第八十七話 戌は喪失する
◇◇◇
まわりの人から見たわたしは、お姉ちゃんの『パシリ』らしかった。
たしかに小さい時からずっと、いろんなお願い事をされてきたよ。
おやつをちょうだいとか、嫌いなおかずを食べてとか。
代わりにお風呂掃除してとか、お母さんに小言をいわれたから部屋を片付けておいてとか。
アイス食べたくなったから買ってきて。のどが渇いたから飲み物を持ってきて。肩揉んで。マッサージして。うちわであおいで。マンガ買ってきて。図書館でこれ借りてきて。宿題のここ書き写しといて。資料まとめといて。宿題を忘れたから学校にとりに行ってきて。あの子と遊ぶ約束してたけど他の子と遊びたいから家まで行って断ってきて。好きでもない男子に告白されたから断ってきて、とか。
その度に「うん!」って返事して頑張ってきた。
断ったことなんて、一度もなかったと思う。
お母さんとお父さんはそんなわたしたちのことを、はじめは微笑ましく見守っていたのに、数年前から注意するようになっていた。
注意されるのはいつもお姉ちゃんの方で、わたしには『もう言うこと聞かなくていい』って、何度も何度もそう言い聞かせてきた。
我慢しなくていい。従わなくていい。自分を犠牲にしなくていい。
自分のために、自分のしたいことをしていいって。
そんな言葉を、お母さんたちは数え切れないほどにわたしに言い重ねてきた。
その度に、「うん」「わかった」なんて空っぽの返事を口にして。
……だけど心の中では、なんでそんなことを言うのかと不満を抱えていた。
わたしのためを思って言ってくれているのはわかっているけど、その言葉はわたしにとっては余計なものだった。
全部ぜんぶ、わたしがしたくてしていることなのに……。
大好きなお姉ちゃんにかまってもらいたい。少しでもいいから頼ってもらいたい。
わたしのことを、必要だって思ってほしい。
いつでも飢えているそんな欲求は、お姉ちゃんのお願いを聞くことで満たされていた。
それなのに、お姉ちゃんにそんな余計なことを言われたら、わたしが望んでいるものが手から離れていってしまうかもしれないじゃんか。
……だけどそんな不安は、少しずつ現実に侵食していって。
あの夜を境にして、わたしはカラカラの砂漠に放り出されることになってしまったのだった。
◇◇◇
何か予感があったのか、それともただの偶然だったのかはわからないけれど。
わたしは中学二年生として送る生活の、とある一夜にふと目を覚ました。
妙に目が冴えてしまって、なんか足先もムズムズしていたせいもあり、すぐに寝なおすことができなくて。
いつまでも布団の中にいても眠れそうになかったので、何か飲んで気を紛らわせれば、また眠れるかなと。
ベットから抜け出て、そっとドアを開けて部屋を出た。
いま何時くらいなんだろう。時計を見なかったからわかんないや。
家族のみんなが起きないよう、物音に気をつけながら階段を降りると。
消灯済かと思っていたリビングには灯りがついていたし、中から話し声も聞こえてきた。
お母さんやお父さんがまだ起きているのかな、なんて考えながらリビングに入ろうとしたその直前で。
お母さんの発したわたしの名前が耳に入った。
思わず足を止めて、リビングの中の声に耳を澄ませると。
お母さんと、そしてお姉ちゃんがリビングで話をしていることがわかった。
「……お姉ちゃんがいろいろお願いするからでしょ?」
「うーん、まぁ……その自覚はあるけどさぁ」
自分を除いた家族で、その場にいないわたしの名前を出して話をしている。
そんな状況に堂々と踏み込んでいける度胸もなかったし。
それ以上に、話題の渦中の当人に気を遣う必要のない場で、いったいどんな話をしているのか。
純粋に気になって、コッソリと聞き耳をたててしまったとして、誰がわたしを責められるだろう。
「お姉ちゃんも気をつけてあげてほしいのよ。あの子、あのままじゃ可哀想じゃない」
……そっか。
お母さんから見た私は、『可哀想』な子なんだ。
別にその言葉にショックを受けたとかではなくて、むしろ悲しいよりは心外だなと思った。
お母さんは私を大切にしてくれてるし、それは十分に理解も感謝もしている。わたしだってお母さんのことは大好きだ。
普通に客観的に見て、わたしは自分のことよりもお姉ちゃんを優先しているような、そんな子に見えているのだろう。
わたしのことを想ってくれているからこそ、お母さんはその境遇に胸を痛めてくれている。
そんなことはわかってる。
だけど、奪うようなことを言わないでほしかった。
わたしが好きでしていること、望んでしていることを、その機会が減ってしまうようなことを言うのは、正直言ってありがた迷惑だった。
「わかってるって。てか最近あたしだってそういうの気をつけてるし」
お姉ちゃんの言うように、たしかにここ数年はお姉ちゃんからの『お願い』の頻度が徐々に減っていた。
だからこそ。
たとえ何も言われなくても、わたしはお姉ちゃんの望んでいるであろうことを汲んで、尽くそうと頑張った。
もう何年も一緒に住んでいるんだ。
お姉ちゃんの心の中で抱えている望みを予想することくらいできるし、そのヒントも何気ない世間話の中に散りばめられている。
そこから拾い上げて、考えて、もしかしたら喜んでくれるだろうって思いながら。
わたしは少しでも求めてもらえるように、必要だと思ってもらえるように、その機会を作り続けた。
「まぁ、あの子の性格もあるんだろうけど……」
「あたしだって、流石に悪いとは思ってるよ。あんな風に他人、というかあたしばっか優先するようになっちゃったのも、小さい時からパシリ続けちゃったせいだし……」
お姉ちゃんはそんなことを思わないでいい。
わたしがしたくてしているんだし、それは余計な反省なんだから。
……いい機会なのかもしれない。
リビングで行われている見当はずれな話し合いの場にわたしも参加して、それを伝えてしまえば全て解決じゃないか。
そう思い至って。
いつの間にかしゃがみ込んでいたから、グッと立ち上がったのと同時に耳に入った、お母さんのはなし。
「やっぱりお姉ちゃん、家でる? 生活費はお母さんたち出すから……」
それまでに、おそらくわたしだけが聞かされてなかった、その話の内容が。
わたしのせいで、何故かお姉ちゃんが家を出て行くハメになるかもしれないという……その可能性が。
大好きなお姉ちゃんや両親から離れて。
わたしがこの全寮制の百合花女学園に入学する、そのキッカケとなったのだった。
◇◇◇




