第二一四話 蟹とペチュニア
◇◇◇
去っていく神さんたちを見送った後、保健室には私と鷲北先生だけが残されて。
体調を崩しているわけでもなく気持ちの悪さも回復していたから、お礼を伝えて私も保健室から出て行こうとしたのだけども。
「もしよかったら、少しだけお話ししていかない?」
鷲北先生からそんなお誘いを受けたので、職員室に戻るのは先延ばしにして、私は少しの間その場に留まることになった。
場所をベットからテーブルに移し、鷲北先生の用意してくれたコーヒーを受け取って。
私と鷲北先生の初めての会話の場が、私にとってはあまり馴染みのない保健室にて設けられることになったのだった。
「このあと授業ないなら、今日は早退しちゃってもいいんじゃないかと思うけど……」
「いえ、もう大丈夫ですので。ご心配をおかけして申し訳ないです」
「そう? 無理はしないでね」
「はい。ありがとうございます」
私の心身を慮ってくれる優しさとか、容姿だってとても綺麗なわけだし、鷲北先生はこの学校の生徒たちから人気があるんだろうなと思った。
私が学生のときも保健教諭やカウンセラーの先生は、馴染みのある他の先生たちと違って、なんかミステリアスな印象があって魅力的だったし。
きっと鷲北先生のことを慕っている子も多いんだろうな。
「ごめんね。実はさっき、私も小蟹先生のお話しを聞いちゃってたんだけど……」
「ですよね……すいません。情けない話を聞かせてしまって」
「ううん! 情けないなんて思ってない。小蟹先生が精一杯がんばったことを、そんな風に思ったりしないわ」
神さんや烏星さん、大鰐先生もさっき否定してくれた私の過去の出来事だけど。
たとえみんなのおかげで、過去の自分を否定する気持ちが少なからず払拭されたとしても、それでも卑下してしまう弱さまでが消えてなくなったわけじゃないらしく。
まだ懲りずに、つい謝ったり『情けない』なんて言葉にしてしまったけれど。
「それに私も小蟹先生が悪い先生だなんて思わなかった。これは慰めるためとかじゃなく、本当にそう思ったことだから」
「ありがとう、ございます」
この百合花学園は、本当に去年まで勤めていた高校と同じ『学校』という環境なんだろうかって。
そう疑ってしまうほどに、この学校で出会う人はみんな優しくて温かい人ばかりなのだと心の底からそう思った。
お礼の言葉は鷲北先生の目を見て、ちゃんと伝えられたらよかったのだけど。
私は込み上げる感情を抑えるために唇をキュッと噛み締めた後で。
手に持ったカップの中で揺れるコーヒーの水面を見つめながら、掠れた声でお礼を伝えることしかできなかった。
「……きっと大丈夫だと思うわよ」
少しの間、感情の波が去るまで堪えている私が落ち着くのを待ってくれてから、鷲北先生は『大丈夫』とそう言った。
視線を上げた先でフワリと柔らかく微笑んだ鷲北先生は、私をしっかりと見つめながら……。
「だって……ウチの自慢の生徒が二人も、小蟹先生は『悪い先生なんかじゃない』って言ってるんだもの」
力強くそう言って、私の背中を押してくれたのだった。
◇◇◇
鷲北先生の伝えてくれた言葉で飽きずにも涙をこぼした私を、ヨシヨシと慰めてくれながら。
「でも、あの大鰐先生が教育係かぁ……時間って本当にあっという間に経っていくものよね」
溢れ出る母性で私の心を癒してくれたあと。
鷲北先生はなにやら感慨深そうに、そんなことを呟いていた。
「私ね? ねーこちゃん……あっ、えっと猫西先生と仲が良いんだけどね」
「猫西先生……はい」
最初にアダ名で呼んでいたことから、二人はたぶん友だち同士のように仲良くしているんだろう。
まだあまり関わりのない猫西先生の名前が出てきて、私は続く言葉を聞くためにジッと鷲北先生を見つめた。
「大鰐先生が着任したとき、猫西先生が教育係をしていたのよ。今の小蟹先生たちみたいにね」
これまでに大鰐先生とは仕事の話しかしてこなかったし、そんな過去のアレコレももちろん初耳で。
私は頭の中で、大鰐先生と猫西先生をふたり並べるなんて想像を初めて試みたわけだけど。
そんな想像のふたりがどんなコミュニケーションを取っているのかまでは、あんまり思い浮かばなかった。
それも多分……私が大鰐先生や猫西先生に積極的に関わって行こうとしてこなかったせいで。
二人の仕事をしている姿以外の人となりを、まだ全然知らないせいなのだろう。
「それでよく、猫西先生が話す大鰐先生の様子をコッソリ聞いたりしててね。たしかにちょっと大雑把なところはあるけど、でも……」
そこまで口にしたあと、何かに気づいたように言葉を切った鷲北先生が。
私の勘違いじゃなければ、まるで言葉のバトンを渡すように小さく微笑んで私を見つめたから……。
「でも……大鰐先生は良い先生です」
私は迷いなく、その思いを口にした。
これは嘘偽りなく、忖度とかじゃなく、『教育係だから』って理由で言ったおべっかでもない。
だから素直で純粋な気持ちで、自信を持って言い切ることができた。
「うん。猫西先生も同じことを言ってた」
私の言葉はきっと、鷲北先生が望んでいたものと一致していたんだろう。
嬉しそうに、でもどこかおかしそうな様子で。
大人っぽい鷲北先生の新たな一面を見せてくれるみたいに、まるで無邪気な子どものようにも感じさせる笑顔を浮かべていた。
「小蟹先生から見た大鰐先生って、どんな人なのか教えて欲しいな」
ともすれば、そんな無邪気さをまだ纏いながら、鷲北先生がそんな質問を向けてきたので。
私は少し目を閉じて、私がこれまでに見てきた大鰐先生の姿を思い出した。
「大鰐先生は……どんなに忙しそうに仕事をしてても、仕事を片付けるために手を動かしてても……生徒が自分の元を訪れたら絶対に手を止めて、生徒の話をしっかり聞いてあげてました」
『学校』や『職員室』に対して良い思い出がなくて。
さらに『教育係』という存在には、去年にいた学校での苦い記憶から、どうしても苦手意識を持ってしまっていて。
だから、この学校に着任してから今日まで。
職員室では大鰐先生の様子を、ついつい何度も窺ってしまっていたのだけれど。
そんな時間の中で見てきた大鰐先生は……。
「大鰐先生とおしゃべりしている子たちもとても楽しそうで……何人もの生徒が大鰐先生の元を訪れていて」
まだひと月も経っていない短い時間で、職員室を訪れた子たちと大鰐先生が話している姿を何度も見かけた。
その光景の中では、いつも和やかな雰囲気で大鰐先生たちは言葉を交わしていて。
生徒たちと、まるで友だちや姉妹のように楽しげに会話をしているその姿は……。
「そんな姿はまるで、私が目指していた『良い先生』そのもので」
いま私がこぼした言葉がすべてだった。
だからこそ大鰐先生の働く姿に惹きつけられて、何度もその光景に目を向けてしまっていた。
暗く沈んだ私の鬱屈した心の中でも、大鰐先生と生徒たちの関わりはキラキラと眩しく見えて。
「だから……とても尊敬しています」
眩しくて、どうあっても憧れてしまうような……そんなひとりの『良い先生』に向けて。
自分の中で初めてハッキリとしたカタチとして、『尊敬』という言葉で大鰐先生をかたどったのだった。
「そっか。うん、よかった」
そう言って頷いた鷲北先生の表情は、どこか安心したように微笑んでいるようにも見えた。
もしかしたら、私と大鰐先生の関係を心配してくれていたのかもしれなくて。
このおしゃべりが始まったときに抱いた通りに……いや、きっとそれ以上に鷲北先生は優しい人なんだなって。
自然と浮かんだ笑顔を鷲北先生に向けながら、私はそう心の中でそんなことを思ったのだった。
◇◇◇
鷲北先生のおかげで、心の中で揺蕩う感情の波間はより一層に穏やかになって。
名残惜しいけれど、そろそろ職員室に戻って仕事をしようと、鷲北先生にお礼を伝えてお暇しようかなと思ったところで。
「まぁでも、なにかあったら何でも話してくれて良いからね? 教育係の大鰐先生には相談しにくいこととか、吐き出しづらい愚痴とかもあるかもしれないし」
私が職員室に戻ろうと思い始めたことを感じ取ったのか。
鷲北先生も会話の結びを告げるように、そんな気遣いの言葉を伝えてくれた。
「あはは……でも鷲北先生やさしいですし、ついついたくさん甘えちゃいそうですね」
「遠慮しないで大丈夫だから! 私だれかのお話を聞くの好きだし、いつでも保健室に来てね?」
「はい。ありがとうございます」
「うんうん。吐き出したい気持ちがあるなら聞くし。それ以外でも、ただの雑談とかでも良いからたくさんお話ししようね?」
そんな風に言ってもらえたら本当に言葉通りに受け取って、これからも頻繁に保健室に来ちゃいそうだなと思いつつ。
それでもあんまり甘えすぎて鷲北先生のご迷惑にならないようにもしないとなって、そう自分を戒める気持ちも持ちながら。
私は何度目かになるお礼の言葉を伝えてから、椅子から立ち上がった。
「コーヒーもご馳走様でした。とても美味しかったです」
「それなら良かった」
保健室の端に備え付けられた流しで洗えば良いのかなと思って、テーブルの上のカップを持ち上げると。
鷲北先生も立ち上がって、私の手からカップを受け取るために手を伸ばしながら。
「えっと……それでね? あの、最後に一つだけ聞きたいことがあるんだけど……」
つい数分前までのニコニコと穏やかに微笑んでいた様子からは一変して。
何やら言葉を濁すように、鷲北先生はそんな質問の前置きのような言葉をモゴモゴとこぼしていた。
「聞きたいこと? あっ、カップは自分で洗います。コーヒーを頂いただけじゃなく、そこまでしてもらうのも申し訳ないですし」
「遠慮しないで大丈夫。私のと一緒に洗っちゃうだけだし」
そこまでお世話になるのも悪いとは思ったけれど。
なんか自然な感じで鷲北先生にカップを取り上げられてしまいつつ。
「あのね? 本当になにか他意があるわけじゃなくて、純粋な興味だけでみんな気になっているみたいなんだけどね?」
「はい」
両手にカップを持って流しまで歩いていく鷲北先生の背中に目を向けながら。
質問の本題は一体どういった内容で、そんな言いづらそうにしながらもどんなことを聞かれるのか。
ちょっと不安や緊張を感じながら、続く言葉を待っていた私に向けて……。
「そのね? 小蟹先生と神さんって……ど、どういう関係なのかな?」
「……えっ?」
何やら変な勘違いをされていそうな、そんな鷲北先生の質問が。
内心かなり身構えてしまっていた私に耳に飛び込んできたのだった。
◇◇◇




