第五十話 馬は慰撫される
◇◇◇
夕陽が照らす学校のグラウンド。
引かれた白線の続く先で、神さんが待っている。
私は呼吸を整えて、何百回と行った姿勢を保ち、前を向いた。
「よーい……どん!」
きっと疲れているだろうし、普段も大きな声なんて出し慣れていないんだろう。
僅かに揺れながら、少し掠れたような、だけど私にまで届くようにと頑張って発してくれたその掛け声が耳に届いた瞬間、私はスタートを切った。
走り出す直前の一瞬に、少しでも神さんの気持ちに応えようと思いながら。
走っている間はいつもあっという間で、何かを考えることなんてできず、神さんの前をただひたすらに駆け抜けた。
「はぁ、はぁ……ふぅ」
たった一本走っただけだからそこまで息が切れることもなく、すぐに呼吸を整えて神さんの方に歩き寄った。
「えっと……どうだったかな?」
ただ五十メートルを一回走っただけ、それだけなんだけど。
誰かにお願いされて、その人に見せるためだけに走ったことなんて今までなかったから、僅かに感じた照れ臭さを誤魔化すように感想なんかを求めてみた。
まぁ別に私なんかが走っているところを見たって、大した感慨なんてないんだろうけど。
特別でもなんでもないことで、さらっと流されるだけなんだろうと、正直そう思っていたんだけど……。
「す、すごい……すごいすごいっ! ビューって速くて、あっというまで! すごい! すごすぎです!」
私の予想はあまりにも見当はずれだとでも言うように、神さんは私の走るさまを絶賛してくれた。
あまりにも興奮している様子に面食らって、その時ようやく神さんの顔に視線をあわせたけれど。
声だけじゃなくて神さんの表情も、まるで憧れの芸能人でも見つけたように……いや、そんな表現を自分に当てはめるなんて過大評価が過ぎるのかもしれないけれど。
だけど、だって……その顔を見た瞬間にそう感じてしまったんだから仕方ない。
とにかく、神さんは私の走りなんてつまらないだろうモノを見て、まるで喜んでいるように興奮した様子を見せていた。
「……そんな、無理して褒めようとしてくれなくてもいいよ」
神さんの感情表現は、私にはあまりにも眩しすぎたから。
フイと俯き、素直にその賞賛も受け止められずに、照れ隠しのためにそんな可愛くない言葉を口にした。
「いえ本当に、本気でスゴイって思ったんです! すごい、とても……カッコよかったです!」
「……ありがと」
私は誰にも望まれずに、がむしゃらに走り続けてきた。
なんで走っているかなんてわからないまま。
強いて言うなら、ただそれまでに捧げた時間や努力が勿体無いから。だから走っているんだと、そう思っていた。
だけど今、ようやく気づくことができた。
私はずっと……褒められたかった。
妹だけじゃなく、私だって『よく出来たね』って褒めて欲しかった。
走り始めた時みたいに、『すごい』って憧れて欲しかった。
他になんにも打ち込むものがない私にだって、誇れるものがあるって思いたかった。
ずっとずっと、認めてほしかった。
部員の誰よりも、ひたすらに努力したはずのその頑張りが凄いことだって証明したかった。
「……馬澄さん?」
「いや、ごめん……あれ? なんでだろ。あはは。変なの……」
神さんの褒めてくれた言葉が、興奮した表情が、その全部が眩しくて……嬉しすぎて。
きっとそれは、ずっと私が望んでいたものだったから。
私は神さんに背中を向けたまま、涙をこぼしながら笑ってしまった。
「ホントごめん。おかしいな? すぐ泣き止むから」
目の前で急に泣き出して、意味も理由もわからないだろう神さんを困らせたくはなかったんだけど。
こんな風に泣いたのも、誰かの前で笑ったのだって、いつぶりになるかわからなかったから。
だからその感情の抑え方を、忘れた記憶の中から引っ張り出そうとしても、一向に涙は止まってくれなくて。
顔を隠して涙をこぼし続けてしまっていたんだけど……。
「……大丈夫です。泣きたい時には泣いていいと思います。今は私しかいませんから」
そう言って、神さんが私の背中に抱きついた。
誰かに褒めて欲しいだなんて、幼稚なわがままも。
気づいて欲しいのに気づいてくれないなんて、そんな身勝手な不満も。
ただ意固地になって、周りの人も環境も、スネた子どものように疎んじていたみっともなさも……。
「もしよかったら聞かせてください。馬澄さんの思っていることとか、吐き出したいこととか……教えてください」
そんな情けない部分も許してくれるように。
私だって誰かに甘えていいんだって、そう教えてくれるように。
神さんは私のことを、ギュッと抱きしめてくれていた。
「……頑張って走って、練習だってたくさんしたのに、誰も褒めてくれなくなった」
「ずっと頑張りつづけた馬澄さんはすごいです」
神さんの片手がお腹から離れて、寂しかったけど。
すぐにその手で、私の頭を撫でてくれた。
「私はただ頑張ってただけなのに、協調性がないとか付き合いづらいって、いっぱい悪口言われた……」
「そんなひどいことを言う人の中で、ずっと努力しつづけた馬澄さんはカッコいいです」
お腹に残った神さんの小さな手を、涙で濡れた手でギュッと握ってしまったけど。
神さんは嫌がらずに、そっと指を絡めてくれた。
「私のせいだって、いつも悪者にされて、すごい辛かった……」
「馬澄さんは悪くないです。頑張り屋で、優しくて、とても素敵な女の子です」
ずっと氷の中にいたように、寒くて寂しかった私の心も身体も。
神さんの手が、声が、温めてくれた。
「私だって、妹みたいに甘えたかった! せめてお母さんやお父さんだけでも、慰めてほしかった……」
「そのとき、そばにいてあげられなくてごめんなさい。これからは私なんかでよければ、たくさん甘えてください」
「うん……うん。ありがとぉ……」
もう涙を抑えようとすら思えなくて。
神さんに慰められながら、今まで抑え続けてきた気持ちを全て吐き出すように。
私はワンワンと子どものように、ひたすらに泣き続けたのだった。
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