第二一五話 蟹とゴボウ
◇◇◇
あらぬ疑いを抱かれていた鷲北先生の誤解をなんとか解いた後で職員室まで戻ってくると。
授業中なので他の先生たちはみんな出払っていたから、職員室にはチラホラと何人かの先生がいるのみで閑散としていた。
部屋に入ってすぐに副学園長先生に声をかけられて。
大鰐先生が伝えてくれたのか、私の体調を心配するような言葉をかけてもらったので。
「ご心配おかけしてしまい申し訳ございません。もう大丈夫ですので……」
そんな返事と、加えて少しばかりの他愛のない会話を交わしたあと。
仕事をするために自分のデスクに向かおうと振り返って、部屋の端から職員室全体に目を向けたとき。
私の目に映った職員室は、今朝までとはまるで違った教室のように見えた。
あんな場所にあんな物が置いてあったんだ、とか。
職員室の中ってこんなに明るかったんだ、とか。
そして……授業中だから部屋の中には数人の先生たちしかいないけれど。
先生たちの表情は一様に穏やかで、きっとみんなノビノビと仕事をしているんだろうな、なんて。
そんな感慨を抱けたのも、この学校ではずっと俯いて過ごしてきた私の視線が上を向くようになって、視野が広がったからなのだろう。
自分の現金さが情けなくもおかしくて、まったくもってチョロい自分のことを自嘲するように笑ってしまいながら。
私はこれからの日々を、この軽くなった心をお供にして。
きっとようやく本当の意味で、この百合花女学園の人たちと一緒に過ごすことのできる生活が始まるんだなんて、そんな調子の良いことを思ったりしながら。
この場所で『先生』としての仕事をするために、明るくなった気分で自分のデスクに向かったのだった。
◇◇◇
終礼のチャイムが鳴ったので、この学園での生徒たちの一日も終わったようだった。
帰りのホームルームが終わったわけなので、きっともう少しすれば、学校の中は女の子たちが響かせる賑やかな喧騒に包まれることだろう。
クラス担任を受け持っている先生たちもボチボチ職員室に帰ってくるから、きっと大鰐先生も例に漏れず、じきに姿を見せるはずだし。
五限と六限の間の休み時間には、まとまった時間も取れずにちゃんとお話しすることが出来なかったので。
慰めてもらったお礼や、心配をかけてしまったお詫びをあらためて伝えなければと。
そんな風に心の中で身構えながら、職員室のドアを注視していると……。
「はぁ……はぁ……い、いた」
私が思い浮かべていた待ち人ではなかったけれど、それでも私のことを訪ねてきてくれたお客さんが現れて。
ホームルームが終わってから、亥の一番に走って私を見つけようと頑張ってくれたのか。
荒く息を弾ませた神さんが、私の元まで駆け寄って来たのだった。
◇◇◇
鷲北先生にも、そしてたぶん保健室で話を聞いた限りでは他の先生方にも、神さんとのあらぬ関係を勘ぐられている可能性があることを知っていたため。
別にやましいことなんてないけれど、なんか気まずさを感じちゃったので。
職員室から場所を移そうと、私は神さんを連れて校舎の中を歩いていた。
……っていうかさっきからずっと、神さんが隣を歩きながらメチャクチャ凝視してくるんだけど。
穴があくほどって表現が誇張じゃないほどの眼力で見つめられて、さすがに気になるどころの騒ぎじゃなかったので。
「あ、あの、神さん? なんか言いたいこととかあるなら……」
「……」
愛想笑いを浮かべながら、視線を合わせて問うてみても神さんダンマリだし……。
まぁきっとお昼休みのアレコレもあって。
何かしらの意図を含めて私のことを気遣ってくれた上で、こんなにも見つめているのだろうけれど。
それでもやっぱり、神さんのこの視線に込められてる感情がさ?
心配なのか不満なのか、はたまた別に訴えたいことでもあるのかがわかんないし、何か言葉での反応が欲しいのですが……。
そんな妙な居心地の悪さなんかを感じながら。
神さんと一緒に校舎の中から抜け出して、学校の中庭を目指して歩いていたそんなとき。
「ちょっといいですか!」
背後から強めの語調で声をかけられて、なんだなんだと振り向いたその先に。
今までほとんど話したことのない女子生徒がひとり、私のことを睨みつけるように強い視線を向けながら。
苛立っている心情をあらわしているみたいに、その場に仁王立ちしていたのだった。
「えっと、たしか……」
「……亥埜さん」
一年生の家庭科の授業で顔を見たことはあったけれど、申し訳なくもパッとは名前が浮かんでこなくて。
思い出そうと一瞬言葉を詰まらせた私の声を引き継ぐように、神さんが答え合わせでその名を呟いていた。
あっ、そうそう亥埜さんだ。たしか神さんと同じクラスの子だったはず。
その亥埜さんが、どう好意的に捉えようとも穏やかではない眼差しを私に向けていて。
「神さんのこと泣かせたの、やっぱりアナタなんですか?」
さらには『友好的な交流なんぞ願い下げだ』と言わんばかりに。
私のことを責めるための、そんな言葉を突きつけて来たのだった。
「あっ、うん……私のせいで泣かせちゃったのは間違いないけど……」
亥埜さんの問いには、どうあってもイエスと答えることしかできなくて。
だって実際にお昼休みの保健室で、私の過去を話したことが原因で神さんをギャン泣きさせちゃったわけだし。
保健室でみんなに慰めてもらったおかげで精神的なゆとりができたのか。
その効果がこんなにも早くに確かめられるというのも何だけど、亥埜さんに温度熱めの態度を向けられても取り乱すことなく。
だけど神さんを泣かせちゃったことへの申し訳なさは改めて感じたから、ちょっと後ろめたさを映したような答えをタドタドとお返ししたところ。
「やっぱり! そもそも神さんとどういう関係なんですか!? 最近いっつも神さんのこと独占して!」
さっきの敵視していたような態度もまだ抑えていた方だったらしく。
さらに油を注いだように、亥埜さんが強めに言葉を向けて来たのだけど……。
「亥埜さん!」
私が言い訳めいた情けない言葉を返すよりも、亥埜さんがさらに私を責め立てる言葉を向けるよりも前に。
こんな声量を出しているところを見るのは初めてってほどに、神さんがビックリするくらいの大声を出しながら。
私のことを庇うように、私と亥埜さんの間に差し入ってくれたのだった。
「小蟹先生は良い先生だよ! だから、えっと……うん! とにかく良い先生なんだからね!」
力強くそう言い切った後、私の様子を窺うように神さんがチラチラと振り返って視線を向けて来たので。
亥埜さんの糾弾から庇ってもらって、さらにはお昼に大層情けない姿を披露した上で慰めてもらっておいて、本当に申し訳ないんだけれども。
あまりの不器用さというか……もうオブラートに包まず言うなら、あまりのフォローの下手さに笑いそうになっちゃって。
笑いをこぼすのをなんとか我慢するのが大変だった。
たぶん神さんは、お昼に私が吐露した『悪い先生』や『良い先生』って言葉を気にして。
とにかく私がまた落ち込んだり傷付いたりしないように、必死でフォローしてくれたんだろう。
だから笑ってしまうのも本当に失礼だし。
そのとびきりの優しさだけを受け取って、感謝するために努めなければと思う気持ちはあるんだけども。
今も目の前で亥埜さんに向けて、私が『良い先生』であることを不器用にプレゼンしようとしている姿が、あまりにも愛らしくて。
お昼休みにショボンとしながら、コアラの赤ちゃんのように大鰐先生に運ばれていく姿なんかも思い出しちゃったこともあって。
きっと私のことを怒りたくて、それでここまでやってきた亥埜さんには悪いのだけれど。
神さんのおかげで私の肩からは力が抜けてしまって、どこか和やかな心地で目の前の二人のやりとりを眺めてしまっていた。
「なんでその人のこと庇うの!? 私は神さんのことを心配して言ってるのに!」
「だ、だって小蟹先生は良い先生だもん! さっきみたいに責めるような酷いこと、もう言わないで!」
二人の言い合っている様子……というより、神さんに向かってアレコレと言葉を重ねている亥埜さんの様子とか。
そしてさっきの亥埜さんの発言を思い返してみて、私の中ではある可能性が浮かび上がって来たのだけども。
どうやらこの亥埜さんという子、もしかして……。
「んもう! なんでわかってくれないの! そもそもその人、神さんとどういう関係なのよ!?」
そんな私の予想の裏付けとも思えるようなことを、亥埜さんご本人が見事にも口にしてくれて。
私と神さんの関係を気にするのとか、まさにそういうことじゃんねと。
亥埜さんが神さんに向けている感情の正体を察して、微笑ましさを感じ始めていた目の前で……。
「か、関係って……えっと、うんと……そう! 小蟹先生は、私の大切な人だよ!」
「えっ?」
その返しはどうあっても誤解を招くやろという言葉が神さんの口から飛び出して来たので。
若い女の子同士の可愛らしいやり取りに、『あらあら、ウフフ』とか思っている場合じゃなくなっちゃったんだけど。
「もういいでしょ! 小蟹先生、行こ!」
神さんは自分のした発言の意味も、テンパってしまって今はまだよく理解できてはいないのか。
ドデカ勘違い発言を訂正しようともせず、私の手を取ってその場から離れようと引っ張って来たのだった。
手を引っ張られて引きずられるままに足を動かしつつも、後ろ髪を引かれるような気持ちを抱きながら。
それでも亥埜さんが可哀想だし、変な誤解は解いておこうと振り返った視線の先で。
「うぅ、なんで……ちくしょう!」
あっ、すごい……。
あんな一昔前のマンガみたいに、地べたに四つん這いになって悔しがってる人はじめて見たんだけど。
地面をダンダンと拳で叩きだしたりと、そんなコテコテの光景に虚を突かれてしまった私は。
拍手を送りたいほどに見事なエモートを披露してくれている亥埜さんに感心してしまっているうちに。
神さんに引っ張られて、その場を後にしたのだった。
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