第四十九話 馬は傾ける
◇◇◇
神さんが投球姿勢に入るのを、少し離れた後ろで見守る。
一回目とは比べものにならないくらい。
まるで野生のチンパンジーから野球少年くらいに成長した神さんが投げたボールが、放物線を描いて空を舞った後で、地面に落ちて転がった。
「や、やったぁ! さっきよりたくさん飛びました!」
「おぉーすごいね。一回目の倍くらい距離でてるよ」
目測でも……どんくらいだろ?
五メートルくらいは距離がでてるんじゃないかな。
「馬澄さんのおかげです! ありがとございます!」
「……いや、神さんが頑張ったからだよ。どうする? 測って、次いく?」
嬉しいって感情が伝わってくるくらい無邪気に笑って喜ぶ神さんにお礼を言われて、なんか気恥ずかしくなって顔を逸らしてしまった。
さっきよりも距離が伸びたんだし、神さんさえ満足してるなら、次の測定に移ってもいいかと思ったけど。
「いえ……あの、もう一回やってもいいですか?」
神さんは再挑戦したいようで、おずおずとそう答えた。
「うん。あっ、でも距離は測っておこうか。一番いい記録が出たらそれを提出するから」
今は私も、神さんが挑戦したいなら満足いくまで、いくらでも付き合ってあげたいと思っているから、そう言って頷いた。
そのあと何度か挑戦して、六メートルを越したあたりで神さんが納得したから、次の測定に移ることになった。
正直この時点で私はだいぶ感動を覚えていた。
はじめのヘナチョコ投球からここまで飛距離を伸ばせるくらいになったんだし、六メートルなんてだいぶ立派な結果だろう。
……まぁ後から調べて、六メートルという結果も評価としては、まだ一番下の評価だったのはちょっと笑っちゃったけど。
それでもその著しい成長と神さんの頑張る姿に、私はその時から少しずつ心を動かされていた。
そもそも体育館での測定を振り返っても、実は神さんは根性があったのだ。
反復横跳びだって途中で断念せずに、死にそうなくらいヘロヘロだったけど、ちゃんとやりきったし。
そんなこんなで神さんと協力して、時には身体の動かし方や少しでも結果を伸ばすコツなんかを教えつつ。
そのあとも一つずつ、測定を終わらせていった。
◇◇◇
立ち幅跳びやシャトルランを終えて、残った種目も五十メートル走と持久走のみとなった。
少しずつ日も暮れてきて、空には橙色が混じり始めている。
もうすぐ暗くなるだろうし、少しでも早く全部測り終えちゃったほうがいいんだろうけど……。
「ちょっと休憩しよっか? 少し待っててね」
直前におこなったシャトルランが流石にキツかったのか。
神さんは蘇ったばかりのゾンビみたいに半分意識を飛ばしながらもユラユラしていたから、自動販売機まで走ってスポーツドリンクを買ってきてあげた。
「これ飲んで? あそこに座って休憩しよ?」
「しゅ、しゅみばぜん……」
ヨチヨチと歩く神さんに寄り添いながら。
地面が芝生になっている場所まで歩いて行き、座って一息ついた。
「水分はちゃんと取っておいた方がいいからね?」
「あ、わざわざ買ってきてもらっちゃって……ありがとぅござます……」
だけど神さんにペットボトルを渡したものの。
神さんはよっぽど疲れているのか、ペットボトルを持ち上げるのもやっとのようだった。
さっきも歩いている間に神さんは三回もコケかけたからな……。
その度に支えてあげたけど、これはかなりヤバめに疲弊しているかもしれない。
「大丈夫? ひとりで飲める?」
「それくらい、お茶の子チャイチャイですよ。見ててくださいね……ふん! あ、無理。重……」
仕方ないから神さんのダランと垂れた腕からペットボトルを回収し、代わりに蓋を開けてあげる。
「……飲ませてあげよっか?」
気が緩んでいたのか、もしくは神さんに少しずつ気を許しはじめたのか、その両方か。
普段は冗談なんて一切言わない私には珍しいことに、神さんをからかうように、冗談で口にした提案だったのだけど……。
「はい。飲ませてぇ……」
「えっ!?」
神さんは甘えるようにそう言った後、目を閉じて私の方に向けて、その小さな口をアッと開けて見せてきた。
いや、冗談だったんだけど……。
てか神さんは恥ずかしくないんだろうか? そんな子どもみたいな甘え方して。
私はだいぶ恥ずかしい。
よくよく考えれば、今まで誰かに甘えられたことも、誰かを甘やかしてあげたこともない。
妹だって両親にじゃれついていたし、後輩の面倒だってろくに見てこなかったからな……。
いや、いつまでも神さんの綺麗な歯並びとか、少しエッチな口の中を眺めて葛藤している場合じゃないな。
コレは……仕方ないことなんだ。
神さんもよっぽど疲れているようだったし。
そもそも、私がこんなになるまで焚き付けちゃったところもあるし。
飲ませてあげるなんて冗談を言って、神さんが真に受けちゃったのも私のせいだし。
「じゃ、じゃあ……飲ませるよ?」
神さんがコクコクとうなづいた。
ゴクリと謎に溜まった唾を一度飲み込みながら、そーっとペットボトルを神さんの口に添えて傾けた。
いや、なに生唾飲み込んでまで緊張してんだ!
ただクラスメイトに飲み物飲ませてあげてるだけで、大したことしてないから!
頭の中ではそんなことを考えながらも、気持ちや体温までは自由に調整することができず。
慣れない行為にドギマギしつつ、一気に流し込まないように注意しながら、チョロチョロとスポーツドリンクを神さんの口に注ぎ続けた。
……そもそも神さんのこの顔もズルイ。
とてつもなく無防備で、警戒心がなさすぎる。
私たちみたいな歳の女の子が、他人にホイホイしていい顔じゃないよ。
「ぁく、ぁく。あ……もぅいいれす」
「……」
というかこの子、普段の教室での様子や噂と今じゃ全然違いすぎだし。
もっと無愛想で無関心で、『なんでも卒なくこなせますけど』みたいな子だと思ってたのに。
「あ、あぉ? 馬澄ひゃ? ぁく、ぁぐ……」
「……」
いま私の前にいる神さんは、私を信頼しているように無防備に甘えてきて。
身体動かすことが苦手なのに、ひたすらに頑張り屋で。
嬉しかったら素直に満開の笑顔を浮かべながら喜ぶような、そんな小さな子どもみたいに純粋な女の子だったし。
「ごっ、あの……もう、らいじょぶ……ごはっ!」
「あっ! ごめん!」
勢いはなかったけど、やめ時を見失ってずっと注いでしまっていたから、神さんが飲みきれずに溺れさせてしまって。
神さんが口から溢れさせたスポーツドリンクが、夕陽を反射してテラテラと艶やかに光っていた。
「ぁはー、あはー……ゴクっ。あ、ありがとうございました……美味しかったです」
「そ、そっか! ならよかった! あはは」
陸上で溺れかけるピンチから脱せたことで、神さんは項垂れてゼーハーと荒く息ついていたけど、なんとか平静を取り戻してくれた。
だけど私はなんか気恥ずかしさを感じてしまって。
さっきまでのように、神さんへ気軽に話しかけることができなかった。
ど、どうしよう……。
いやでも神さんもまだ疲れてるみたいだし、もう少し休んでいたほうがいいか。
さっきまでは沈黙に対してなんとも思わなかったのに。
『何か話したほうがいいんだろうか』とか、『でもなにを話せばいいんだろう』とか。
グルグル考えてしまっている私の気持ちも知らずに……。
「……あ、あの! 馬澄さんにお願いしたいことが、あるんですけど……」
スポーツドリンクを飲ませるために近寄ったままだったから、すぐ隣に座っていた神さんは。
意を決したような顔を浮かべながら、そう言って私を見上げてきた。
「お願い?」
「はい。あの……」
ろくに家族や他人と親しい交友関係も築いてこなかった私にとって。
あまりにも近すぎると感じるような、見つめ合う距離の近さや。
私に甘えるように、何かをねだるように、改めて言われた『お願い』という言葉。
「もしよかったら、なんですけど」
「……うん」
それに、今まで意識したことなんてなかったはずなのに。
夕陽のせいか別の理由のせいか。
少し朱に染まった神さん顔の綺麗さのせいで、鼓動が早まるのを自覚しながら……。
「馬澄さんが走っている姿を……見せてくれませんか?」
そうお願いする神さんの小さな声が、私の耳に確かに届いたのだった。
◇◇◇




