物質に含まれる生気を貰うか、接触によって吸い取るのが主だな」
まことの的を射た質問に、クロは淡々と答えていく。
あれ?でも血とか髪って物質じゃないの?という疑問にも、聞くまでもなく答えが返ってきた。
血や髪そのものでなく、それに含まれる生気を得ているらしい。
「対価でしか得られないの?」
「いや。欲しくなれば好きに奪うまでだ」
そう。
通常はこんな面倒なことはしない。
まことは疑問をそのまま口にする。
「じゃあ、どうして私とは契約を?」
クロはその質問にはすぐには答えずに、じっとまことを見つめた。
まことは首を傾げてそんなクロを見つめ返した。
「さあな」
「?」
クロはそれ以上答える気は無いようで、特に答えが欲しかった訳ではないまことももう聞かなかった。
まことは気を取り直して調理を再開する。
クロはそれを観察しつつ、最後の問について考えていた。
なぜ?
そんなものは単純な話だ。
まことの生気が、極上の味だったからだ。
召喚に使われたまことの髪は、甘美な香りを異世界にまで漂わせてクロを誘った。
召喚に応じて一番に駆けつけ、その生気を味わってみれば味も極上で、それも、かつて味わった経験のないほど美味だった。
クロは悪魔らしい思考で思いついたのだ。
一時の美食で済ますにはあまりに惜しい。
多少手間でも、契約の手段を取れば囲い込め、うまくやれば安定的にいくらでも手に入る、と。
さっき水を舐め取るついでに少しつまみ食いをしたが、それもまた最高の甘さだった。
やはり、自分の目に狂いはなかった。
クロは幸運だったと内心で嗤っていた。
そしてそれは、まことにとっても幸運だった。
クロは純粋に生気を味わうのを好んだが、悪魔の中には人間そのものを屠って生気を得るものもいた。
悪魔は皆多かれ少なかれ、残虐性を持っいる。
視力を奪われたり、心臓を抜かれたりするのもまだマシな方かもしれない。
獲物本人よりも、敢えてその身近なものを凄惨なやり方で屠るものもいる。
そういった輩は、獲物から溢れる絶望から得られる生気を好むのだった。
悪魔の食事とは実に多様で、やり方は様々。
むしろ、クロの様に髪や血で済んでいるのは、稀なのだった。
まあ、まことの抱える力の大きさから、僅かな量の対価でも満足できているということも大いにあるのだが。
「じゃあさ」
「なんだ」
クロがまことの味を思い出し、食欲を刺激されていると、まことが呑気に話しかけた。
この娘には危機感がないのだろうか。
半ば呆れながら視線を手元から顔に再び移す。
「人間の食事は食べられないの?」
「身にはならないが、食べることはできる」
「じゃあ、一緒に食べよう?」
クロは思わずぽかんとしてしまった。
あまりに思いもよらない提案に、空いた口が塞がらない。
「……は?」
「いや?」
「別に」
「じゃあ、決まり」
まことは野菜を鍋に入れて、にこりと笑った。
食卓に用意された二人分の食事。
和室である為まことは座布団に正座で座り、その向かい側にクロがあぐらをかく様にして座った。
大きめの卓袱台には、煮込みうどんと漬物、そして淹れたてのお茶がすでにまことによって配膳されている。
「いただきます」
「……いただきます」
悪魔がいただきますと言うのはおかしいかと思ったが、クロは特に気にすることなくまことに習って食事を始めた。
箸の使い方やうどんの食べ方はまことを見てすぐに習得した。
サクラのおかげでこの世界、そして日本という国の記憶を得ていたので、箸も難なく使いこなす。
同じ様にうどんを挟み上げ、口に運んだ。
まことがこっそり様子を伺っているのには気付いていたが、気にせず食べ始める。
口に入れると、ほのかに香る出汁。
つるりとした食感に、柔らかくも弾力のあるしっかりとした麺。
ふんだんに入っている野菜の甘みや、味噌や醤油の奥深い塩気。
最後に鍋に落とされた卵に麺を絡めて食べてみたら、それはまた違う食感で。
「……美味い」
クロは無意識に呟いていた。
そして驚きを隠す事なく、うどんを凝視している。
「よかった」
まことはにっこりと微笑んで、また自分のうどんを食べ始めた。
クロも過去に人の食事を食べたことはあった。
でも美味いと思ったことはなかった。
それはどの悪魔にしても共通の認識で、生気の方が断然美味いと感じるのだ。
生きているものからしか得られない生気。
しかし人が食べるのは死んだものばかり。
そもそも悪魔が人間用の料理を好き好んで食べること自体ないのだった。
しかし、なんだこれは。
美味すぎる。
この漬物というものも、なんだ。
うどんをしばらく食べてからひとつつまんでみれば、甘さと酸味と塩気の絶妙なバランスが口の中をさっぱりとさせてくれる。
更にこりこりとした食感が、快感にさえ思えた。
もう一度うどんを口に運べば、再び深い出汁の香りが鼻に抜けて、いくらでも食べられそうな気がした。
なんだ、これは。
もちろんまことの生気の味には遠く及ばないが、それでも充分に美味いと感じた。
まことは、箸の止まらない様子のクロに笑みを浮かべた。
気に入って貰えたようでよかった。
一人で食べるのがなんとなく寂しくて、誘ってみただけだったけれど。
その日から食事はふたりで食べるのが日課になった。
体調も回復し二日ぶりに学校へ行くまことに、クロは姿を消したままついていく。
まことへ興味を見せていた男たちは、また影からまことを見つめるようになっていた。
どうやらまことに害意を与える女達が怖いようだ。
クロはいじめの先を読んで、フォローするようになった。
男がまことに邪な感情を持って近づけば、それを遠ざける。
女がまことに嫌がらせをしようとすれば、偶然を装って失敗に終わらせる。
その甲斐あって、まことは平穏な学校生活を送っていた。
人間はすぐに病気になる。
心も弱く、病みやすい。
しかも、ちょっとしたことで致命傷にすらなる。
クロは人間とはそういうものだと、実感していた。
まことは大切な契約相手だ。
まことと契約した時点で契約者であるまことを最低限守る義務はあった。
しかし、こんな些細なことすら回避させる必要は本来ない。
それでも、いつもいい状態で対価を得たいクロとしては、当然の対策だった。
「クロ、ありがとう」
まことはクロのしていたことに気づいていたらしい。
それはそうかと、クロは思った。
これまで受けてきた悪意が激減したのだから、当然だった。
まことはクロに微笑みかけて感謝を伝える。
そして自ら言葉にした。
「対価は?」
「別にいい」
クロがぶっきらぼうに答えると、まことは少しだけ声を上げて笑った。
クロはその笑顔をちらっと見ただけで、また姿を消した。
対価をまことの方から切り出されるとは思わなかった。
本当は、上げ膳据え膳で頂いてしまっても良かったのだが。
何となく自分が勝手にやった事でそれを貰うのは、悪魔としての矜持が許さなかった。
そんな生活にふたりが慣れてきた、ある日の学校からの帰り道。
坂を登りきり鳥居をくぐる手前で、まことは立ち止まった。
道路を挟んで鳥居の斜向かいにある自治会館の方から、鳥の鳴き声が聞こえる。
まことは、迷わずそちらへと向かった。
行ってみると、自治会館の軒下に燕が巣を作っていて、雛に餌を与えるために親鳥が飛び交っていた。
しかしまことは、騒がしい軒下ではなく足元を見つめていた。
そこにいたのは、一羽の燕の雛。
もぞもぞと動き、弱い声で親鳥を求めて鳴いていた。
どうやら巣から落ちてしまったようだ。
幸いまだ生きているが、このまま巣に戻してもいいものか。
まことがそっと拾い上げて悩んでいると。
「その雛は死ぬ」
「え?」
姿を現すことなく声だけでそう告げるクロに、まことは顔を向けた。
姿はなくても、どうしてそう言えるのか知りたくて、クロのいるであろう空間を見つめる。
それを受けて、クロは淡々と事実を伝えた。
「翼の骨が折れている」
「……そっか」
鳥の雛は、巣立てなければ死んでしまう。
翼が使えなければ、それは確実だった。
まことは悲しそうに雛を見つめる。
その瞳は今にも泣き出しそうだが、涙が溢れる事はなかった。
クロは、この雛を助けてくれと懇願されると思っていたが、まことはしなかった。
「私には、何もしてあげられない」
どうやら、自然界の命の流れを受け入れるつもりのようだ。
クロはまことをじっくりと見つめる。
「でも、せめて巣に戻してあげるね」
親鳥を呼ぶ雛の声と、それに応えるように上空を飛び回る親鳥の鳴き声。
たとえ、死という別れしか待っていなくても、帰してあげたかった。
まことは自治会館の裏から脚立を取ってこようと踵を返した。
しかしその足は踏み出されることなく、その場で動きを止めた。
「わっ」
クロが姿を現して目の前に立っていた。
そして、おもむろに片手を差し出す。
まことは意味を理解して、そっと雛をクロの手のひらにのせた。
「戻してくれるの?」
「ああ」
クロは答えるなりふわっと飛び上がり、巣の中に雛を戻した。
雛はまた、親鳥から餌を貰うべく、元気に鳴き出した。
「ありがとう」
儚くも嬉しそうに微笑んで、感謝を伝える。
クロはその表情を見て思った。
まことはきっと、他の雛が飛び立つのも、この雛が死んでいくのも見守るつもりなのだ。
そして、死に立ち会う時には泣くのだろう。
そんな光景が、クロの頭に浮かんだ。
おかしな女だ。
簡単に対価を差し出そうとするなら、願えばいいものを。
桜の木を救った時のように、悪魔ならそれを叶えられることもわかっているはずなのに。
クロはまことの礼には何も返すことなく、再び姿を消す。
まことは気づいていないようだが、いずれあの雛は飛び立つだろう。
雛の翼を治したのは、ただの悪魔の気まぐれだった。
それから、毎朝学校へ行く前に、燕の雛を見に行くようになった。
今日も元気に親鳥を呼んで鳴く様子に、まことは淡い微笑みを浮かべて眺める。
クロはただ黙って、そんなまことを見ていた。
「結城さん」
「橋本くん?」
授業も終わり帰ろうと校門を出たことろで、呼び止められた。
まことが振り返ると、そこには一年生の時から同じクラスの橋本がいた。
珍しく話しかけられて戸惑ったまことが僅かに首を傾げると、その拍子に髪がさらりと揺れて胸の前に流れる。
それを見て橋本が息を呑んだ事に、クロは気が付いた。
「あの」
橋本が何か言おうと口を開く。
しかし、続く言葉は出てこなかった。
「まこと」
クロは橋本と向き合うまことの背後に立ち、まことの腹に腕を回して引き寄せた。
まことはその力に逆らう間もなくクロにもたれ掛かったので、自然と後ろから抱き寄せられた形になった。
そのままクロは、驚いているまことに囁く。
「帰るぞ」
そして、有無を言わさずにまことの手を引いて歩き出した。
残された橋本は、ただ呆然と二人の後ろ姿を見送るしかなかった。
クロは、橋本からは特に悪意や害意は感じなかった。
それでもクロが動いたのは、ただ気に入らなかったというだけの理由だった。
なんとなく、虫が騒いだ。
こいつはまことに近付けてはいけない、と。
クロは考えていた。
姿を消したままフォローするにも、まことの悪運を引き寄せる力が強すぎて限界がありそうだった。
いくら阻止してもきりがない現状に、クロは打開策を探っていたのだ。
でも今、それが分かった気がした。
どうやら、姿がある方が便利そうだ。
クロは名案を思いつき、笑う。
そうだ、自分もクラスメイトになってしまえばいい、と。
取り残された橋本は、そこに立ち尽くして二人を見ていた。
そんな様子を、橋本に想いを寄せる女が見ていた。