第三〇一話 戌とイヌショウマ
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書き物に集中していた意識のなか、ふと思い出して教室の壁にかかった時計に目を向けると、約束していた時間がもうすぐそこまで差し迫っていまして。
待ち合わせには遅刻せずに済みそうなことを安心しつつ、握っていたボールペンから手を離しながら……。
「すいません申輪さん! そろそろ行きますね!」
机を挟んで目の前で同じように書き仕事をしていた申輪さんにひと声かけて、座っていたイスから慌ただしく立ち上がりました。
「おー。りょうかーい」
「いま書いてた書類、途中までになっちゃってますけど……」
「だいじょうぶ。続きはやっとくぞー。手伝ってくれてありがとうな!」
明るい様子でそんな言葉をかえしてくれた申輪さんに、こちらも軽く頷いて返事をしてから。
そばに用意していた、これから自分の作業で使うかもしれないプリント類を確認して、待ち合わせ場所に向かうべく足早に教室を出ました。
自分に割り振られている担当の作業をするため、これから同じ内装班の先輩とともに美術室を訪れることになっていましたので。
約束の時間に遅れないように階段を気持ち早めに駆け降りていくと、下駄箱前にはすでに先輩の姿がありました。
「ごめんなさい! お待たせしましたか!」
「ううん、時間ピッタリだから大丈夫だよ」
無事に合流してから二言三言ほどの短い会話を交わしたあと、予定していた通りに先輩とふたり、さっそく美術室に足を向けまして。
今日も今日とて学園祭に向けた準備の時間が、より一層に賑やかとなった学園内で流れていったのでした。
◇◇◇
美術室の引き戸を開けて中に入ると、美術部のみなさんが一部では真剣に絵を描くことに没頭し、また別の場所では和やかにおしゃべりしていたりと、それぞれおもいおもいに活動されている様子でした。
学園祭では美術部として作品の展示をすることは知っていたので、それに向けて殺伐としていたりピリピリした雰囲気だったらどうしようと、少し不安はあったものの。
ひとまずそんな空気感ではなさそうに見受けられたので、ちょっと安心です。
『さて、まずは……』と、ここまでやってきた目的を果たすため、どなたかに声をかけようと思案していると……。
「ごめんね。ちょっといい?」
一緒に同行していた先輩の方から、先んじて美術部員の方に声をかけてくれていて。
仲良さそうに会話を続けていることからもお二人はお友だち同士のようでしたので、ひとまずここは先輩に任せて、わたしは後ろで黙って会話を聞いていたのですが……。
「ん? ワンコやん。こないとこでどしたん?」
さきほど入室した時にはお部屋の中に見当たらなかった巳継さんが、ドアの外から美術室に入ってすぐわたしに気付いたようで、声をかけてきてくれました。
「おつかれさまです巳継さん! 内装班の仕事で壁宣伝用のデザインをいただきに来ました!」
「あぁあぁ、なるほど。壁宣伝のやつか」
「はい!」
巳継さんは制服の上にジャージを羽織り、さらにエプロンまで身につけた珍しい姿をされております。美術部の活動中にはこの格好が作業着なのでしょうか。
そういえば部活中の美術室を訪れるのも今日が初めてでしたし、周りを見回して改めて気付いたのですが、みなさんそれぞれ人によって違った出で立ちをされていますね……。
おぉ、あの方はツナギ姿ですし! カッコいいです!
「なぁ、いまクラスの方ってどんな感じなん?」
手に持った数本の絵筆を少し離れた作業場所に置きに行ったあと、巳継さんはこちらまで戻ってきて、そう質問されてきたので。
チラと視線を戻した先輩たちも、すでに用事としていた件は済ませて世間話をしているようでしたし。
それを確認してから、わたしも巳継さんに応じるべく口を開きました。
「クラスでの準備は順調だと思います。ただ委員長はクラスのリーダー役と吹奏楽部の練習でヒーヒー言ってますね」
「あぁ、たしかにたつみー、ここんとこ部屋でも疲れた感じでヘバってるもんなぁ。他のヤツらはどうなん?」
同室である巳継さんが言うのですから、きっと寮の自室に疲労感をお土産に持って帰るほどには、辰峯さんもお疲れなのでしょう。
辰峯さんはクラス委員の仕事をしている普段以上に、各班の進捗やスケジュール管理などの仕事をバリバリこなしていますし。
さらに吹奏楽部の練習にも参加されているのですから、とても疲れていても無理ないですね……わたしももっと頑張って協力せねば!
「そうですねぇ……申輪さんと卯月さんは行事委員の仕事がとても忙しいらしくヒーヒー言ってますし、虎前さんは衣装班が大変そうでヒーヒー言ってますね。あとは今丑さんも、部活の方でしごかれてるらしくてヒーヒー言い出してます!」
「そりゃまた、ウチのクラスのやつら大丈夫かいな……」
巳継さんに報告するために最近のクラスメイトの様子を思い返してみると、たしかに心配になるほど皆さんご苦労されているようで。
そんな友だちの姿を想像して、巳継さんもそりゃ苦笑しちゃうというもんでしょう。
「そいや、そない大変なときにワンコのルームメイトはどないしてんねん。あのイノシシ女にも手伝わせりゃええやんか」
「えっ? あぁ亥埜さんですか。亥埜さんにもちょくちょく手伝わせてますよ。神さんを経由して頼むとどんな作業でもやってくれるので」
マイペースといいますか、自分の興味があること以外には素っ気ない性格に呆れることも多いような亥埜さんですが。
クラスでの準備にもまったく協力していないってわけでもなかったため、一応は庇ってあげるためにも、そう口にしたあとに思い出しましたが……。
「まぁ今日は神さんが部活の方の作業に行ってしまわれたので、『神さんいないの? んじゃやんない。部活行くから』ってサッサと教室から出てっちゃいましたけどね」
「あの女はホンマ……」
巳継さんが言うところの『あの女』にさきほど目の前でかまされた、ちょっとイラっとしてしまった言動を真似して伝えると。
その姿をありありとイメージできたのか、巳継さんは呆れて笑うしかないって顔をしておりました。わかります。あとで部屋に戻ったらシバいておきますのでご安心ください。
「そちらはどうですか? 美術部も、休憩所のご担当もいろいろ大変そうだと思いますけど……」
「んー? 部活の方は早くから取り掛かってたし、まぁなんとかなりそうやけどなぁ」
チラリと巳継さんの視線が向かった先、さきほど絵筆を置きに行ったところが巳継さんの作業場所なのでしょうが。
そちらに置かれていたイーゼルにはキャンバスが立て掛けてあったものの、残念ながらこちらからではその裏地しか見ることができませんでした。
気になって拝見させてもらおうと足を向けようとしても、わたしの意図に気付いた巳継さんに『学園祭当日まで非公開や』と引き止められてしまいましたし……残念です。
「んで壁宣伝の方はいちおう間に合って、デザイン案もさっき渡したんやろ?」
「はい! ありがとうございました!」
「まぁうち一人で考えたわけじゃないし、先輩と一緒に考えた分はラクできたけどな……あとはクラTか」
クラスメイトがそれぞれ割り振られた班作業のなかで、絵がお上手と言うことでデザイン係として抜擢されていた巳継さんでしたが……。
最後にボソリと呟いたクラスTシャツの件では進捗があまり芳しくないのか、巳継さんはポリポリと頭を掻きつつ、思わずといった感じで苦い顔を浮かべたのでした。
◇◇◇




