第九十二話 神は離さず、戌は前を向く
◇◇◇
夕方の道端、私と戌丸さんしかいない世界のなかで。
戌丸さんが悲しんだまま、私から離れていってしまうのを留めるために……。
「私はっ! 戌丸さんが必要です!」
いまの私の精一杯の気持ちが届いてくれるよう、戌丸さんを思いっきり抱きしめた。
「……放してください。もう、いいですから……」
「いや! 私の話を聞いてくれるまで、誤解がとけるまで絶対に放さない!」
戌丸さんは私の肩を押して、私から離れようとしているみたいだったけど。
その力は、とても弱くて……。
その弱さが私には、拒絶とか、迷いとか。
それ以外の、何かに、誰かに縋りたい気持ちで、戌丸さんの気持ちが不安定に揺れていることを表しているように感じられて……。
だから、私は絶対に離れないという気持ちを腕に込めた。
「誤解なんてしてません……」
「してます! 私が嘘ついたのはごめんなさい! でも戌丸さんのこと嫌いだからとか、一緒にいたくないから嘘ついたわけじゃない!」
ずっと逸らされていた戌丸さんの揺れた瞳が、私の目と合わさった。
戌丸さんの不安を映したような表情は、私を疑っているのか、私を信じようとしてくれてるのか。
どっちかは、まだわからなかったけれど。
「それなら、なんでわたしのことをずっと避けてたんですか? わたしは神さんと一緒にいたかったのに……」
そんな責める言葉と一緒に、戌丸さんの揺れる瞳から、また涙がこぼれ落ちた。
「私も戌丸さんと一緒にいるのは嬉しいよ! でも!」
「でも避けてたじゃないですか! その言葉も嘘じゃないですかっ! もうわからない……信じられないですよ……」
しっかり者の戌丸さんが、今は声を上げながら泣いている。
まるで迷子の子供のように、ただ不安で、悲しそうで、どうすればよいのかわからないように見えた。
人間関係も誰かと接する経験も希薄な私には、泣きじゃくった戌丸さんに一番必要な言葉も慰め方も、その正解を選ぶことができるかなんてわからない。
だけど、せめて……。
この間、私が迷子になっていた時に、戌丸さんが助けてくれた時の嬉しさは知っていたから。
戌丸さんがしてくれた嬉しいことを、私もこの子にお返ししたいと思ったから。
私は抱きしめていた手を解いて、その代わりに戌丸さんの手を強く握りしめて、その手を引っ張って歩き始めた。
戌丸さんも手を引かれるままに、泣きながら私についてきてくれた。
迷子の戌丸さんの手を引いて、少し歩いたその先で。
地面に落ちたプレゼントを拾い上げてから……。
「……戌丸さん。私は戌丸さんと一緒にいれて幸せだよ。親切で、可愛くて、すごく優しい戌丸さんが大好き」
手提げ袋の紐を戌丸さんの手にそっと握らせて、そのまま両手で戌丸さんの震える手をギュッと握りしめた。
「このあいだ、迷子になっている私を助けてくれて、そのあとも私なんかに構ってくれて、一緒にいてくれて、本当に本当に嬉しかった」
私の言葉が、気持ちが、いま戌丸さんに届けているすべてが本心で。
決して『嘘』なんかじゃないって、それが伝わるように戌丸さんの手を握りしめた。
「これはそのお礼と……お詫び。親切にしてくれてたのに、避けるなんて最低な方法で私は戌丸さんを傷つけたから。でもそれは……戌丸さんが嫌いだから避けたんじゃないの」
「……じゃあ、なんで」
戌丸さんと目を合わせた。
言葉も、手も、目も、全部使って。
さっき『わからない』『信じられない』と言っていた戌丸さんが、わかるように。信じて貰えるように。
「戌丸さんが、誰からも好かれるような、みんなから必要とされるような素敵な女の子だから……私だけが独り占めなんてしちゃいけないと思ったんだよ」
握っていた手を離しても、戌丸さんはさっきのように逃げていく様子はなかった。
だから今度は、ゆっくりと優しく戌丸さんを抱きしめた。
私の耳の横から聞こえてくる泣き声や、鼻を啜るその音が、少しでも響かなくてもよくなるように。
戌丸さんの悲しみがおさまるまで、私は戌丸さんを抱きしめ続けたのだった。
◆◆◆
取り乱したわたしが落ち着くまで、抱きしめ続けてくれたあと。
神さんはわたしの手を引き、彼女の部屋に招いてくれた。
そして、窓の外が暗くなっても止めることなく、二人でいろいろな話をたくさんした。
そのときに一緒に食べたドーナツは、神さんがわたしのために買ってきてくれたものだったんだけど。
わたしが神さんのことを突き飛ばしたときに地面に落ちたせいで、ちょっと潰れてたり、中のクリームが外に漏れていた。
いつも食べるドーナツよりは食べにくかったけれど。
それでも、今まで食べたドーナツの中で一番嬉しくて、心が満たされる味だった。
わたしがなんであんなに取り乱したのか、今まで不安だったことと、これまでの悲しかったことを、神さんに全部お話ししているあいだ。
神さんは座っているベットの隣で、ずっとわたしの手を握りながら聞いてくれた。
「戌丸さんのお母さんも、お姉さんも……戌丸さんが必要ないなんて、絶対にそんなこと思ってないよ」
「そうでしょうか……」
「うん。戌丸さんのことが大切だから、戌丸さんに幸せになって欲しいから、自分を大切にして欲しいって言ったんだよ。お姉さんだって……」
そこで一度言葉を切った後、神さんはわたしの肩にそっと頭を乗せてきた。
わたしも、神さんの小さな頭に、わたしの頭をそっと寄り添わせた。
「大切な妹に、もう大変な思いをさせないように、しっかりしようと頑張ったんじゃないかな」
「……」
神さんの言葉が本当かどうかは、お姉ちゃんもお母さんも側にいないからわからないけれど。
それでも、寄り添っている神さんの温かさと、わたしに伝えてくれる言葉は、たしかにココにあって。
わたしがいま感じているこの温かさは、信じたいと強く思った。
「お母さんとお姉ちゃんに……聞いてみます。ちゃんと確かめます。わたしのことをどう思ってくれているのか。ちょっと怖いですけど……」
「うん。いま聞く? そばにいようか?」
「はい、あ……いえ。あとでひとりで電話して聞きます」
本当は神さんの言葉に甘えたかった。
もし傷つくことを言われても、神さんがそばにいてくれれば、少しは耐えられるかもしれないと思ったから。
でも、今わたしは神さんのことを信じたいと思っていて。
その神さんが言ってくれた、『みんなから好かれるような素敵な子』だって言葉も信じて、そうなることをわたしが望んでいるのなら。
ずっとひとりでグジグジ悩んでいたことのケジメは、わたしひとりで頑張ってつけるべきだ、乗り越えるべきだって思った。
「そっか……いつでも話聞くからね」
「はい。そう言っていただけるだけでも、スゴイ嬉しいですので」
神さんと繋いでいない方の右手に少し力を入れると、手に持ったハンドタオルの柔らかさが感じられた。
向けた視線の先では、机の上の空になったマグカップがわたしの瞳にうつった。
どちらも神さんがわたしにくれたもので。
可愛い犬の描かれたこのプレゼントを買うために、何度もお店を行ったり来たりして一生懸命に選んでくれていたことを、隠れて覗いていたわたしは知っている。
それだけ貰えれば、きっと大丈夫なはずだ。
ずっと誰かに必要とされたいと欲していて、そのことを何よりも望んできた気持ちは、今もきっと無くなってはいないけれど。
わたしのことを必要だと言って、抱きしめてくれて。
わたしが喜ぶことを望んで、たくさん悩んでくれた人がいてくれるから。
誰かが『わたしのため』を思ってくれている気持ちは、たしかに存在するんだって、今ではわかったのだから。
それはきっと、わたしに勇気を持たせてくれるはずだと思った。
だからわたしは、こんなにも優しい神さんを『嘘つき』になんてさせないために……。
誰からも好かれるような、強くて優しい素敵な女の子になるために頑張りたいと、そう思ったのだった。
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