名前
「苦しい、息が出来ない」
タダノ ダイキが、最優先モードで通信してきた。末期症状を示している。
今回の新薬は効果が無いようだ。
それどころか、複数の重大な副作用が発生していた。
いよいよのようだ。
顔はむくみ異様な大きなムラサキ色のシミが体じゅうに出ている。
すべてのリンパ腺は腫れあがり、手のほどこしようがない。
自己の心臓が100倍にも大きくなったかのように感じられ、体内部を圧迫、まるで別の生き物が侵入したかのようにタダノ ダイキをもがき苦しめ続けている。
そしてついに、脳の血管が破裂。
意識がすっと消え…終わる。
タダノ ダイキ死亡と表示されたモニターを見つめる2人と実験データをメモする1人の研究員がいた。
「マルマツメディカル社の試薬130096は失敗だ。副作用が思ったより激しかったな」
「想像を絶する苦痛だったらしい」「おい、牧野、次の試薬の用意だ。今度は、モナガ製薬社の開発薬だ。用意してくれ」「午前中にもうひとつ済ませちゃおう」
ブゥーウウンとうなり音がして、モニターの中に新しい試験人間がデータ精製され、裸の男性があらわれた。
静かに目を開けたモニター上の男は、わずかに微笑みを浮かべ、まわりを見まわした。
「私は…マツキ ユウイチ」
起動した試験人間は最初に必ず自分で名前を付ける。
いつの頃からか始まった決まり事…
「気分爽快。さあ、お仕事 お仕事!今度の病はどんなんかなー」
データ人間、マツキは明るくはしゃぐ。
コンピューター上にデータ精製され、起動した新規の試験人間は、これから病気に感染させられ、開発中の新薬を投与されることが自分の使命だとだけ教えられている。
過去の失敗したデータの記憶はマツキには無く、クリアにされていて、毎回、正常な健康体としてモニターに登場する。
この小さい、人1人が収まるのがやっとのせまい仮想世界空間に圧縮された時がカウントされてゆく。
すでにインストールされ侵入を果たした悪質な致死ウィルスの病がマツキの体を壊してゆく。
マツキの表情がゆがみ、みるみる病人の姿に変わってゆく。
ほどなく、今回の試薬A-330-8900が投与され、時間をカウント。
効き目が現れる12時間の間、マツキは、もがき苦しみ、薬の効果が出るのを待つ。
薬が投与されて13時間25分たった頃、ついに症状の改善が現れてきた。
目立った副作用も見られない。
試験人間マツキは、外の世界へ自分自身の体内でおきている状態の経過報告を送り始めた。
試薬は一定以上の成果を示した。今後、この試薬A-330-8900は最終的に正式な治療薬として世に出るだろう。
薬の正式名称が《A-330 マツキ》と記録され、使用された試験人間マツキ ユウイチの短い一生は消えてゆくのだ。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
数か月後、新薬《A-330 マツキ》は、世界中の8700万人の患者の命をすくう夢の薬として発売された。
開発にあたった生体情報研究機構へは、ネットを経由したテレビ局の取材が殺到した。
レポーターが興奮した様子でしゃべり始めた。
「皆さん、ここがあの、夢の新薬、《A-330 マツキ》が開発された研究室です」
「これまで新薬開発には膨大な資金と長い長い開発期間が必要でした。ですが、今回の夢の新薬、《A-330 マツキ》は、今までに無い早く短い期間で、国の認可を受けました」
「そうです!それ!その最大の理由が、生体情報研究機構が開発した医薬臨床用人体モデルにあるんです」
レポーターは満面の笑顔で説明した。
開発チーフの盛田が空中に浮かぶ立体モデルデータを示しながら説明を行なう。
「この実験用の人体モデル達は日本人成人の形で、男女の平均体型を忠実に再現させた数値データで構成されています。
そのデータに病気の症状を取り込ませ、脳、筋肉、血管、内蔵などなどの仮想組織にどのような影響が及ぶかを生身の人間とまったく同じように観察することが出来ます」
「その体へ開発された新薬を投与させ、どのように作用してゆき、更に治癒してゆくかが実験できるのです。これは世界初の本格的全身モデルたちなのです」
と、自慢げに盛田は微笑み解説した。
レポーターは続けた。
「現在、ここには、男女それぞれ4体ずつのモデルが登録されていて、24時間休み無く、あらゆる病気に発病し、治療薬開発に活躍しているそうです」
レポーターはにっこり微笑み、通信を切った。
ブゥーウウンとうなり音がし、モニターの中に新しい試験人間がデータ精製され、裸の女性があらわれた。
静かに目を開けた女は、わずかに微笑みを浮かべた表情でまわりを見まわした。
「私は…キタガワ ユミ…」
起動した試験人間は、最初に必ず自分で名前を付ける。
いつの頃からか、始まった決まり事…そして、たった一つの悲しいこだわり…
《 お わ り 》
今作が初めての投稿になります。今後もこれまで書きためていたSF短編を少しづつ投稿いたしますのでよろしくお願い致します。
この話のアイデアは、愛読している日経産業新聞の小さな記事を読んでいて思いつきました。