一、召喚されたのは、悪魔
都心の、それもほぼ中心部ともいえる場所にある、古い神社にいつも通りの朝がやってくる。
大通りを一本逸れた通りに面した、長い石段を登った先にあるお社は、それほど大きくはないが見る人が見れば格式の高さを感じさせた。
境内には歴史ある物が多くあるが、そこから見下ろす街には高層ビルやマンション、雑居ビルに幹線道路と近代的な景色が広がっている。
朝の出勤や通勤に忙しなく行き交う人々の姿はここからは見えないが、次々に走りゆく電車や車の多さを見れば安易に想像できた。
朝の喧騒にざわめく街並みを一望できるここは、まるで別世界の様に穏やかな朝を迎えている。
境内の端にある銀杏の木から、小鳥が飛び立った。
それとほぼ同時に、神社の脇に立つ住居と思しき建物から、深緑色の制服に身を包んだ少女が物憂げな表情を湛えて出てきた。
引違いの玄関ドアを静かに閉めて境内の奥へと歩き出す。
少女は居候しているこの神社の境内の一番奥にある、一際大きな桜の木の前までやってくると、おもむろにその幹へ額を付けた。
新年度になって初めての登校となる日だったが、今年は開花が遅かったためまだ二分咲き程度だ。
弾けそうなほど膨らんだ蕾たちは、あと数日の内に訪れる満開の日を今か今かと待ちながら朝日を浴びている。
少女は、春休みが終わって新学期初日だから、という訳ではない気の重たさを拭い去るように、桜の木に声をかけた。
「おはよう」
もちろん返事などない。
それでも少女は薄く微笑むと、ゆっくりと額を離してその大きく広がる枝を見上げた。
「行ってきます」
そう呟けば、桜ははらりとひとひらの花弁を落とし、今度はまるで返事を返したようだった。
少女は唯一の友達への挨拶を終えて、歩き出した。
今日も気は重いが、学校へと向かう。
長い石段を降りて、更に緩く続く坂道を下っていく。
坂を降りきればもう学校だった。
「……よし」
校門の前で一度立ち止まり、小さな声で気合を入れてから中へ入った。
周りには友人同士連れ立って歩く者たちや、朝練が終わり急いで更衣室へと向かう運動部の者たちが、騒がしく教室へと歩いていく。
至ることろで朝の挨拶が交わされ、笑い声や雑談が飛び交っているが、こちらに向けられることはなかった。
結城まことは記憶のある限り昔から、不運と呼ばれるものに見舞われ続けていた。
見目麗しい容姿にも関わらず、誰もまことに声を掛けないのも、その内のひとつだった。
高校二年生になって初日の今日もそれは変わらず、これがいつも通りの平常運転。
一人、ただ足だけを動かして教室を目指した。
腰まで伸ばした長い黒髪が、階段の踊り場を回る僅かな遠心力で揺れた。
艶々と光を振りまくそれに、擦れ違った男子生徒が見惚れていたが、まことは前だけを見つめて通り過ぎた。
他にも密かに視線を集めていたが、まこと本人が周りからの視線に興味がない為、気付かない。
まことは自分の持つその雰囲気によっても、周りのものを遠ざけているという事は理解していた。
それでも特に気にしないのは、そもそも他者と親しくなる気がないだけだった。
階段を登り、廊下に貼り出されたクラス分けを確認して自分の新しい教室の前に来ると、ドアに座席表が貼ってあった。
五十音順で書かれた自分の席を確認して、開け放たれた後ろのドアから中に入る。
しかし座席表にあったはずの自分の席は、なかった。
高校に入学して間もない頃から、まことはいじめられていた。
きっかけは、ほんの些細なことだと思う。
たぶん、遊びの誘いを断ったとか、気に入らない態度をとってしまったとか、おそらくそんなところだ。
自分の記憶にすら残らない程度の出来事が、いつも最悪の事態にまで発展してしまうのだった。
クラスメイトの村上がくすくすと笑っている。
また同じクラスか、とまことは内心で残念に思う。
彼女がやったということは既にわかっていた。
実際に手を下しているのが彼女かはわからないが、首謀者は彼女だと確信している。
それは、これまでも教科書を破かれたり、体操服を隠されたり、誹謗中傷を受けたりと様々な嫌がらせを受けてきていたからだ。
それでもまことは、さして気にすることもなく自分の机の行方を探した。
見回せば教室の隅に机と椅子がいかにも蹴り倒されたような形であった。
まことはそれを起こし、自分の席があったであろう場所に運ぶ。
まずは机を両手で持ち上げて運んでいると、足元に何かが引っかかった。
まことは体勢を立て直すこともできず、激しい音をたてて机と共に転倒した。
誰かの足が自分の足を故意に引っ掛けたようだ。
幸い怪我はしなかったが、笑いを必死に堪える村上を見れば、気分は落ち込んだ。
今日も憂鬱な一日が始まる。
そんな新学期を数日過ごした、朝。
まことは、いつものように挨拶をするべく桜の木の元へと向かった。
すぐ側まで歩み寄り、太い幹にそっと手を触れる。
普段はそこへ額を付けて話しかけるのだが、今朝はそうする事なく枝の一部をただ見つめていた。
まことの目の高さより少し上の辺り。
見開かれた大きな瞳に、満開の桜が映っていた。
まことは手に下げけいた学校鞄をどさりと落とす。
あまりにショックで、動けない。
きっと、鞄を落としたことすら気付いてはいなかった。
ようやく満開を迎えて咲き誇っていた桜の枝が、切られていた。
「……酷い」
明らかに刃物により付いたであろう切り口があまりにも痛々しくて、まことは顔を歪ませた。
辺りを見ても切り取られた枝は無く、誰かが持ち去ったようだ。
なんて、心無い人がいるのだろう。
美しさに魅せられて、持ち帰ったのだろうか。
花は自然に咲いている姿が一番美しいと、まことは思う。
花屋に売られている花を見て綺麗だとは思うけれど、心を動かすような感動はない。
自然の中に根を張って、成長し、花を咲かせて、実を実らせ、種を撒いて、枯れていく。
その流れの全てがあってこそ、花を咲かせた一瞬の美しさに心を奪われるのだと思っていた。
まことは切られた枝の部分をそっと撫でた。
その目には悲しみが色濃く宿っている。
これも、自分の不運が招いた事なのだろうか。
まことは桜の木をそっと抱き締めると、気落ちしたまま学校へと向かうのだった。
歩き慣れた道を行き教室に入ると、今日はちゃんと定位置にある自分席を見つけた。
しかし、安堵したのも束の間、まことは昨日以上のショックを受けてその場に立ち尽くした。
机の上には細い花瓶が置いてあった。
そして、それには花が生けられている。
机の真ん中に、まるで故人に供えられているかのように置かれていた。
まことはそういったいじめ自体には傷ついてはいなかった。
でも、その花が彼女の心をひどく傷つけた。
薄紅色の儚い花弁から、目が逸らせない。
それは彼女の親友ともいえる、あの桜の花だった。
くすくすと笑う声が聞こえた。
声の主はもうわかっている。
大抵のことは黙って受け入れていたが、今回ばかりは我慢できなかった。
まことは村上を睨みつける。
いつもとは違う雰囲気に、村上はびくりと肩を震わせて固まった。
有無を言わさぬ圧力を感じて、村上だけでなく教室の中の全ての音が消えた。
まことは初めて、自分のおかれた境遇を受け入れなかった。
暫くそうしてから、まことは村上から視線を外した。
そして、クラス中の視線を受け止めながら花瓶から桜の枝を抜き取ると、それを持って今来たばかりの道を戻っていく。
まことの去った教室は、ざわめきに包まれていた。
まことがいじめを受けていたのは、みんな知っていた。
それでも、誰も先生に報告もしなければ、助けようともしなかったのは、本人がなんてこと無さそうに振る舞っていたからだった。
村上も暴力とまでいう様な事はしていなかったし、周りも本人がそんなに気にしていないならば関わりたくないというのが本音。
みんな見て見ぬふりをしていた。
それが、初めて反応を変えた。
明らかな感情が見て取れたのだ。
「おい、やりすぎじゃねぇの?」
「ちょっと可愛そうだったんじゃん?」
ちらほらとまことを擁護する声が上がりだす。
それは、本当に可愛そうと思っている訳ではなく、加害者では無いことを証明する為の線引き。
保身の為の叱責が、村上に降り掛かった。
村上はそれを受けて、言いようのない感情が溢れ出してくるのを感じていた。
学校からまっすぐ神社に戻って来たまことは、桜の木の前まで来ると幹に手を当てて、その大きく広がる枝を見上げた。
やはり切られた跡が痛々しい。
まことは持ち帰った枝を強く握り締めて、呟いた。
「ごめんね」
この傷は、自分のせいだった。
自分に向けられたもののせいで、友達を傷つけてしまった。
悲しみと後悔で、胸が痛い。
痛くて、苦しかった。
当然返事や許しはなかったが、また花弁が一枚まことに舞い落ちた。
それはまるで慰めるように、まことの肩に触れる。
まことは少しだけ表情を解いて、満開の桜を見上げていた。
桜の木と言葉の無い対話をしていると、不意にぞくっと嫌な感じがした。
寒くもないのに、足元から震える。
まことは、原因もわからずにそちらを振り返った。
視線の先には、何も無かった。
それでも嫌な感じは治まる事なく、次第に強くなっていく。
まことが注意深く石段の方を見つめていると、誰かが石段を登り境内へと入って来るのが見えた。
その人物はまことと同じ制服を身に着け、ゆらゆらと揺れながらこちらへやって来る。
手にはこの枝を切ったときに使ったのであろう枝切り鋏が握られていた。
その目は血走り、怒り狂っている。
「お前の、せいだ」
普段の声とは全く違う、低く嗄れた声が聞こえた。
それでも間違うはずがない。
なぜなら彼女は、まことのクラスメイトなのだから。
「……村上さん」
呼ばれた相手、村上はなにやらぶつぶつと呟きながらまことの方へと歩いてくる。
まことは恐怖を感じながらも、桜の木を背に対峙した。
「お前が悪いのに……」
「せっかく誘ったのに……」
「私は、悪くない……」
呟きを聞いていると、やはり過去に誘いを断った事があったようだ。
それが彼女の癇に障ってこうなってしまったのだと、まことは理解した。
村上はまことの目の前までやってくると、躊躇うことなく鋏を持つ手を持ち上げ横に振り抜いた。
まことは目の前を走る刃物を避けようとした。
しかし僅かに掠ってしまったようで、その痛みに顔をしかめた。
まことは痛みと衝撃にふらつき、桜の幹に背中を付ける。
頭の中では、この状況をどう切り抜けようかと逡巡していた。
何がいけなかったんだろう。
どこで間違えたんだろう。
そんな疑問を抱くことすらない程に、こういった状況には慣れてしまっていた。
不運や災いが降りかかる事に疑問も抱かないし、嘆くこともない。
酷い事態であるにも関わらず、まことは冷静だった。
微かな風に舞い散る桜の花びらが、この最悪としか言えない状況を鮮やかに彩っていた。
横一文字に切られた頬の傷から、血が一筋流れ落ちる。
足元にはその傷をつけられたときに一緒に切れた髪が一房散らばっていた。
髪を切れられても、まことはなんとも思わない。
せっかく腰近くまで伸ばしたけれど、それが短くなったとしてもそこまでショックではないし、時間さえ経てばまた伸びるものなのだからどうということはなかった。
頬の傷は、単純に痛い。
びりびりと痺れる痛みが、早まる鼓動に合わせて疼くように痛んだ。
でも、今はそれすらもどうでも良かった。
目の前に突き付けられた枝切り鋏。
そして、背後に桜の木。
突き付けられた凶器は、それを持つ者の狂気によって、更に恐怖感を煽った。
どうしよう。
焦りを覚えつつ、ひたすらに考える。
どうしたらこの窮地を抜け出せるのか。
それだけに頭を働かせた。
翳された刃が、ぎらりと光った。
まことが何かを考えつくよりも先に、それは躊躇うことなく振り下ろされた。
避けなければ、そのまま顔に突き刺さる。
でも、避ければ桜に当たってしまう。
まことは動くこともできずに、ただ叫んだ。
声に出すこともなく、心の中で。
“誰か!助けて!”
力の限り強い想いを込めて祈った。
激しい爆音と共に、地を伝って衝撃が届いた。
落雷か土砂崩れか、はたまた隕石でも落ちてきたのか。
はっと我に返り、目の前に差し迫っていた凶器を見れば、それは男の手によって掴まれ動きを止めていた。
そして不意に力の抜けた手から枝切り鋏が落ち、村上は意識を失って崩れ落ちた。
慌てて近寄り様子を観察すると、肩は微かに上下していて気を失っただけだとわかり、まことはほっと胸を撫で下ろした。
「俺を呼んだのはお前たちか」
唐突に声をかけられて、まことは男へ振り返った。
「え?」
そして、その容姿に言葉を失った。
その男は、見たことのない不思議な髪色をしていた。
一言で言えば、銀色。
でもよく見れば、黒髪なのかもしれないとも思える、どちらともつかない色味をしていた。
影になっている所はきらきらと光を振りまいているのに、陽の光の当たっている所は漆黒と言うしかない程の闇色をしている。
敢えてその髪色を表すなら、星空色。
そんな表現がまことの心に浮かんだ。
目の色も同じ様に、銀色の様な黒の様などちらとも言えない輝きを湛えている。
ただその瞳だけは、何処までも深い黒色だった。
男は服も見たことのないデザインのものを纏っていた。
どこの国の民族衣装でもなさそうなそれは、どんな色も、光でさえも侵すことのできない色をしていて、髪や瞳と同じく闇そのものの色に見えた。
まことは、そんな人にあらざる色を前にして、どうしてか懐かしさを覚えていた。
初めて見る不思議な色に、心を捕われた。
その周りをたくさんの桜の花弁が降り注いでゆく。
現実のものとは思えない幻想的な光景に、まことは男に暫く目を奪われていた。
しかし、花の形のまま落ちる花弁が目の前を掠めた瞬間、はっと我に返り振り返った。
さっき音がした方向、桜の木がある場所に目を向ける。
凄い爆音だった。
そして衝撃も。
何が起こったのか確認するために、慌てて視線を向けた。
そして、それを目にした瞬間。
まことは硬直した。
桜の木が、裂けて倒れていた。
男は、倒れた桜を前に声も出ないまことの様子を一瞥すると、淡々と話しだした。
「その女に取り憑いていたものが、お前たちが悪魔を呼んだことを悟り、出現する直前に召喚を阻止しようと桜の木を攻撃したんだろう」
「……え?」
悪魔?
召喚?
「取り憑いていたものは、俺が喰った」
「喰……った?」
何がなんだか訳がわからない。
それでもまことは、理解が追いつかないながらも頭を整理した。
村上は何かに取り憑かれていた。
その取り付いていたものは既にこの男によって消されていた。
自らを悪魔と称したこの男によって。
だが、その前に攻撃を受けた桜の木は……。
「……そんな」
まことはがくりと膝から崩れ、座り込んだ。
「この木が俺を召喚した」
男は淡々と事実のみを伝える。
頭上から齎されるそれを、まことは呆然と聞いていた。
「この木は魂の宿った木、霊木だな。だから召喚なんてことができたんだろう」
聞こえているのか、いないのか。
男にはどちらでもよかった。
それでもこうして語るのには、自分の中にも腑に落ちない点があった為だった。
男はまじまじとまことを観察する。
時空を超えた、異世界からの召喚など初めてだった。
本来であれば気配も、その存在すら認知できない程の距離からの呼び出し。
時空を司る悪魔であった為、異世界の存在は知ってはいたが、渡ってくるにはあまりにもリスクが高すぎた為、物理的にも現実的にも有り得ないと思っていた。
それが、実際に起きたのだ。
あまりに唐突に。
強者を呼ぶ強い声が聞こえた。
そこに用意された対価は、格別の甘い香りを放ち精霊や悪魔たちを誘った。
男は、まるで名指しで自分が呼ばれた気さえして、他の悪魔らを喰らい尽くしながらいち早くやって来たのだった。
その対価を目指せば、いとも容易く空間を飛び越えてこの世界へと来る事ができた。
理屈はわからなかったが、純粋に興味が湧いた。
主体となって男を呼び出したのはこの木だった。
長年神気を浴び続けて霊木になっていたようだから、それくらいの事ができるのは男にも理解できた。
短く見積もっても五百年は生きていると思われる、この木。
魔界や霊界からちょっと使役する為に何かを呼び出す事くらいはできるはずだ。
しかし、力あるものを呼び出すには、圧倒的に魔力や霊力等の力が足りないはずだった。
しかも、この木自身よりも遥かに大きな存在である悪魔を呼び出すなどということは、どう考えても不可能だった。
たかだか霊木一本で実行するなど、通常あり得ない事なのだ。
しかし、それを可能に変えるものがそこにはあった。
霊木の前に散ったそれ。
まことのたった一房の髪が、その不足を補ってみせたのだった。
それだけで、高位の悪魔一人を難なく異世界から呼び出した。
しかも驚くことに、その髪は召喚に力を使った後も、更に力を残してそこに存在していた。
それが対価となって、甘い香りを漂わせていたのである。
男はそれに気付き、驚きと興奮を覚えていた。
「そんな、桜が」
まことは座り込んだまま、倒れた桜に震える手を伸ばした。
しかしその手は桜に触れることなく、ぎゅっと握り込まれる。
男はまことの心情を読み取ると、さらりと提案した。
「蘇らせるか?」
まことは俯いていた顔をゆっくりと上げると、真っ直ぐに男を見上げた。
「……できるの?」
半信半疑のまま問いかければ、こともなげな返事が返ってきた。
「ああ」
悪魔である男にはわかっていた。
桜の根本に散った一房の髪。
そこに、まだかなりの密度の力を感じる。
霊木を蘇らせる程の力が、この髪には残っていたのだった。
幸いこの木自体もまだ生きているし、回復させる事は容易い。
男は返事をすると同時に散った髪に手を翳した。
髪がふわっと持ち上がり、男の手に吸い込まれるように消える。
そして、今度は倒れた桜の木にその手の平を向けた。
すると、まるでゆっくりと逆再生をするかのように、倒れていた幹が起き上がり、裂け目がくっついていく。
ものの数秒で元通りの桜の木が目の前に立っていた。
「うそ……」
まことは夢でも見ているような気分で呆然と桜の木を見上げた。
そしてゆっくりと立ち上がり、慎重に触れてみた。
満開の咲き乱れる花たちから、いくつかの花弁がまことの上に舞い落ちた。
紛れもなく、この桜だ。
まことは喜びに瞳を潤ませて微笑むと、その太い幹に腕を回した。
男はそんな様子を静かに見つめていた。
そもそもあの髪は、悪魔を呼び出した対価のはずだった。
本来召喚というものは、呼び出し自体に必要な力と、それに応じて来た者を使役する為の対価の二つが必要となる。
あの髪はそれひとつでそのどちらもを補えたのだが、しかし、男は躊躇うことなく髪の残りの力を使い桜の木を蘇らせた。
受け取る筈だった対価を手放すことを、自らまことに勧めたのだった。
なぜなら。
男は既に、もっと美味そうなものを見つけていた。
男はまことに向き直り、当然のように宣言する。
「俺を召喚した対価を貰う」
何も知らないまことは男の突然の宣言に、事態をよく飲み込めないまま振り返った。
「え?」
「この木とお前が俺を呼んだ」
男はゆっくりと歩を進め、まことへと近づいてゆく。
「あ、」
まことは男の言葉にさっきまでの自分の行動を思い出した。
そうだ、確かに自分も助けを求めた。
誰でもいいから助けてと、心の中で叫んだ。
桜の木が助けを求めたのと同時に、まことも助けを願っていた。
そしてその願い通り、危機は既に回避されている。
「何を、あげればいいんですか?」
まことは素早く理解すると、何を要求されるのか分からない恐怖を感じながらも男の正面に向き直る。
男はまことの理解の速さに満足そうな表情を浮かべると、まことのすぐ目の前で立ち止まり、身を屈めた。
「これでいい」
男はまことの顎を軽く掴み、上を向かせる。
そして顔を寄せて、頬へ舌を這わせた。
垂れていた血を掬うように、切り付けられてできたと思われる傷まで舐め上げる。
まことは身体を硬直させて、微動だにしなかった。
甘い。
それも、格別の甘さだ。
男はこれまで味わったことのないその味に、震える程の興奮を覚えた。
しかも、髪とは比べ物にならないくらいの力を得たようで、表情には出さず驚いた。
この世界に来た時にわかったことだが、男の持つ悪魔の力には制約が掛かったようだった。
もともと持っていた力は大きく抑えられ、使える能力も治癒や擬態変化程度と激減していた。
時空を超えてこの世界にやって来たものの、その能力も今は使えないようで、どうやら元の世界には帰れないようだった。
まあ高位の悪魔である男にとっては、能力など使えなくとも全く問題ないのだが。
それが僅かの血を舐めただけでいくつか解けたようだった。
時空間移転のような大きなものはまだ駄目なようだが、重力制御や催眠、魅了といった中程度の能力は使えそうだと実感した。
「面白い」
男が小さく言うと、まことは固く目を閉じていた目をゆっくりと開けた。
頬に感じていた痛みが消えた事に気付き手で触れてみれば、その顔にあったはずの傷は綺麗になくなっていた。
男は顔を離すと、まことににやりと笑う。
この娘、糧として凄い力を秘めている。
そう確信した。
「この召喚に応じ、お前と契約しよう」
悪魔はその名の通り、悪魔の囁きを齎した。
「契約?」
「お前の望みを対価に応じて叶えてやる」
「え?」
「願いがあれば対価を用意して俺に命じればいい」
男の甘い誘惑に、まことは考え込んだ。
しばらく悩んでいたが、意を決した様子で頷く。
男はしてやったりと、笑う。
桜舞い散る神社の境内で、悪魔が嗤った。