第三一四話 虎とペラルゴニウム
◇◇◇
神さんが小さな声でこぼしたお願いは、言いふらすつもりのなかったあたしにとっては言わずもがなってくらいに当たり前のことで。
むしろあたしが泣かせてしまったのに、そんな心配までさせたことが逆に申し訳ないくらいだった。
「もちろん言わねぇって! ってか、あたしが泣かせちゃったわけだし、マジでごめんって感じで……」
「あっ、いえ、あの……虎前さんのせいではないんです。そう思わせてしまってすいません」
事実として、あたしの口から出た言葉を受けて神さんは泣いちゃったはずだったのだけど。
あの時に散々なんども謝って、そんで時を置いてこうしてあらためてお詫びの言葉を伝えてみたら、あたしのせいではないと神さんは否定したのだった。
「えっ、いやでも。んじゃなんで……」
神さんがあたしのことを庇って否定してくれたって可能性はあるかもだけど。
なんかモジモジと恥ずかしそうにしている様子からは、その可能性もあんまないようにも思えてきて。
ほんじゃあどうして泣いちまったのかいと、皆までは言わずとも、その理由を確かめるためにソロっと訊ねてみると。
「えーっと……じつは虎前さんを見つける前にですね」
そんな前置きのあとに教えてくれた話では、なにやら天文部での作業中に失敗してしまったらしく。
さらにそのあとクラスの方で役に立とうと張り切っていたのに、あちらこちらで手伝いの申し出を断られ続けて、メンタルがベコベコにヘコんでしまったせいです、とのことだった。
そうして積み上がった無力感の積み木の山に、たまたまあたしがトドメを刺すことになっちゃっただけ、っつうことで……。
「私がひとりで勝手に落ち込んでいただけで、本当に虎前さんのせいとかじゃないんです。ご迷惑をかけてしまってごめんなさい」
そこまで教えてくれた神さんは、あたしに向かってもう一度、ペコリと頭を下げて謝ってきた。
「いや、それならちょっと安心したってか。あっ! あと迷惑だなんてぜんぜん思ってねぇから!」
「……ありがとうございます」
だとしてもトドメを刺したのはあたしみたいだし、神さんが泣いちゃった原因にあたしも関わってるっつえば、なんかそれも間違いじゃない気はすんだけども。
でもそれでもう一度あたしが謝ったとしても、神さんは優しいからまた気にしちまうかもだしな。
今はひとまず、『あたしのせいじゃない』って言ってくれてる神さんの言葉を飲み込んどいた方が良さそうか。うん。
「いま落ち着いて考えてみると、ほかのみんなに断られたのも、たまたまタイミングが悪かっただけだと思いますし」
「あぁ、うん。きっとそうだよ」
頭を上げた神さんは、さっき泣いていた時ほどではないにしろ、ちょっとヘコんでいるようにも見えたけど。
そのときの記憶を振り返りながら呟いた『みんなに断られた理由』を、あたしがブンブンと頷いて肯定してあげると。
苦笑いではあったけど、ようやく少し表情を和らげてくれた。
「あはは……でもさっきは『私は必要とされてないんだ』って、本当にそう思い込んじゃって」
「そんなこと絶対ないって! げんにあたしはマジで助かったし、それは神さんのおかげなんだからさ!」
「あっ……えへへ、それなら嬉しいです」
あたしはマジで口下手な自覚があって、誰かを慰められるような言葉も上手に選ぶことができないような人間だと思っていた。
だけどこのときばかりは……本音で思った気持ちを躊躇うことなく伝えられたのが幸いしてか。
神さんは『嬉しい』とそう言いながら、さっきみたいな苦笑いじゃなく、いつもみたいな魅力的な笑顔をあたしに向けてくれたのだった。
「マジの大マジで、神さんにはどんだけお礼を言っても足りないくらいだし……」
神さんが抱いてしまっていた誤解も解けたようだし、こうして笑顔を向けてくれるくらいには心のヘコみも治ったようだし、そんな神さんの様子を見れてあたしも安心しながら。
『必要とされない』どころか、今日だけでこんなにもあたしのことを助けてくれたんだから、って。
まだあともう少しだけでも、あたしが感じてる恩を返すため、胸の中から溢れそうな気持ちが口をついて出ていったのだけど……。
「いえ、お礼を言うのは私の方です」
伸ばされた小さな手のひらが、あたしの手をギュッと握って。
「虎前さんのお手伝いができたから、こうして元気になりましたし。それに自分の思い込みとかにも気づくことができたんです」
言葉だけではなく、まるで触れ合った肌からも気持ちが伝わることを願っているかのように。
あたしの手を、神さんの両手で優しく包みながら……。
「だから虎前さん。私を必要としてくれて……ありがとうございます」
どう抗おうとも無駄なほどに、目を離すことのできないほどに。
何度目かになる『ありがとう』を伝えてくれた神さんの笑顔に、あたしは見惚れてしまったのだった。
◇◇◇
『ごめんなさい』も『ありがとう』も、今夜だけで神さんから何遍言われたんだろうか。
こっちとしちゃあ、ひとりで作業を抱え込んで切羽詰まっていた状況から救ってくれて『ありがとう』だし。悲しい思いをさせて泣かせる羽目になっちゃって『ごめんなさい』って、そんな気持ちで頭ん中がいっぱいなくらいだったんだけど。
今ここにいるあたしも神さんも、たぶん感謝とか申し訳なさとかって感情を、お互いに対して向け合っているみたいで。
そんな状況はアベコベなようでいて……だけど同じ立場にあって、まるであたしたちが『対等』であるかのようにも感じられた。
そう、そうだったはずで、神さんはそんな関係を望んでくれていたはずだった。
夏休みの最終日にみんなで遊びに行ったとき、あたしたちはそんな話をしたはずだった。
カラオケの薄暗い部屋の中で、神さんは『対等』な友だちになることを望んでくれて。
神さんの口から紡がれた望みを聞いて、あたしだって『そうありたい』と思ったはずだったのに……。
いまこの瞬間までの自分は、やっぱりどこか神さんに対して一線引いていたというか、『対等』な関係であろうとしていたとはまるで言えなかったように思える。
一瞬、ふとしたとき、日々のなかでほんのわずかな機会には。
少しばかりの勇気を振るって、神さんと『対等』であろうと行動したこともあったけれど。
焼け石に水滴を落とす程度の歩み寄りは、結局のところ、あたしが神さんに抱く『偶像』を払拭するには至らなくて……。
ギブもテイクも一方通行で、でもそれでも構わないと心のどこかで思っていた節すらあった。
だけど今あたしは、今までになく本気で『これまで通り』の関係を嫌だと思っている。
神さんがあたしの手を握って、あたしが神さんを必要としたことを喜んでくれて。
そして……こんなにも無垢な笑顔をまっすぐに向けてくれている。
子日さんも委員長も、何の気兼ねもなくあたしのことを助けようとしてくれた。
他のやつらだって同じで、みんな優しくて自慢の友だちだと胸を張って言えるけれど。
意気地がないのか、遠慮なのか、はたまた他の名前がつくような感情のせいなのか。
あたしは神さんのことを、そんな『みんな』から切り離して接していたのは間違いなくて……。
自分の卑屈さを言い訳にして、今まで神さんのことを遠い存在だと思ったままでいたのは、きっと刺繍作業で周りに頼ることを避けていたのとまったく同じ理由だったんだろう。
『シンドいこと』から逃げていただけ。いま、楽をしたかっただけ。
自分のことしか考えていなくて、まわりの子がどう思ってくれてるかってのにも、ちゃんと向き合おうとしなかっただけだったんだろう。
だけど、『これまで通り』の自分なんて……そんなのたまらなく嫌だと今あたしは思っている。
まわりに頼って、みんなに助けてもらえた先にある結果を見ることができたから。
神さんと『対等』になれた先にある結果を見てみたいと、本気で思ったから。
手を振って「またあした」と伝え合ったあと、神さんの部屋を出て寮の廊下を歩きながら。
あたしの胸の中で、そんな思いがどんどん強く、大きくなっていくのを感じていた。
そして、揺れ動く気持ちの波間の奥底で……。
『この笑顔をずっとみていたい』と。
そして願わくば……『あたしにだけ向けていて欲しい』なんて。
身に余るほどに傲慢な独占欲が、密かに心の水面に浮かんではすぐに沈んでいったのだった。
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