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噓に狸と峠で私  作者:
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第二話 その狸はグラノーラを所望しました

気分的には森本レオです。



さて、ヘンリエッタについてこれから記していくわけであるが、生まれてから現在までを事細かに説明するということはやめておく。

まずそれでは大変時間がかかってしまう。何より今現在ヘンリエッタは自身の記憶というものをほとんど引き出せない状態にある。

本人が思い出せてもいない記憶を第三者が述べていくというのは記憶そのものへの冒涜である。

よってヘンリエッタの覚えている最後の記憶、彼女が毒殺された夜から記してゆくのが順当であろう。

ちなみにさっきから「記していく」という表現を使っていることや、さも彼女の全てを知ったようなこの口ぶりに違和感を感じる方も少なからずいることと思う。

どうか寛大な心で見ていただきたい。

筆記者というのは総じて善き理解者であり善き観測者なのである。



九月の半ば、気象庁をはじめTVもSNSも予報を外した珍しい小雨の降る夜であった。

ヘンリエッタは彼がシャワーを浴び終えるのを待っていた。

部屋の窓ガラスが無音のまま濡れていっている。

そういえば彼はガレージのシャッターを閉め忘れている。いつもはちゃんと閉めているのに。

小雨とはいえ強風のせいで横殴りになっている。彼の青いシトロエンのフロントは今頃もうびしょ濡れだろう。


「やっぱり倍の日数は必要になるかもね。」

バスローブを着た彼が部屋に入るなりそう言った。

「そう。」

あっさりとした返事しかできない。実はこの時のヘンリエッタには「殺されるかもしれない」という直感がほんの一ミリばかりあった。

ヘンリエッタは考えた。

もしも人間が相手に対して素直に「貴方は私を殺したいと思っていますか?」と聞くことができる生き物なのだとしたら。

事件は未然に防げるのだろうか?殺人の件数は幾分か減るのだろうか?

答えはきっとNOだろう。

人口爆発だなんて一過性。「生まれる命」と「老いて亡くなる命」、そして「消される命」の比重は人類の預かり知れない誰かのコントロール下にあるに違いない。

彼女が哲学に浸る時、決まって彼女は下唇を甘噛みしながら虚空を見つめる。

彼がそんな彼女を見つける時、決まって彼は不機嫌になる。

「ねぇ聞いてる?」

「聞いてるよ。この前は一泊二日って言ってたよね?どれくらい延びるの?」

「三泊四日くらいかな。誕生日は一緒にお祝いできると思うよ。」

「そう。」

ヘンリエッタは聞き逃さなかった。「祝える」と言いかけたところを彼は「お祝いできる」と言い直したのだ。

小さな気配りである。誰に対しての?

外の雨がようやく音を立てだした。

彼はどこからともなくグラスを二つ持ってきた。グラスは既に赤に満たされていた。

「なんてメーカーの?」

「モンラッシェ。」彼は乾いた声で答えた。

ヘンリエッタはワインについて博識も興味もなかった。彼からすれば「メーカー」という呼称の仕方もさぞ不快であろう。

「私のイメージに合わせて赤を選んだの?」

「そうだよ。」彼の声のトーンが数段低く、甘くなる。

「イメージに合わせて選ぶから最近白ワインも買い込むようになったんだ。」

「何言ってんだよ。」

「私やあなたと違って白が好きなんだ?」

「だから何言ってんだよ、そもそもアイツはワイン飲ま…」

こんなにもあっさりと口を滑らすとはさすがにヘンリエッタも思っていなかった。彼がヘンリエッタの前で軽率な発言をしたのは二人が初めて出会った時以来であった。

「そうなんだ。あの巫女さん、ワインはお好きじゃないのね。」

「あれはたまたまイベントの仕事で着ていただけで本物の巫女さんじゃないよ。」

そうか、そこから取り繕いにかかったか。ヘンリエッタはワインを一口に煽り、彼を観賞した(・・・・)


彼はここから長く、険しく、そして凡庸な言い訳の旅を始めるのだろう。

ヘンリエッタが偶然目撃した(本当は偶然ではないのだが)あのツインテールがお似合いの巫女コスプレの彼女。

“彼女はただの仕事仲間だよ” “あの子は単に人懐っこいだけで誰とでもあのくらいの距離なんだよ”

人の言い訳における語彙の引き出しほど予想しやすいものはないとヘンリエッタは思った。

まして相手が浮気していた場合は。ましてその浮気相手が自分とは全くベクトルの違う人間だった場合は。

「聞いてくれ。彼女はただの仕事仲間だよ。」

ほら見たことか。予想した通りである。ヘンリエッタはほくそ笑んだ。


しかしその直後、ヘンリエッタの顔は苦悶に歪められた。

気道が狭まり心臓が慌てるのが全身に伝わる。

視界の周縁に入る黒いシミのようなものが中央へ向かって広がっていく。

ヘンリエッタはまだシミに侵食されていない部分の焦点を彼に合わせた。

なんの抑揚もないその視線。おそらく彼にとって今起こっているヘンリエッタの異変は一つの作業過程に過ぎない。

握力を失ったヘンリエッタの手からワイングラスが落ちようとしたところを彼がキャッチする。

彼の視線が真下に落ちる。グラスに残ったワインが白いカーペットを汚していないかを気にしているようだった。

ヘンリエッタはゆっくりとただの塊になった。

九月の半ばの彼の部屋、外の雨よりも静かな殺人であった。



自分が車のトランクに積まれ運ばれているのだとヘンリエッタは察した。目隠しされているわけでもないのに目の前は真っ暗だ。

おそらくは彼のシトロエンだろう。そうか、ガレージを閉める必要はなかったということか。

「乗せられている」のではなく「積まれている」。

ヘンリエッタは自覚していた、自分はもう死んでいるのだと。

死という事実に対して疑念も困惑も躊躇もないことがヘンリエッタにとってかえって不思議であった。


人は自分の周りの人間がこの世を去るとその事実の処理を強いられる。

「南極にはさらに南の向こう側がある」だなんて言われて、そうなんだ、と受け入れるのが難しいように「死」という未知を人は簡単に理解しない。

この世で最も不可逆の行為ともいえる死。それを受け入れる最適の瞬間はまさに今、当事者となったこの瞬間なのだろう。

疑念も困惑も躊躇もないに決まっている。今の私はその未知にいる。いつだって未知とは知ってみると明瞭で厳然だ。

死してなおヘンリエッタが溺れるは哲学の海の中であった。


死んだはずの自分がなぜ自身の遺体が運ばれていることを理解できるのか、その点についてヘンリエッタは深く考えなかった。彼女はいたって冷静に状況を分析した。

まず衣服はそのままの状態で手足が縛られているようだ。

昔読んでいたミステリー小説の中において死体を棄てる場面では着ている服を脱がせていたことをヘンリエッタは思い出した。発見された時に死体の身元を特定しにくくするためである。

その作業を彼はしなかった、多分わかっていてわざとそうしてる。

遺体発見から逮捕されるリスクよりも服を剥ぐ手間を省くことを彼は優先したというのだろうか?

もう死んでいるのに彼女の手足を縛ったのも、拘束するためではなく運搬しやすくするため。彼は死体遺棄という作業においても効率重視なのである。

次にヘンリエッタは自分がブルーシートに包まれていること、ずっとこの車が舗装がされていなくて傾斜のある道を走っていることを音や触感で理解した。

ヘンリエッタは思った。コイツ私を山に埋めるつもりだ、と。


観測者として結果を先に述べておくと、ヘンリエッタの推理はやや甘かった。

確かに彼はヘンリエッタの遺体を山まで運んだ。自宅に隠すというリスクはさすがの彼でも冒せなかった。

しかし一方で彼はヘンリエッタが山中で発見された場合の対策を講じていない。要は“端折った”のだ。

そんな彼がわざわざ人一人埋められるほどの穴を掘って彼女を埋めるという手間をかけるわけがない。


青いシトロエンは山の中腹よりさらに少し上がったところにあるヘアピンカーブで停まった。このカーブに到着するまでの間に対向車はなかった。

彼はトランクから肉塊を引き出した。その重さは相当なものだった。持ち上げきれずに数度ほど地面に落としてしまった。

なんとか彼はヘンリエッタを抱えた。いつの間にか雨は止んでいた。

カーブの縁、申し訳程度に設けられたガードレールまで来ると彼はゆっくりと足元を覗いた。

ガードレールの向こうは切り立った崖になっていて、その奥には竹林が広がっている。

彼が下見として昼間ここに来たときは一面の深緑だったが、今は闇一色である。

彼はヘンリエッタを崖へ投げた。

暫くの落下音を聞き届けた後、彼はシトロエンをUターンさせた。


ヘンリエッタもとい彼女の身体は岩肌を削らんばかりの勢いで回転しながら深い崖下へと落ちていった。

死んでる状態だと目が回らない。それに岩にぶつかる感触はあっても痛みはない。三半規管や痛覚が機能しなくなるなったのだろうか?ヘンリエッタの小さな発見であった。


ヘンリエッタはもう直感していた。

もうじき私のこの意識は私の身体から離れていく。オバケになっちゃうのだ。

それからどうなるだろうか。おそらく彼の背後へ自動的に移動させられているはずだ。呪縛霊になっちゃうのだ。

なっちゃって一向に構わない。存分に呪い殺してやろう。

浮気されたことも、下手な言い訳をされたことも、こうして殺害されたことも無論許せない。

しかし何より許せないのはこの()て方である。

いつからその愛情が偽物だったかは正確にはわからないが、交際期間自体はかれこれ七年くらいはする。

そんな私をこの崖へ投げた時の彼には罪悪感どころか私に対する怒りや憎しみすら感じられなかった。

“持て余したから捨てました”、引っ越し先に入れられなかった食器棚に対して思うようなことだ。

彼が殺したのは私ではない、私が生き歩いた時間そのものだ。絶対に許せない。

殺してやる…殺してやる…殺してやる……


そんなことをヘンリエッタが考えた落下の終盤、彼女の死体は柔らかい(・・・・)何かにぶつかった。

少しして今度は全く痛みを伴わない衝撃がやってきて回転と落下がぴたりと止まる。地面まできたのだ。

ヘンリエッタの意識は遠のいていった。

数時間前に毒を盛られた時とは違う感覚であった。

既に視界は真っ暗なのにさらにその上からもう一層暗闇がこの身を包んでゆくのが彼女には伝わった。

彼女は暗闇に意識を委ねた。


ヘンリエッタの両の瞼が一度ギュッとなった。眩しい。

どうしてだろう。彼女はすぐに疑問を持った。

死んで以降視界はゼロだった。それが今は眩しさを感じるまでに視神経が働いている。その上「目を開ける」という動作までできる。

これが死後の世界の始まり方なのだろうか。呪縛霊としてのスタートなのだろうか。しかし…。

どうしてだろう。彼女の疑問は増した。

ヘンリエッタの想像では最初に目に入るのは彼の後頭部のはずだった。

「背後霊」という言葉もあるほどだから自分が呪縛霊となって現れるのなら彼の斜め後ろ、少し彼を見下ろす位置に自動的にワープされるものだと彼女は思っていた。

しかし今ヘンリエッタの目に映っているのは大きく裂けたブルーシートとその裂け目の奥に広がる竹林であった。


「おい。」

かなり若い声であった。ヘンリエッタはいつだったか公園で四つ葉のクローバを両手にして跳びはねている男の子を見かけたことを思い返した。

歩み寄る母親を待ちきれず何度も呼ぶあの声。勢いと透明度を内包したあの幼い声。あれと同じような声だ。

むくりとブルーシートから起き上がったヘンリエッタはそこで初めて亡骸となった彼女自身を見た。しかしとても見れたものではなかった。

「おい。」

再び呼ばれてヘンリエッタは声のする方を見た。

喋っていたのは狸だった。岩の上にちょこんと座りスマホゲームをしている。

霊体となった自分よりもイレギュラーでトリッキーな存在にヘンリエッタは一瞬嫉妬さえ覚えた。

「どちら様?」ヘンリエッタは尋ねた。

「それは私の台詞だ。他人(よそさま)の山に入ってくるなりいきなり上から降ってきおって。言っておくがな、いくら私といえどもこの身であるうちは(・・・・・・・・・)相応にダメージがあるのだぞ。」

ヘンリエッタにはほとんど何を言ってるのかわからなかった。とりあえず落下中に自分とこの狸がぶつかったらしい。


「ところで人間、何か食べるものは持ってないか?」

「食べるもの?」

「うん、グラノーラとか。」

「初対面相手にグラノーラ所望するとかキャラ補正の塊みたい。」

「初対面の神様相手にそうやって辛辣なこと言えるそなたも十分イカれてると思うぞ。珍しくこうして若い女が落ちてきたからもしや持ってるものではと思うだろう。」

「ジェンダーここに極まれりなんですけど。」

「単なるジェンダー思想ではない。事実としてここに落ちてきた者たちの統計というエビデンスに基づいておる。」

そういうことではないだろ、と眉間に皺を寄せながらヘンリエッタは考えた。

スマホゲームをしながらグラノーラを欲しながらエビデンスという言葉を使う。

人間の時間軸で見れば無理して若作りしている感じが否めないが、神様として見れば最先端をいってる方なのだろうか。

そういえばこの狸、口調にばらつきがある。年寄りにも幼児にもとれる。


ヘンリエッタはしばらく黙っていた。

「ん?どうした人間?」

「あぁ、ごめんなさい。私、グラノーラはおろかスマホも財布も持ってないんです。」

「なんだよ持ってないのかよ。」

「そんなことより此処はどこですか?私行かなきゃいけない所があるんですが、」

「ほう、それはどこだ?」

「どこって、・・・あれ?」

「思い出せんのだろう。うん、思い出せんだろうなぁ。」

「それどういう事ですか?」

狸はスマホを置いて真っ直ぐヘンリエッタの方を見た。

「今からそれを説明してくれる者がやってくる。やってくるんだが、予めアナウンスしておく。お前さんがまだ(・・)此処にいる原因の半分は私にある。」

狸がそう言い切ると同時にヘンリエッタは背後に気配を感じた。彼女は振り返った。

竹林という場に相応しくないネイビーのスーツであった。


「やっと来たな。」

そう言って狸は再びスマホゲームに興じ出した。

スーツ姿で眼鏡をかけたその男はヘンリエッタの方を見ると、目を細め、口角を上げ、わざとらしい顔を作って見せた。

「到着が遅れましたことお詫び申し上げます。今回貴女の担当を務めます、化野(あだしの)と申します。」

担当?担当とは?

ヘンリエッタは男にではなく狸に尋ねた。

「この男性は一体?」

「分かりやすく言えばお前さんの死後のコンシェルジュだ。」

「コンシェルジュ?」

ここで化野と名乗る男が訂正を入れた。

「“案内をする”という点では確かにコンシェルジュのようなものですが、厳密には役所の職員という見方が正しいです。ほらよくドラマや小説での生まれ変わりのシーンに出てきますでしょう?」

「じゃああなたも死人なんですか?」

「それを説明しだすと半世紀ほどかかってしまいますので割愛させていただきます。私どもは冥桜局(めいおうきょく)の使いの者として、亡くなった方(今回でいえば貴女ということになりますが)にまずこうしてお会いするんです。」

「冥桜局?」

今度は狸が解説を入れる。

「天地創造に携わった神様その他諸々の存在が直轄して霊魂の配分を管理する、人間でいうところの総務省統計局にあたる組織だ。」

「ごめんなさい、何言ってるのかさっぱりわかんないです。」

「要するに神様がプログラムした通りに命の数を調整する仕事です。本来であれば貴公が副局長を務められるはずなのですよ、弥迦楼(みかる)様。」

後半はヘンリエッタにではなく課金中の狸に向かって投げられた言葉であった。




どうしてヘンリエッタは死してなお崖下の深い竹林に居たのか。

どうして彼女はヘンリエッタという仮名を設定しなければいけなかったのか。

化野は彼女に一体何をもたらすのか。

そして狸の課金総額は果たしていくらなのか。


それはまた別のお話。


『相棒』シーズン17の第4話、『バクハン』。

そこで終盤に登場する自称「シャブ山シャブ子 17才」っていう薬物中毒者が物凄いインパクトなんです。

それこそ相棒ファンなら知る人ぞ知るキャラクターだと思います。

以前TVer で『バクハン』を見た時、シャブ子が刑事を金づちで殴り殺す場面から後のシーンがカットされてました。

その後再び配信されたシーズン17。『バクハン』自体が見当たりませんでした。

確かにバイオレンスでセンシティブな描写かもしれません。

でも薬物や組織犯罪に対する脚本や演者による解像は一見の価値があると感じます。

それゆえに惜しい気がしてなりません。

TVer に敢えてR18設定を設けてしまえば逆に作品の保護に繋がるのでは・・・。

後書きで何書いてんだろ私、ではまた次回!

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