第3話
魔王様を愛称で呼ぶの!? 私が!?
衝撃的な発言にラティエシアは茶を吹き出しそうになってしまった。とっさに口を押さえて息を止める。自分の身体の周りにも、動揺したときの黄色と赤のまだらなオーラが噴き出てしまっていた。
みっともないところを見られてしまった――! 恥ずかしさのあまり声が大きくなる。
「恐れ多いことでございます! せめて『ウィズヴァルド様』とお呼びすることをお許しくださいませ!」
「そうか? ふむ、愛称で呼んでもらうのは、今はあきらめることにしよう」
「……!?」
まるで次の機会があるかのような口振り。そんなことあるはずがないのに。
それにウィズヴァルド様は、どうして私なんかをもてなしてくださるのかしら。
何から尋ねればいいか判断がつかず、助けを求めるようにティーカップを手に取った。
カップで顔を隠しながら、ちらっとテーブルの向こうを見る。
魔王はふたつに割ったスコーンにクリームを乗せていた。そこにジャムも重ねてから口に運ぶ。満足そうな微笑みを浮かべながらティーフードを食べる顔は、見ているこちらまで嬉しい気持ちになるほどだった。
なんて幸せな時間なんだろう。
そう思った瞬間。
一気に涙が溢れ出した。
「うっ、ううっ……」
慌てて両手で顔を隠しても、泣きじゃくる動きはどうしょうもなかった。
「どうした、ラティエシア嬢」
「す、すみませんいきなり……」
立ち上がる音が聞こえてくる。足音が近づいてくる。
顔の近くに気配を感じる。少しだけ手をずらして様子を窺うと、ハンカチが差し出されていた。
頭を下げながら受け取り、涙を拭う。
「いきなり申し訳ございません、ウィズヴァルド様。私、今までどなたかと、こうしてゆっくりとお茶をいただいたことがなくて……」
王子とのお茶の時間、王子はいつも不機嫌そうな顔をしていた。
しかも、あからさまに『婚約者としての義務だから仕方なく』といった態度でお茶を一杯飲み終えたらすぐに席を立ち、ラティエシアはひとり取り残されるのが常だった。
胸を締めつける記憶にうつむいた、その瞬間。
「ラティエシア嬢」
「は、はい」
とっさに顔を上げると、魔王はラティエシアをじっと見下ろしてきていた。
金色の瞳は慈しむような輝きを帯びている。
「そなたの一番好きな花は?」
「一番好きな花、でございますか……?」
「ああ。我に教えてはもらえぬだろうか」
「私の好きな花……」
突然の質問に戸惑ってしまう。ラティエシアは、誰かから好きな花を問われたことなど今まで一度もなかった。
王子は自分の婚約者の嗜好にまったく興味を示さなかった。家では両親もメイドも、ラティエシアがいつ放つかも知れない魔力に怯えているせいで目も合わせてこなかった。
そしてそれは学園内でも同様だった。誰からも距離を取られていたラティエシアに、友人と呼べる人はひとりもいない。
改めて質問について考える。花自体はどの花であっても好きだった。
しかし今、問われたのは一番好きな花。
ふと遠い昔の記憶がよみがえる。
王子にまだ嫌われていなかった幼い頃のこと。王家の別荘に招かれた際、その近場にあったチューリップ畑を王子と手をつないで散策したことがあった。
「ふむ、そなたはチューリップが好きなのだな」
「はい……え!?」
答える前に言い当てられて、ラティエシアは思わず叫んでしまった。
慌ててハンカチで口を隠す。
「どうしてお分かりに……?」
「見えておるからな、そこに」
魔王がラティエシアのすぐ横を指さす。身体のそばにはチューリップ型のオーラが揺らめいていた。
「な、なにこれ……!」
あたふたと手で払いのける。
「ウィズヴァルド様、見ないでください……!」
「ふ。そなたは実に愛らしいな。魔力が洩れて胸の内を晒してしまうとは」
魔王が口元に手を添えて、くくっ、と笑った。
『愛らしい』と今おっしゃったの!? 耳を疑いたくなるような言葉に、ますます恥ずかしくなって顔が燃え上がる。
「お見苦しいものをお見せしてしまい、本当にすみません……」
「見苦しいものか。もっと見せて欲しいくらいだ」
「……! そういうことおっしゃらないでください……」
頭がくらくらするほどに顔が熱い。
ラティエシアが両手で頬を押さえていると、魔王が手をすっと掲げて指を打ち鳴らした。
軽快な音が鳴った、次の瞬間。
辺り一面にチューリップ畑が出現した。
赤や白、黄色のみならず、ピンクやオレンジ、紫、そして色の混ざった品種までが、鮮やかな色の列を地面いっぱいに描き出している。それどころか、澄み渡った空までもが頭上に広がった。
「わあ……! 綺麗……!」
突如として現れた美しい光景に胸が躍る。恥ずかしがっていたことも忘れてぱっと立ち上がり、絵画のような風景を眺め渡す。
封印牢の中にいるとは信じられないほどの爽やかさ。深呼吸すると、空気まで澄んでいる気がした。
色とりどりのチューリップから振り向いて魔王を見上げると、その顔はラティエシア以上に嬉しそうな笑顔になっていた。
(わざわざ好きな花を尋ねてくれて、それを魔法で出現させてくれるなんて……!)
魔王の心遣いに胸が熱くなる。
感動するなんていつぶりだろう。
そう自問した、その瞬間。
(いけない、私、心が揺れてしまっている……!)
ラティエシアは魔力放出を抑えることをすっかり忘れていた。魔王に向かってめいっぱい頭を下げる。
「申し訳ございません、ウィズヴァルド様! わたくしの不快な魔力を浴びせ続けてしまったこと、お詫び申し上げます……!」
「不快? 何を言うか。そなたの魔力の波動は実に心地よい」
「……え?」
(私の魔力が心地よいとおっしゃったの……?)
信じがたい言葉に目を見開き、魔王を見上げる。
安心させるような微笑み。その自然な表情からは、無理をしている様子は全く見受けられない。
それでもラティエシアはたった今聞かされた言葉が信じられず、恐る恐る正直な気持ちを口にした。
「失礼ながらお尋ね申し上げます。貴方様は今、わたくしの魔力を『心地よい』、と……そうおっしゃいましたか?」
「ああ。そなたの魔力の波動は我の波長と合っているのやも知れぬな。このような心地よさを感じたことなど今まで一度としてない。もはや運命的と言えよう」
と言って、少し歯を見せて笑う。
照れくさそうにも見える魔王の顔付きに、ラティエシアは目を奪われてしまった。
少年の素直さを思わせる、飾りけのない微笑み。
とくん、と心臓が脈打つ。
『不快ではない』ではなく、『心地よい』と言ってくださるなんて。
温かな気持ちが胸いっぱいに溢れ出す。
それと同時に、もうひとつ別の感情が浮かび上がってきた。
魔王ウィズヴァルド様。
恐れ多いことかも知れないけれど、私、もっとこの方とお話ししてみたい。こんな牢の中ではなくて、もっと普通の場所で。
いつかこの方と、本物の花園を散策できたら――。
みんなが当たり前にしていることを、私もしてみたい。今までずっと諦めていた願いが溢れてくる。
ただ、その気持ちを正直に伝える勇気はまだ出せなかった。
その代わり、ずっと気がかりだったことを尋ねる。
「ウィズヴァルド様。なぜ貴方様は、わたくしを助けてくださるのですか?」
魔王が口元に笑みを浮かべる。無言で手を差し出される。
おとぎ話に出てくる気高い騎士のような優雅さ。どきどきしながら手を乗せると、魔王はラティエシアを導いて、ゆっくりと花園を歩き出した。
「魔界では、そなたが誕生したその瞬間から、そなたの存在を感知していたのだ」
「わたくしが生まれたときからですか!?」
「ああ。それほどまでに、そなたの魔力は強大であった」
「そうなのですね……」
大渓谷で隔てられた魔界にまで伝わるほどに、私の魔力の強さは異常なんだ。
暗い気持ちに引きずられて視線を落とす。
すると、そっと手を握り締められた。
「ひとつ、そなたに隠していたことがある」
「隠していたこと、でございますか……?」
ラティエシアが小首を傾げると、魔王が表情を引き締めた。