第九話 丑は目を覚ます
◇◇◇
私が観念したことにより役目を終えた弁当箱は、先程までと同じように神さんのスカートの上に戻って行った。
「押し付けがましくてすいません。やっぱり、迷惑でした?」
私の心中の乱れようなどにはきっと気づいていないままで、けれども当の神さんも、さっきまでと違ってきまりが悪そうに肩を落としていた。
それでも私の反応を確かめるように向けられた横目に映る罪悪感は、恩を施された私が払拭すべきことなのだろう。
「全然迷惑とか思ってないから気にしないで。お裾分け、ありがとう。美味しかった」
「そうですか。それなら良かったです」
数瞬前よりも安堵しているように見えたけど、多分見間違いではないだろう。
教室で見ていた時よりもこうして直接話すことができたことによって、神さんにも感情があるし、それを側から見ても感じ取れるくらいには表現することもあるのだと知った。
そりゃ機械ではなく人なのだから当たり前なのかもしれないけれど、神さん感情表現あんまりしなそうというか、起伏が薄そうというか、とにかく気持ちの機微とか分かりずらいから。
「てゆうか、こっちこそなんか気を使わせてごめん。人のお弁当を物欲しげに見てるのは流石にみっともなかった」
ちょっととはいえ私が口をつけた箸でも躊躇などせず、最後に残ったご飯を口に入れた時に私が話し終わったせいでもあるけど、神さんは箸先を咥えたままでフルフルと首を振った。多分『そんなことないですよ』とか気遣ってくれたんだろう。
「いや、自分でも食い意地はってる自覚はあるからさ。たくさん食べてたくさん寝てたせいで、なんかブクブク体おっきくなってっちゃったし」
いまだ箸を咥えていた神さんは、何を考えているのかわからない無表情で私の全身をサラッと見回した。私が箸を指差すと、今気づきましたとでも言うように眉を少し動かしながら、箸をようやく口から離した。
良かった。僅かとはいえ私が口を付けたものを神さんが咥えている様は、正直メチャクチャ落ち着かなかったから。
「そうですか? 身長も高くて、おっぱ、発育……スタイルも良くて、とても良いと思いますけど。同じ女としてです。もちろん羨ましいという意味です」
「そうかな。ありがとう」
なんかちょくちょく何かを誤魔化しているような言い直しや言葉の重ね方をしているようにも感じたけれど、きっと特に別に他意とかはないだろう。
同じ女性として私の体格を誉めてくれたのだ。神さん本人もそう言っているし。
過去にも何度か身長の高さを羨ましがられることがあった。バレー部やバスケ部の子に部活に誘われても、面倒で断った後はよく、『私のように高い背が欲しかった』なんて言われたこともあった。
けど、こんな燃費の悪い身体、私は誇らしくも何ともなかった。それこそ神さんのように、細くてすらっとした体型の方が羨ましいと思えるほどだ。
「私は誰かに羨ましいだなんて思ってもらえないような貧相な身体なんで、本当にそう思います」
「そんなことはないと思うけどな。私は神さんみたいに華奢で女の子らしいとこ、羨ましいよ」
羨ましいなんて言葉が神さんの口から、しかも私に向けられるなんて信じられなかった。
神さん自身のことなんて、どれほど簡単なこともまだ全然知らないけれど、それでもどんな欠点があろうともその容姿だけでいくらでもお釣りが出るほどなのに。
顔の良さも相まって、可愛く、儚く、綺麗に思える。何も足りてないことなんてなく、至っていないなんてこともなく、そうあることが全て正しいとさえ思えるほどに。
でも私がそう感じていることさえも、神さんにとってはコンプレックスだったりして、それは私の身長と自己否定の不協和と同じなのかもしれない。
ただ私を褒めてくれるためだけのおべっかだったのかもしれないけれど。それでもその言葉を信じるならば、偶像のように遠い存在だった神さんの人間味に、少し触れることができた気がした。
私と同じような思いを抱くようなこともあるのだと、神さんをより身近に感じることができた。
「……そうなんですか? それはお互い、難儀ですね」
弁当箱を仕舞いながら神さんは、私の言葉に同類を見つけて少し面白がっているようにも感じさせるような、そんな僅かばかりの笑いを零した。
基本的に無表情の神さんが、初めて見せたその表情。たとえわずかばかりの破顔であったとしても、神さんだって偶像なんかでは決してなくて。
目の前の女の子だって、実はいろいろな悩みや考えを抱えている同じ年頃の女の子なのだとそう感じさせるような、急に現実感を取り戻させるような以外な笑顔は、私の心臓を軽く跳ねさせた。
「そ、そうだね。思うようにはいかないもんだね」
そんな神さんを見て、私もわざとらしく合わせて笑ってみせたけど、ドキドキと脈打つ鼓動のせいで、それも上手くできたかわからない。
「あーあ、もう少し色々辛抱強かったらなぁ。食欲も睡眠欲も強くてやんなるよ」
ぎこちない愛想笑いが気恥ずかしくて、誤魔化すようにおどけてそう口を開くと、そんな滑稽な私の言動を見て、神さんは笑顔を引っ込めて何かを考えているようだった。
「やっぱり、まだ眠いですか?」
「そだねぇ。午後の授業も寝ちゃいそうだよ。まぁそれも今日に限ったことじゃないんだけど」
あははとおどけて笑っている私の横で、神さんは何を思ったか、片付けた弁当箱を傍に置くと、スカートをポンポンと叩いて「どうぞ」などと言ってきた。
「……へ?」
「食べ物はもう持っていないですけど、眠気の解消には私でも手助けできる思います。使ってください」
ポンポンと太ももを叩きながら、「さあ」とか「ほら」とか言って誘ってくれているけれど、残念ながら私の脳みそは思考を止めていた。
それは、つまり、どういうことだろう。
まさかとは思うけど、私の勘違いでなければ、神さんの膝枕を使って仮眠しろとでも行っているのだろうか。彼女の一挙一動にいちいちドギマギしているような、そんなアナタへの耐性がない私に向かって?
困惑している私の気も知らず、神さんは何が楽しいのか期待するように、今日一番のキラキラした目で私を誘惑し続けている。
「あ、いや、あの、でも」
壊れたオモチャみたいに愛想笑いを浮かべながら意味不明な声を発する私を焦ったく思ったのか、神さんは急に私の服を引っ張り、固まったままのなす術ない私の頭をその足上に強引に押し付けた。
「ちょっ、あの! いい、いい! 大丈夫だから! 悪いし重いし神さんにそんなことさせられないって!」
「さっき起こしちゃったのも私のせいですし、ちゃんと授業に間に合うように起こしますので遠慮は無用です。存分にお昼寝して下さい」
さっきお弁当の施しを受けた時も思ったけれど、この子はあまりにも意外や意外、人に抱かせるイメージに似合わず妙なところで押しの強さを発揮する人だった。
起きあがろうとする私の頭に手を添えて、その華奢な細腕に似合わない力を持ってして、有無をいわせず私の遠慮も許容しないもんだから、参ったなんてものじゃない。
「私のお詫びでもあるんですから気にしないでください。ほら、時間ももったいないですし」
五分前までの神さんとはまるで別人のようだった。
無口、無表情、クールで誰にも何に対しても関心も執着もないような人だと思っていたのに。どこにスイッチがあったのか、今では混乱させるほどに饒舌に喋っている。
「いや! でもっ……!」
あまりにも非現実的な現実に、恥ずかしさやら何やらで焦りながらも見上げたその先で。
私の思考をさらに掻き乱すような、イタズラを楽しむ子どものような無邪気さを孕んだ、神さんの現実離れした可愛すぎる笑顔のせいで。
私の脳みそと感情は、とうとう限界を迎えたのだった。
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