第三一一話 虎とビワ
◇◇◇
泣いている神さんの姿を目にした瞬間、あたしの頭ん中に隕石が落っこちてきたんじゃねぇかってほどの衝撃が走り、氷河期が訪れたように脳みそが凍りついた。
そのショッキングっぷりったるや相当のもんで、それまで身体の端を焦がすように苦しめられていた疲労感やら焦燥感は、一瞬にして心のうちから吹っ飛んでいった。
いやぁ、さすが神さん。あっという間にあたしの心臓をこんなにも鷲掴みにするなんてスゲェよな。おみそれしました……とかって現実から目を逸らしてトンチンカンなこと考えてる場合でなく!
目の前で神さんが泣いてるっつうことは、つまりは神さんを泣かした最低最悪な不届きモンがいやがる可能性があるってことで。
そんな奴がいようもんなら、怒り心頭で叱りつけた上で懲らしめてやりたいとこだが……。
今この教室には神さんとあたししかいないわけだし、それはつまりはそういうことなわけだよな。うん。
どう考えても、あたしが神さんのことを泣かせちゃったということですね。まいったなこりゃ。
「えっ!? か、神さん!? どっ、だっ、でえっ!?」
「うっ、うぅ……」
「ごめ、ごめん! あたしのせいだよな! ごめんごめんごめん!」
凍りついたポンコツ脳みそでも、とにかく謝らねぇといけないっつう判断はできたのか。
神さんの周りを狼狽えながらワタワタとみっともなく動き回りつつ、あたしの口はひたすらに『ごめん』と連呼しはじめた。
だってそうすることしかできないもん。神さん泣いちゃったから、あたしも混乱してんだもん。どうすりゃいいのさ。
「わ、わたしが、役にたたないから……みんな私のこといらないから……」
「そんなことない! そんなこと思ってないよー!」
あはは。『思ってないよー』とか言っちゃってね。さっきも『できないもん』とか思っちゃたりしてね。
いつも自分がどう体裁をつくろってたのかすら忘れちまったように、あまりにもキモい言動や思考がポンポン生まれてきたけれども。
そんなんに構ってる余裕はモチロンなくて、今はなりふり構わず神さんを慰めることしか頭になかった。
「でも、虎前さんも……うぅ、私のお手伝い、必要ないってぇ……ぐ、ぐぐぅ……」
過去の自分を恨みたくなるほどに、今までの人生で誰かを慰めるスキルっちゅうもんを培ってこなかった報いなのか。
あたしのヘタクソな慰めなんかじゃ神さんの機嫌が上を向くことはなく、むしろより一層に神さんがヘチャりながらグスグス泣いてしまっていたもんだから……。
「必要ある! メッチャ必要あるよ! 神さんが手伝ってくれたら嬉しいなぁマジで! ねっ!?」
うん、まぁそりゃそう答えるしかありませんでしょってな具合になりまして。
負担をかけてしまうとか針で怪我しちゃうかもという心配もお構いなしに、神さんに刺繍作業のお手伝いをお願いさせて頂く次第とあいなったのだった。どうしてこうなった。
◇◇◇
そんなこんなな経緯の末、神さんにお手伝いしてもらって出来上がった一枚分の布地を目の前にして、あたしはしばらくのあいだ言葉を失っていた。
いや……神さんが作業をはじめる前から、そこはかとなくその片鱗は見え隠れしていて。
あたしが縫った布地をお手本にして眺めながら、「糸は二本どりですよね」とかシレっと訊いてきたし、「茎のとこはアウトラインですね……」とかボソッと呟いてたし。
ささっと糸を挿げてたり、あたしが口出しするより前からちゃんと縫いはじめを隠してたり……。
「……なんで出来んの?」
想像していた予想と真反対な現実を前にして、ドチャクソ戸惑いながらもあたしがようやく口にすることができたのが、そんな間抜けな短い質問だった。
神さんが縫い上げてくれた布地を手にとって確認しても、糸の解れや緩みもなくて見事なモンだし……えっ、マジでなんで出来んの?
さっき神さんを泣かしちゃったことも含めて、もしかして今あたしは夢の中にでもいるんじゃないかって、なんかガチでそんな疑いすらも芽生え始めちまったもんだから。
現実かどうか確認するため、あとはたとえ夢の中とはいえ神さんのことを泣かした自分への罰の意味でも、そこにある針で自分の手をプスプス刺してやろうかとも思い始めていたところで……。
「だ、大丈夫そうですかね……えへへ」
椅子に座りながら作業していたから、そばで立って見ていたあたしの顔を見上げるように顔を上げた神さんが、安心と照れを混ぜたような表情でハニカんでいて。
間近で視界におさめちまったそんな可愛すぎる笑顔に脳を焼かれ、数瞬前に脳を過った自傷案もまとめてぜんぶ焼き炭になったおかげで、神さんの前で自傷行為に走らずに済んだのだった。
「大丈夫ってか、すげぇ上手なんだけど……あの、なんで刺繍できちゃってるの?」
可愛らしく「よーし!」と意気込みながら、あたしのことを置いてけぼりに次の布地に手を伸ばした神さんに、またぞろ同じような質問をなげかけると。
布地に針を通し始めはじめたあと、されどもあたしの質問に答えるためか針を止めて。
さらには針先を身体とは逆方向にむけて余所見してても怪我をしないようにするという、なんか裁縫に慣れた人がするような所作も見せつけてくれながら。
神さんは答えを探すように、数秒ポカンと口を開いたままでいたのちに……。
「家庭科部で顧問をしている小蟹先生のお母さんが、私が小学生の頃に家政婦さんとしてウチに来てくれてまして」
「えっ、あ、そうなの?」
「はい。そのときに小蟹さんがお裁縫とか刺繍とかいろいろ教えてくれたんです。小蟹さん、お裁縫が趣味だったので」
刺繍が出来るようになったそんな経緯を教えてくれたから、答えを得たおかげか、あたしの頭をグルグルさせてた混乱もようやく少しずつ収まってきたのだった。
いやぁ……なるほどな。なるほどなるほど。
神さんったらメチャクチャ可愛いだけじゃなく、お裁縫もできちゃうような女子力の高さも持ち合わせてんのか。無敵じゃねぇか。恐ろしかばい。
「小蟹さん、上手にできたらたくさん褒めてくれたから……私も嬉しくて、小学生のときはけっこう頑張ってたんですよ?」
過去を振り返って、きっとその思い出が神さんにとってはとても微笑ましいものだったんだろう。
さっき大粒の涙を流していた姿の記憶を薄れさせてくれるくらいに、神さんはニコニコと笑いながら手際よく針を布に走らせている。
「そうなんだ……いや、スゲェよ神さん」
「あはは、でも虎前さんだって刺繍できるじゃないですか。私より絶対に上手ですし」
「いや。そんなことはないと思うけど……でもほら、あんま刺繍できる子ってまわりにもいないし」
「そうですか? 私が出来る程度の刺繍なら、探せばきっと他にも出来る子はいると思いますよ?」
『そう言われてもな』と考えてみても、たとえば家庭科部には裁縫目当てで入部した生徒はあたしの他にはいなかったわけで……。
だけど家庭科部のそういう状況とか、あとは烏星先輩とか小蟹先生も、裁縫目当ての部員があたししかいないことに気ぃ遣ってくれたりだとか。
そういう要因によって、あたしは勝手に『裁縫が好きな子とか、刺繍が出来る子は周りにいない』って思い込んじゃっていただけなのかもしれない。
だって実際にあたしの予想を裏切って刺繍ができる子がひとり、目の前にいるんだもんな。
その事実はどうしようもなく、慣れないことをさせて負担をかけるかもという、あたしの中に根付いていた遠慮の一つを壊すに値するものだったみたいで……。
この放課後に、校舎の片隅でひとり孤独に作業に打ち込んでたあたしの元に神さんが落としたキッカケは。
あたしの心をずっと焦がし続けていた状況や認識を壊すような、その始まりを招いてくれる望外の機会となったのだった。
◇◇◇




