「君も彼女も愛してる」と、のたまう婚約者に懇々と説明し、婚約破棄を勝ち取ったあとは、自称待てができる男が待ち構えていた。
「レティーシア。君のことを愛してる。でも彼女のことも愛してるんだ」
こんなにも心に響かない愛してるがあることを、初めて知った。
ほんの数日前であれば、彼にそう言われると、満ち足りた気持ちになれたというのに。
「それで? どうなさりたいの?」
「僕は君とも、彼女とも愛し合って過ごしていきたい」
「私はその考えに賛同できません。複数の女性と関係を持ちたいという方を、私は愛せませんので」
「そんな! 僕は君を愛してる。君だって僕のことを愛してると、言っていたじゃないか!!」
「えぇ。あなたを愛していました。今は違います。それに、私以外に現を抜かすあなたを愛してるとは、一言も申し上げたことありません」
「だけど………。僕は本当に彼女と君を同じくらい愛してるんだ。だから、2人と過ごしていきたいんだよ」
――どうして分かってくれないんだ。
僕はどうすればいいんだ。困らせないでくれ――
言葉にしなくとも、悲壮感を漂わす彼から、そういった台詞が聞こえてくるようだった。
「私はそうでないと申し上げています」
「お願いだ。僕は君とも彼女とも別れたくない。
どうしたら、別れないでいてくれる?」
「別れると、もう決めています」
「なぜっ!! あんなに愛し合っていたじゃないか。君だって、そんなにすぐ気持ちが切り替えられるはずが無い」
私も知らなかった。
こんなにも簡単に気持ちが決まるほど、自分の価値観がはっきりしていたなんて。
「でしたら、もう気持ちが切り替わっている私は、あなたのことを愛しきれていなかったのでしょう」
彼の目に私に対する非難が宿った気がした。そんな筋合いはないと、怒りが増す。
「あなたも又、私がいても他の方に目移りしたと言うことは、私のことを愛しきれていなかったのだと思います。だから別れましょう」
「そんなことはない。なぁ、2人で過ごした時間は本当に楽しくて、穏やかだったじゃないか。大丈夫。今まで通り、同じように過ごせるよ」
「私はそれを望んでいません」
彼が焦れるように、頭を掻いた。
「わからないなぁ………。彼女が居ても、君と過ごす時間は今まで通り変わらないのに、何が問題なんだ!?」
考え方がここまで異なる人間だと、今まで気づかなかった自分に嫌気が差す。
彼に説明するのは、時間がかかりそうだ。
「あなたに会えない時間。お仕事や、ご友人達との時間であれば、理解できます。ですが、私以外の女性に時間を割かれるのは、理解できません。私を蔑ろにする行為だと思います」
彼はポカンとしたあと、頬が緩んだ。
「………あぁ。嫉妬してくれたんだね? やっぱりレティーシアは、僕のことがまだとても好きなんだ」
「いいえ。あなたの都合に私が合わせ、一方的に振り回されるのが嫌なのです」
「そんなつもりはないよ」
居心地悪そうに、彼が肩をすくませる。
「私があなたと対等になるには、私もあなた以外の方と愛し合う時間が必要だと思います」
「そっ、それは………」
「その日は会えません。他の男と会う約束があるので。こういう仲に、私となりたいと言うことでしょうか?」
一瞬怯んだようだが、彼はなんとか余裕を取り繕った。
「そっ、それでも僕は構わない………。君のことを愛しているから。レティーシアといられるならね」
「でしたら、別の男性を優先して、あなたは2番目でも構わない?」
その言葉に彼は怒り出した。
「だっ、駄目だっ!! 僕のように平等に愛するか、僕を優先しなければ許せない!」
詰まる所この男は、私にも、もう1人の女性にも、自分を優先させ、1番好きでいてもらいたいのだ。
「あなたはきちんと、同時に2人の女性を愛せると?」
「そう………だ。現に君は彼女の存在を知るまで、僕にちゃんと愛されていると感じていただろう? 君と彼女がいようが、上手くいってたんだ。だから、これからも上手くやっていけるよ」
「私があなたを尊重する気持ちがあったから、上手くいっていただけです。不義理が分かった以上、同じ気持ちは持てません」
「じゃあ! じゃあ、君は! 僕が彼女と別れて、君だけをこれからは愛すると言ったら、許してくれるのか!?」
ここで私が、それなら許すと言えば、彼はこの場しのぎで、彼女と別れて私を選ぶと言い出すだろう。
けれど、そもそも彼は悪いと思ってない。バレなければ良いと、彼女との関係も続けるはず。だから
「許す、許さないの話ではありません」
私はゆっくり立ち上がり、彼を見下ろした。
「この話し合いは、これからもあなたと過ごせるかどうかの問です。私はそれに、いいえと既に解答しています」
「そんなのは嫌だ。だって1番は君なんだ。だからどうか、別れないでくれ。君と別れたくないんだ。レティーシアのことを1番愛してる」
「1番愛してるなら、そもそも目移りなんてしないはず。他に目が眩んでしまう程度の愛でしかなかったんですよ」
「ほんの出来心だ。気の迷いだ。間違えることだってあるじゃないか。なぁ。許してくれ。許して、これからも僕と一緒に居てくれ」
怒ったかと思えば、同情を買うように、不憫に振る舞う。なりふり構ってられない様子は、とても不愉快だ。
「きっとあなたはこれからも、そんな言い訳を並べるのでしょうね。この先も、あなたは気の迷いや間違いで、沢山の方を好きになって愛せば良い。あなたは複数の人を愛せるのだから、私に固執する必要はありません。さぁ、別れましょう」
私は机に、婚約破棄の同意書を置いた。
「もう君だけだと言っているじゃないか! 1度くらい僕のことを信じてくれても良いんじゃないか!」
また声を荒げて、私に言うことを聞かせようとする彼。
怒鳴りつけ、怒りたいのは私の方だ。
けれど、その選択はしない。
怒鳴るより、私の意思を彼に分かるよう話すことの方が、彼を傷つけられるから。
「あなたこそ、別れた方が良いという私の考えを、信じてくださってもいいのでは? 大丈夫。あなたなら、女が複数いても気にしないという方に出会えますよ。現に彼女は、私がいても、あなたを愛してくれているのでしょう? 世の中、そういう女性がまだ何処かにいるかもしれません。それが私じゃないだけで」
自信を持ってと付け足し、微笑むと、彼は項垂れ、ようやく口を閉じた。
私は項垂れる彼を、冷めた目で見つめながら、過去のことを思い出していた。
貴族では珍しくない、最初は親に引き合わされた相手だった。それでも、惹かれ合ったから婚約した。
こんな別れを経験したくはなかった。
彼に未練はないけれど、どうしようもなく虚しかった。
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「さっ、彼と正式に別れたと聞いた。それじゃあ、俺と婚約しよう!」
こちらの事情などお構いなしに、何とも晴れやかな笑顔の大柄の男に、私は顔をしかめた。
「おめでたい方。私、婚約している相手にちょっかいを掛ける殿方は嫌いです。婚約破棄して間もない相手にこうやって迫る配慮のなさも、気持ちが冷めます」
「そんな。俺はちゃんと大人しく、待ったじゃないか。健気で可愛い犬のようだろう?」
私は思わず、うげっと顔を崩してしまった。
あまりにも彼、ロドリックにその台詞が似合ってなかったからだ。
「まさか。ダラダラとよだれを垂らして、私のことを餌のようにじっと見て。名を呼んだだけで、大喜び。あんな周囲にバレバレの好意。私があなたを酷くあしらわなければ、不貞を疑われていたところよ」
「分かりやすくて、可愛いとならなかったか?
一途で尻尾を振る男は嫌いか?」
「婚約中の女を奪おうとする、変に自分に自信のある男は嫌いね」
「君の婚約者が出来たやつなら、俺だってもっと上手く恋心を隠しただろうが………。あんなクズでは、奪いたくもなるし、奪ってくれと、言われているようなものだった」
「とにかく。私は嫌よ。あなたと早々婚約したら、元婚約者にも世間にも不貞を疑われかねないし。言ったでしょ? 他人の物に躊躇なく手を出す男なんて無理なの」
そう告げると、男は下唇を少し突き出し、下へ曲げた。
「まだ………待てってことだな」
「またそんな勝手な解釈して」
「待ては得意だ。だが、忘れないでくれ。待てが長引けば、長引くほど。犬は大きなご褒美を期待しちまうぞ」
ロドリックはその大柄の見た目通り、腕っぷしが立つ。騎士団でも若手ながらに、副隊長を任せられてるとか。
真顔は強面であるし、犬なんて可愛いものではない。私には彼が、舌なめずりをする野生の肉食獣のように見えていた。
ロドリックは私の婚約破棄が正式に認められると、前よりも露骨に、私に求愛してくるようになった。それでも私が袖にするものだから、周囲が少しずつ彼に同情をみせ始めた。
1年経つ頃には、彼はすっかり周囲を味方につけていた。
「婚約破棄されて、傷心なのはとても分かるのですが、そろそろ、彼のことを考えてあげてはどうですか?」
「あの様子では、彼が諦めるのは難しいと思いますし。あんなに一途な方ってそうそういませんわ」
好きにしなさいと言っていた私の家族でさえも、彼は自分の味方につけていた。
外堀は完璧に埋められた。
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「やっと捕まえた」
「あなたって本当………」
「一途な男だろ? 周りみたいに、もっと早く絆されて受け入れてくれればな。なぁ、レティーシア。婚約したんだ。ご褒美をくれ。褒めてくれ。愛してるって言ってくれ」
私の肩に手を置き、ロドリックは期待に満ちた瞳をよこす。
私は真正面の彼を見上げながら、人一倍体の大きな男が犬のように強請って、恥ずかしくはないのだろうかと思った。
「私に気持ちがなくてもいいの?」
「そりゃ、虚しいだろうけど………さ。俺はあんたが好きだし、単純だからさ。喜んじまうんだよ」
こう言うときだけ、視線を下げて、悲しい目をするのだから、この男はずるい。
「そう………。愛してるわ。ずっと諦めないで、私の婚約者になってくれてありがとう」
愛してるは、若干棒読みのようになったが、それ以外は良かったはずだ。
ロドリックは嬉しそうに、照れて笑ってくれると思っていた。それがまさか。
言葉を失い、顔を赤くし、泣きそうな顔になるなんて思ってもいなかった。
「えっ? だ、大丈夫?」
顔を抑え、蹲る彼。けれど、赤い耳までは隠れていない。今は何も言えないとばかりに、彼は首を振っていた。
感極まったというのだろうか。そんな彼の顔を見て、ぽすんと、落ちてしまった。
彼のことを疑う気持ちが、すっかり消え失せ、ロドリックの好感度が一気に上昇していく。
鼓動が早まり、私の頬まで熱くなった。
彼の泣きだしそうに顔を赤く染めるその様子に、恋に落とされた。
「愛してる。好きよ、好き。ずっと、私に言ってくれてありがとう」
「あっ、いや。もう………」
自信たっぷりだった彼は、今はお留守のようで。ロドリックは狼狽えっぱなしだ。
「どうしたの? ねぇ、言ってくれって言ったじゃない。愛してるって」
「そうなんだが、いきなりそんなたくさん言われると、嬉しくて。たまらない気持ちになって」
「あなたのいっぱい、いっぱいで余裕のない顔。すごく可愛いのね」
笑っていなければ、威圧感のある怖い顔だと思っていたのに。
その顔を知っているせいか、普段の表情との差が大きく、とても魅力的に見えた。
「へっ? あっ、いや。恥ずかしいから、見ないで! 見ないでくれ」
「だめよ。良い子だからほら、こっちを向いて」
犬の性なのか。私の言うことに忠実であろうとする彼は、歯を食いしばりながら、葛藤するように、ぎこちなく顔を向けた。
そらされた瞳さえも、こちらを意識しすぎていることがバレバレで愛おしい。
「好きよ。これからはちゃんと、愛してるって返すから、ちゃんと受け取ってね」
彼の額にキスを一つ落とした。
ロドリックの目が開かれ、呆然とした様子で額を押さえた。
そして、しばらくし、理解が追いついた様子のあと。
ロドリックはものすごい形相で、声にならない悲鳴をあげた。
ー完ー