第六十四話 未は拒否する
◇◇◇
神さんが、急に泣き出した。
……えっ? な、なんで?
小学生の頃は同級生が泣き出すなんてこと、ザラにあったけど。
高校生にもなって、同級生が目の前で急に泣き出すなんて思ってもみなかったせいか。
そんな場面を目の当たりにしたあたしは、メチャクチャにテンパってしまった。
「か、神さん!? ちょ、あの……だ、大丈夫?」
突然のことに驚いて、慌てふためきながらもそう問いかけたあたしの声にも。
神さんは泣き続けたまま、フルフルと首を振るだけだった。
なにが原因なのか、泣き出した同級生にどう接すればいいのかもわからないし。
あたしはひとまずイスから立ちあがって、神さんのそばにかけ寄った。
「ご、ごめん! あたしなんかしちゃった?」
「ちが、ちがくて……」
そっと背中に手を置いて、泣いてしまった原因を尋ねてみたものの。
あいも変わらず神さんは、否定の言葉しか口にせず、エンエンと涙をこぼし続けているし。
『松鵜部長ぉ、戻ってきてよー……』なんて考えながら、それでもどうすることもできずに呆然としていると……。
「あ、あの。ごめ、ごめんなさい。急に、こんな……」
少しずつ落ち着きを取り戻してくれた神さんが、それでも涙目のままではあったけど。
寄り添っていたあたしを見上げて、しばらくぶりにまともな反応を示してくれた。
「うん。あの、大丈夫? なんでいきなり、そんな……?」
そんな様子を見て、あたしも少し胸を撫で下ろすことができたので。
あらためて急に泣き出しちゃった理由を聞いてみたところ。
「わ、わたし、誰かをアダ名で呼んでもいいなんて……初めてで。嬉しぃ……」
「……へ、へぇ〜」
な〜るほど。なるほど?
それで泣いたの?
アダ名で呼んでいいって許可がおりたから、嬉しくて?
理由なんてものを聞いてみたけれど、まさか余計に混乱するとは思わなかった。
そんくらいには神さんが言ってる言葉の意味が理解できなかった。
いや意味は理解できるか。納得ができない、が正しいのかも。
だって高校生にもなって、そんなチャチなことで泣く人いる?
いやまぁ泣くほどなんだし、チャチなんて思うのも失礼で、神さんにとってはよっぽど大事なんだろうけどもさぁ……。
そんな……生まれてから最近まで、山奥で一人きりで暮らしてました、とかね?
それはあまりにもファンタジーが過ぎたとしても。
例えば人間の友だちがひとりもいなくて、幼少の頃から家に監禁されてた、みたいな背景があるなら、まぁわからんでもないけど。
だけど神さんは一応、クラスとか寮でも集団生活できてるわけだし。
あぁでも全然まったく周りの子との交流がないのは確かなのよね。
んじゃ今までの孤立した様子も、自ずから望んでそうしているわけではなくてさ。
人付き合いの経験が乏しいから、とかだったりするのかなぁ?
だから大したことない『アダ名』なんて、そんな人間関係の文化にも感動してるんだろうか?
それならまだ納得はしやすいけど、それもこれも全部あたしの想像でしかないわけで。
『ううむ……』とあたしが長々と考え事をしていると、それまでウルウルと瞳を濡らしてあたしを見上げていた神さんは……。
「……羊ちゃあん!」
急にあたしのアダ名を呼びながら、イスから立ち上がって、あたしにギューっと抱きついてきた。
「ぎゃあっ! なに! なに!?」
抱きつかれた瞬間は、あたしも状況が理解できずフリーズしてしまったけれど。
ようやく神さんからの抱擁に実感を持てたところで、メタクソに驚いて声をあげてしまった。
「羊ちゃん……羊ちゃぁん」
戸惑うあたしの気持ちなんぞ、全然気にしてくれようともせず。
なおも神さんは耳元で囁きながら、腰に腕を回して密着し続けている。
「え、えっ? な、なによ急にぃ! ちょ、おち、落ち着いて!」
流石にこんな真っ向から抱きつかれるのは恥ずかしくもなってくる。
ここ数年は、お母さんやお姉ちゃんが抱きついてこようとしても拒否してるくらいだし!
誰かにギュッとされるのも久しぶりだし!
「羊ちゃん、羊ちゃん……しゅき」
「……えっ? いや……ん?」
えっと、いま神さんなんて言った?
『しゅき』って……はい?
いやいやいや、違うちがう。
多分なんか別の言葉があたしの外耳道でとんでもない跳ね返り方をしちゃったせいで、そんな聞き間違いなんかをしちゃったんだろう。うん。
きっとシャケとかシャチって言ったのね。語感が似てるし……いや、んなわけないわよ。それだって意味わかんないし。
でも……あんま考えるのはやめとこう。
流石に、だってそんな、いきなり好きだなんて言い出すわけない。
んなはずがない。意味わかんないもん。普通に気持ち悪いし。
「あの、神さん、いったん離れて……」
さっきの聞き間違いは、ひとまずなかったものとして。
相変わらずあたしを抱きしめてる神さんに離れてもらおうと、モゾモゾと腕を動かして、神さんの両肩になんとか手をかけた。
だけど肩を押しても、神さんの身体はピクリともせず。
むしろ神さんはあたしを抱きしめている腕の力を強めてきやがるし。
「うぐぐ……神さん! ちょ、本当にもう。は、恥ずかしいから! お願いだからはなしてぇ……!」
一心不乱にアダ名を囁きながら抱きついてくる、妖怪まがいの神さんと。
顔を熱くして必死に引き剥がそうとするあたしの攻防は、しばらく続いたんだけど……。
「羊ちゃん、羊たゆ……んすぅー、はぁー。羊ちゃん、めっちゃいい匂いすんね……」
「キモいって!」
あたしは神さんを思いっきり突き飛ばした。なんかめちゃくちゃチカラ出た。
相手が神さんであることとか考える余裕もなく、脊髄反射で、あまりの気持ち悪さにドンッとやってしまった。
神さんは『どぎゃんっ!』とか呻きながら後退していった。
よし! ざまあみろ!
あっ……いやウソウソ。不可抗力だから。
「ご、ごめん! つい咄嗟に……」
流石に暴力まがいのことは良くなかったなと反省し、神さんに一応あやまったんだけど。
あたしに拒否されたのがそこそこ堪えたのか。
神さんはフルフル震えながら、あたしをジトっと睨んでいた。
「ひ、ひどい。突き飛ばすなんてぇ」
「ごめん……だってキモかったから……」
あまりにもあの発言が鳥肌もんだったんだもの。
たぶん神さんの情緒はちょっとバグってるんだろうけど。
しおらしく落ち込んでたと思いきや。
あたしの『キモい』を聞いたからか、神さんはプンスカと怒り出したようにあたしに詰め寄ってきた。
「羊ちゃんがアダ名で呼んで良いっていったのにぃっ!」
「それはそうだけど……だってキモかったから……」
あたしの脳みそは、マジで変質者かと思ったんだろう。抱きつかれてて神さんの美少女顔も見えなかったし。
クソキモ発言そのものに対して、危険信号がビービーと発信されたのかもしれない。だってマジでキモかったし……。
「んっー! さっきからキモいキモいってぇ! 羊ちゃんだって私のこと好きって言ってたのに!」
「それは言ってない」
いつの話してんの?
いや、いつもなにもそんな事実はないわよ。
あだ名でしょあだ名。
『この人、もしかしたらヤバい人なのかもしれない』なんて、ちょっと思い始めちゃったけれど。
……神さんは、やっぱりズルい。
泣いたり、怒ったり、抱きついてきたり。とんでもなくキモい発言をかましてきたりはしたけども……。
この子の顔を見ていると、その全てが世界から許されているような……そんな錯覚すら抱かせられる。
今後ふつうに距離をおいても良さそうなくらい、神さんは好き勝手に振る舞っているはずなのに。
だからといって、アダ名で呼ばれるのが嫌になったなんて思いも沸かないし。
「さっきの神さん、普通にキモかったからね」
そう言いながらも、少し笑ってしまいそうになっているほどに許せてしまうのは……。
「あ〜! またキモいって言った! てか羊ちゃんなに笑ってんの! キモいって言いながら笑わないでっ!」
『笑ってしまいそう』ではなくて。
神さんいわく、すでにあたしが笑ってしまっているのは……。
この子の顔のせいなのか。
あるいは今日知ることのできた、性格とか、いろんなギャップとか、そういうモノのせいなのか。
「ふふっ、だって変態みたいでホントヤバかったし……あはは」
それはまだ確かには、いまのあたしが判断するのは難しいかもしれないけれど。
「も〜! さっき仲直りしたでしょ! 酷いことばっか言わないでっ!」
「あはは! ごめんごめん! 神さんの匂いも嗅がせて?」
「キモいよ!」
それでも、初めて神さんを見たときに感じた『ズルい』って劣等感と。
今のあたしが思っている『ズルい』って気持ち。
それはきっと絶対に、別の違う感情なんだってことだけは……なんでか、絶対にそうだって確信できた。
「ほらー。神さんだってキモがってんじゃん!」
「だ、だってぇ……うぅ、羊ちゃんの真似しただけだし!」
もちろんそれで、あたしの抱えているコンプレックスがなくなるなんてことは当然ないんだけど。
それでも、心を覆っていた重い布が一枚はがれて、どっかに飛んでいったみたいに。
そう思えるほどには、心が軽くなったようにも感じたから。
「あはは! 神さん、これからよろしくね!」
「んもぅ! 意地悪な羊ちゃんとはよろしくしない! でも……よ、よろしくお願いします」
「うん!」
プリプリと怒っている神さんを見て。
あたしはずっと、笑ってしまったのだった。
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