第五十一話 馬は感動する
◇◇◇
さっき私が立っていた場所で、今は神さんが構えている。
「よーい……スタート!」
高くあげた右手を振り下ろすのにあわせて。
泣き枯れたしゃがれ声になっちゃったけど、それでもしっかり神さんまで届くように、大きく掛け声をあげた。
左手で押したストップウォッチが時を刻むと同時に、神さんが走り出す。
頑張れ!
走り出した神さんはお世辞にも速いとはいえなかったけど、それでも精一杯に、前へ前へと足を動かしていた。
あと少し……頑張れ!
心の中で何度も応援しながら見守っている私の前を、神さんがタタタッと走り抜けて。
ストップウォッチを押してタイムを確定させた後、記録を見るよりも前に、地面にへたり込んだ神さんに駆け寄った。
「ゼヒャー……ゼヒャー……」
「大丈夫? よく頑張ったね! 神さんもすごいカッコよかったよ!」
そのまま溶けて消えそうなくらい疲れている神さんの背中を、ナデナデと摩った。
あと、私がしてもらったみたいに褒めたんだけど、神さんは壊れた赤べこみたいに首をカクカクさせて頷いてるだけだった。
なんとか返事をしてくれようとしている意思は感じとれたんだけど、声が出せないくらいに、よっぽど疲れちゃっているんだろう。
流石にこのあと持久走も控えているし、もう一本走るのは無理だろうなと。
神さんの呼吸が落ち着くのを待ちながら、ようやくストップウォッチの表示を確認すると……うん、なるほど。
大切なのは、神さんが頑張ったって事実だから。
神さんは精一杯やりきったし。私は記録の良し悪し関係なく、スゴイ感動したし。
なんというか……うん。
神さんはすごい頑張った!
えらい! 可愛い! カッコいい!
それでいいでしょ。それが全部だよ。うん。
◇◇◇
つい数十分前まで陽が差していた学校のグラウンドには、もう幾分かの影が落ちている。
だいぶ薄暗くなってしまったその場所で、最後となる持久走を始めるために、私と神さんはトラックのスタートラインに立っていた。
「それじゃ、始めるよ? 準備はいい?」
「ど、ど、ドンときょいです」
少し休憩したとはいえ、さっき全力疾走した疲れとか、今までの測定で溜まった疲れもあるんだろうけど。
それ以上に千メートルという距離の途方もなさに、さっきまでビビりまくっていた神さんも。
フニャフニャの言葉使いではあったけれど、覚悟を決めたのか、そう言って力強く頷いた。
「無理だけはしないでね? いつでもギブアップしていいから」
「が、頑張ります!」
「うん。それじゃ……よーい、スタート!」
私の合図を聞いて神さんがスタートをきった。
正直神さんの足の速さだと、全部走り切るまでに何分かかるかわからない。
今でもだいぶ薄暗いのに、刻一刻と陽は落ちてきているから、走り終わる頃には夜になっているかもしれないけれど。
それでも神さんが怪我しないように注意して、ちゃんと応援して。
神さんが完走するまで、しっかり見届けようと強く思った。
さっきまで、突然泣き出した私のことを神さんは辛抱強く慰めてくれて、寄り添ってくれて、甘えさせてくれたんだから。
何時間か前、測定を始めた頃にはあまり乗り気ではなかったはずなのに……。
まさか、私がこんなにも前向きに神さんを応援するようになるなんて。
きっとこれも、神さんの不思議な魅力がゆえのことなんだろう。
ほかの子たちが神さんに陶酔している気持ちが、ようやく私にもわかった気がした。
「頑張って! いいペースだよ!」
人のことを応援し慣れてないから、なんとなく思い浮かんだ言葉で励ましたんだけど……これはいいペースなんだろうか。
ヨッチヨッチと一生懸命走っているけれど、今ようやくトラックの半周目に差し掛かったくらいだし。
いや、あんま速度云々は考えないでおこう。
神さんは頑張ってるんだからそれでいいって、さっき自分を納得させたでしょ。
それになんか神さんが一生懸命走っている姿は、妙な可愛さがあるし。ペンギンみたい。
だいぶイッパイイッパイの神さんには悪いけど、飽きずにずっと見てられそう。
なんて微笑ましく見守っていると、トラックの半周を過ぎたあたりで、急に神さんがペースダウンした。
目に見てわかるほどの速度の急落に驚いて、神さんに走り寄ると。
なんとか前に進もうとはしているものの、神さんはもうすでに限界に近いのか、だいぶヘトヘトになっていた。
「だ、大丈夫!? 限界だったら一回中断しよう?」
倒れそうになったらいつでも支えられるように、ヨタヨタと前に進む神さんに並走……というか、横を歩きながらそう提案したけれど。
神さんはフルフルと頭を振って、私に視線を向けることなく前を向いて、ひたすらに足を動かし続けていた。
「っはぁ……わたしも、わたしだって……まだ、がんばれます!」
「でも……! 無理してまた倒れたら……」
私だってなんだかんだ陸上部で三年間活動してきたんだ。
走りすぎて限界になって倒れた人だって、何度か見たことがあるし。
そんな人たちと同じように、神さんの状態は本当に限界そうに見えた。
実際に神さんは私の前で一度倒れている。
あの日の記憶に残っている、グデっとして先生に運ばれている神さんを思うと、今の私はそれで心が痛むし。
もうあんな可哀想な目にあってほしくないと心配になるほどには、神さんを想う気持ちが芽生えている。
それでも……私の言葉を聞いても、神さんは諦めなかった。
顔を上げているのもツラいのか、俯きながらも、懸命に進もうともがいている。
「わたし、だって! うまずみしゃ、みたいに……つらくても、かっこよく、走りつづけたいんです!」
その言葉は、自分に向けての鼓舞もあったんだろうけど。
たぶん……いやきっと。
優しい神さんが、さっきまで弱音を吐露して泣いていた私を思って、私の過去を認めるために言ってくれたように感じた。
私は褒められるような子だって、誰かに憧れられるような人間だって。
さっき神さんが私にかけてくれた言葉を。
自分が苦痛とか苦労とか、辛い思いをしてまでも。
身を挺して証明してくれているんだって、そう強く思わせてくれるほどに、私の心を大きく揺さぶる姿だった。
「うん……うん! 神さん、ありがと……」
涙なんて、さっきすでに出し尽くしたと思っていたのに。
神さんの懸命に走る姿を見て、私の瞳からはまた涙が溢れ出した。
「あと、少し……なんです……」
「うん! あと少し! 頑張って!」
『どんなことにも終わりがある』なんて陳腐な言葉だけど、それはきっと本当のことで。
神さんが必死に走っているこの時間にも、ちゃんと終わりはあって。
「うぎぎぃ……はぁ、はぁ……やった。もう……これで」
亀の進みほどの速度だったとしても、神さんが諦めずに進み続けたおかげで。
持久走の始まったトラックのスタートラインが、もうすぐそこまでに迫っていて。
「ごーる……」
トラックを一周走りきった神さんは、「ごーる」とそう言い残すと、その場で崩れ落ちていった。
すぐそばにいた私は神さんが怪我をしないように抱きかかえて、そーっとその場で神さんの身体を休みやすいように横たえてあげた。
「神さん……よく頑張ったね! スゴイよ! 私ほんとに感動した!」
「へ、へへへ……言ったじゃない……ですか」
私は泣きながら笑っていた。
神さんもヘロヘロになりながらも不敵に笑っていた。
「ドンと、ドンとこいって……千メートルくらい、わたしには……らくしょーですよ」
私の膝の上に頭を乗せながら、弱々しくピースサインを向けてきた神さんは。
本当に見惚れるほどに可愛くて、カッコよくて、素敵だったんだけど。
……これはやっぱり、誤解してますね。
持久走の距離しか伝えていなかった私が悪いんだろうけど。
「……あの、こんな状況だと、とても言いにくいんだけどさ……」
「はぁ、はぁ……?」
「このトラック、一周二百メートルだから……あと四周あるんだけど……」
自分の顔なんて確認しようがなかったけれど。
きっと今の私は感動とか気まずさとかが混じった、過去一番に複雑な表情をしていたことだろう。
これぞドヤ顔のお手本みたいな不敵な顔を浮かべていた神さんは、私の言葉を聞いて数秒固まったかと思いきや……。
そのまま私の膝の上で、気を失ったのだった。
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