第四十八話 馬は後悔する
◇◇◇
フラフラと歩く危なっかしい神さんを見守りながら、外履きに履き替えてグラウンドにやってきた。
測定する種目もあと半分くらいで、残りは全てグラウンドで行うものなんだけど。
こっからまた大変そうだな……長距離走あるし。
「測定用紙の順番でいくなら、次は持久走なんだけど……」
横でしんどそうに立っている神さんにそう聞いてみると、死にそうな顔でフルフルと首を横に振っていた。
「……だよね。まぁ私たちも、この測定用紙を見る限りでは順番通りにはやんなかったっぽいし。他のやつから片付けていこっか」
「はい……」
神さんの疲労具合と、冗談かと思うほどの体力を考慮して、あまりハードそうではない種目から片付けてくこととなった。
んじゃ、まずはソフトボール投げからにするか。
南鶴先生から預かってきた測定用具の中からソフトボールを取り出して、神さんに手渡そうとして、はたと気づいた。
そういえばこの前、神さんが倒れたのもソフトボール投げするときだったな……。
大丈夫かな?
ソフトボールにアレルギーとか……いやそんなアレルギー聞いたことないし、それなら神さんの方から言ってくるか。
ちょっと心配になりつつも神さんにボールを向けると、なんの躊躇もなしに受け取ってくれたので。
この間は本当に、ただ体調が悪かっただけなんだろう。
神さん、見るからに線が細くて身体強くなさそうだし。
そもそもこれまでの測定結果からも、体力は無いわ、運動神経だって良くないっぽいし。
神さんから少し離れて見守っていると、チラチラと私の方を気にしながらも、ようやく神さんが投球体制に入った。
ただコレは……ひどいな。
神さんの手から離れたボールは数十センチほど宙を待ったあと、ポトンコロコロと地面に転がった。
大体二、三メートルくらいか。
失礼とはわかっていても、流石に非力が過ぎると思わずにはいられなかった。
……それに力がないだけじゃなく、身体の動かし方をまるでわかってない。
測定を待っている神さんの横を通り過ぎて。
落ちているボールを拾い上げて、そのままボールを片手に神さんのそばまで戻った。
「えっ? あ、あの……ボール、距離まだ測って……」
案の定、神さんは混乱している。
そりゃそうだ。これまでは神さんが体を動かして、私が測って、すぐ次を始めるってサイクルで淡々と測定していったんだから。
私も、それにたぶん神さんもおしゃべりな方ではなかったから、ろくに世間話の一つすらしなかったし。
だから、イレギュラーな私の行動に神さんが困惑するのも当然だったかもしれない。
測定を始めた時には『早く全部の測定をしきればそれでいい』と思っていた。
だから、ただ見守り続けて、淡々と測定を終えるつもりだったんだけど……。
「なんでそんなに出来ないの?」
「えっ? あ、あの……?」
そんな思いとは裏腹に、私はその言葉を口に出していた。
「真面目にやってる? あんな結果でも満足って言うなら、別にいいけどさ」
「あぅ……でも私だって、もっと遠くに投げたいですけど。どうすればいいか、わからないし……」
自分が何を思い、何を考え、何故そう口を出したのか。
そして神さんがどう思って、どう反応を示すかなんて一切考慮することもせず。
誰かへの気遣いや配慮なんてまるで含んでいないような、余裕の籠らない言葉が、ただ口から漏れつづけた。
「そもそもボールの持ち方も変だし、投げ方もおかしかった。あれじゃまともに投げれるはずない」
「あ、うぅ……すいません」
別に謝ってほしいわけじゃない。
泣かせたいわけでも、責めているつもりもないはずだった。
……本当に?
私は知っているんじゃないの?
こういうふうに誰かを責めるように言葉で殴る残酷な行いを。
ストレスを発散するだけの最低な言動を。
私は今までにも……した覚えがあるんじゃないの?
ついキツい言い方になってしまったせいか、神さんは涙目になって俯いてしまった。
私は神さんの落ち込んだような顔を見て、既視感を覚えて。
少し記憶を漁るだけで、すぐにその原因に思い至った。
◇◇◇
あれは去年の今頃、中学三年生のときだったか。
部活の時間中にひとり黙々と練習していると、部活に入部したばかりの後輩の女の子が声をかけてきたことがあった。
その頃には継続して、私を腫れ物のように扱う雰囲気が部内に形成されていたし。
私だってだいぶヤケになっていた時期だったから、こっちからだって、みんなと馴れ合わないように努めていた。
部活の時間には、最低限の事務連絡すら粗雑に交わす程度のコミュニケーションしかとっていなかった私には、それは稀有な事態だった。
ろくに関わりのなかった後輩が、私に練習方法を聞いてきたのだ。
『馬澄先輩みたいに早く走れるようになりたい』と、そう言っていた気もするけれど……。
その言葉を聞いて、ただイライラしたことだけはハッキリと覚えている。
きっとその後輩の女の子は真面目な子で、本当にただ上達の術を知りたくて話しかけてくれたんだろう。
今でこそ可哀想なことをしてしまったとひどく後悔するけれど、その時の私はひたすらに余裕がなかった。
大して目的も目標も持っていなかったくせに、ずっと盲目に走り続けてきたから。
数ヶ月後に迫った最後の大会で結果を出さなければいけないと、アホみたいな強迫観念に追い立てられていた。
……誰にも期待なんてされていないのに。
私自身ですら……自分に期待なんてしていなかっただろう。
後輩の子を走らせて、『なんでそんなに遅いのか』とか、ほかにもキツイことを言ってしまった覚えがある。
溜まりに溜まった鬱憤や、ストレスや、フラストレーションを……まるでその子にぶつけるように。
◇◇◇
あのとき私の身勝手な言葉をぶつけてしまったその子が、目の前で悲しげに立っている神さんとダブったのだろう。
後悔と、悔恨と。
そして反省と……罪悪感。
そういった自己嫌悪で心が痛んで、神さんの顔を見ることができずに視線を逸らした。
昔を想い、過去を悔やむことができているのは…。
きっと今までの環境を捨てて、この学校に来たおかげなのだと思う。
家族や、部活や、それまで自分を苛んでいた環境を全て置いてきたから。
いまはあの頃よりも、少しは心に余裕を持つことができているからなんだろう。
たぶん……いや、おそらくきっと。
数ヶ月前までの私だったら、その罪悪感を抱えたままで逃げていた。
罪悪感にも『仕方がない』だなんだと理由をつけて、後悔や反省もせずに、見て見ぬフリさえしていたかもしれない。
だけど強がる必要のなくなった今の私は、私自身のネガティブな気持ちに向き合うことができてしまう。
自分の吐いた毒の醜さに落ち込んで、嫌になって。
身勝手にも自己嫌悪におちいることができてしまう。
だけどそれは、気付くことができるようになったということでもあって……。
あの子も、そして神さんも。
私の無神経な言葉で傷つけてしまったことは、変えられない。
過去を変えることはできないし、私が吐き出してしまった八つ当たりをなかったことにはできない。
けれど、それでも。
手に持ったソフトボールは、過去に置いてきたものじゃなくて、今の私が持っているものだから。
だからきっと、今から変えることのできるものだってあるはずだと。
そう思うことが……今の自分ならできるから。
神さんの手をそっと取り、その手にボールを握らせた。
「……ここの縫い目に、指をかけるように握って」
きっと傷ついているだろうし、怖がっているかもしれない。
そう思ってしまうくらいプルプルと震える神さんのその手を、小さくて繊細なその手を。
これ以上傷つけないように、そっと丁寧に支えながら握り方を教えた。
「投げる時に身体が強張っていたから、もっと力を抜いてリラックスしたほうがいい。出来そう?」
「は……はい」
……ごめんね。
私はこれまで意固地に強がって、ひとりよがりな生き方をしていたから。
上手な謝り方もわからないし、慰め方も知らない。
「よし、んじゃ投げ方はまず私のマネをしてみて。何回失敗してもいいし、神さんがもう良いって思ったら、そこまでで大丈夫だからね?」
「は、はい! 頑張ります!」
だから今は、これくらいしか償い方がわからないけれど……。
不器用で不恰好なことなんて重々承知の上で。
埋め合わせなんて言うには、烏滸がましいのかもしれないけれど。
二人分の後悔の埋め合わせのために……私は神さんへの罪滅ぼしを始めたのだった。
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