第二一一話 蟹とキンセンカ
◇◇◇
去年一年で降り積もった後悔や自分の弱さを、私は止まることなく語り続けた。
トイレで嘔吐したから喉は乾いていて。
それでも構うことなく話していたせいで、話し終えるまで醜く掠れた声を出し続けていた自覚はあるけれど。
そんなことは口を閉じる理由にはならなかったし。
きっと……ずっと懺悔できる機会を、心の底では望んでいたんだろう。
私の話を聞いて、神さんや大鰐先生はどう思ったのだろう。
ひどい先生だと見損なっただろうか。弱い人間だと失望しただろうか。
二人の表情を確かめるのが怖くて、俯いたままの視界の先では……。
私の手を包むように、神さんの小さな手がギュッと握っている。
話し始めたときには添えるように触れられていたその手には、いつからか気づいた時には力が入っていて、私の弱々しい手を握りしめていた。
だけど……小さなその手は私の元を離れて、視界から消えていった。
ずっと感じていた神さんの温かさが去っていき、空しい寒さが震えを連れて、私のもとに再び帰ってきたような錯覚を覚えた。
でも、それも仕方ないのだろう。
『生徒』である神さんは、きっと私という『悪い先生』を軽蔑しただろうから。
忙しさを理由にして、身勝手にも生徒のことを蔑ろにするような、私みたいな先生なんて……。
ズキンと痛んだ心に耐えきれず、私は唇を強く結んで、瞼を固く閉じてしまったのだけど。
そんな私をかかえ寄せるように。
今度は手だけじゃなく、その温かさが私の身体を包み込んで……。
「うわぁぁん!」
大きな泣き声が、私の耳のすぐ隣で響き出した。
驚いて目を開けると、神さんが私の身体を抱きしめていて。
顔は見えないけれど……その声を聞くかぎりでは、神さんはワァワァと泣きながら私にしがみついていた。
いつの日か、シャワーの下で涙を流してた私よりも泣いている。
ギュウっと私に抱きつきながら、ちょっと面食らうくらいの勢いで神さんが泣いていた。
この学校に来てから、神さんはたくさんの時間を私と一緒に過ごしてくれて、ずっと仲良くしてくれていたけれど。
今まで話せなかった後悔を伝えたら、そんな優しい時間を台無しにするような私のことを、神さんは嫌いになってしまってもおかしくないと思っていたから……。
こんな反応が返ってきて、驚きのあまり少しのあいだ、私の思考は止まってしまった。
だってビックリするくらい、神さんワンワン泣いてるし……。
私の背中に回された神さんの手が、ギュッと私の服を掴んで。
もしかしたら泣いている神さんを慰めようとでもしたのか、無意識のうちに、私は神さんの背中にソッと手を添えたのだけど。
私の手の感触に反応したみたいに、神さんはバッと勢いよく私から身体を離して。
すぐ目の前、お互いの顔がちゃんと見えるように、私としっかりと目を合わせて……。
「先生は悪ぐなぃ!」
大粒の涙を流しながら、私に向かってそう言ってくれたのだった。
◇◇◇
神さんの端正な顔を、大粒の涙がとめどなく流れ続けている。
まるで神さんの人生に大きな不幸でもあったかのように、私の話を聞いて、悲しそうに泣き続けていた。
それでも、自分の涙を拭おうともせず……。
「先生はちょっと疲れちゃってただけだもん!」
ひたすらに私のことを庇おうと、目を逸らさずに真正面から言葉をぶつけてくれていた。
結んでいた私の唇に、無意識に力が入って。
それでもその優しい言葉を受け止める資格なんて持っていない私は、神さんの言葉に怯んで視線を逸らしてしまった。
「た、たとえ疲れてたとしても……私が生徒のことを大事にできなかったのは事実で……」
震える声で、そんな情けない言葉だけをなんとか呟いた。
神さんがどれだけ庇おうとしてくれようとも、私がしてしまったことは揺るぎない出来事として、もう過去に刻まれてしまっている。
生徒の相談を、どうせ大したことないと軽んじて。
そればかりか多忙であることを理由に被害者ぶって、心の中でその子へ向けての文句を言っていたくらいである。
表には出さずとも、心の中で批判して嘆いていた周りの先生と同じように、生徒のことよりも自分が大切で。
私の事情を優先するために生徒の気持ちを切り捨てるような……いつのまにか、そんなひどい先生になっていた。
その事実はもうどうあっても、消すことも変えることもできない。
だから、たとえ神さんに優しい言葉をかけてもらったとしても。
その言葉を受け入れて、『しょうがなかったんだ』と納得して良いはずがないと、ちゃんと理解しているのに……。
「今も思い出して苦しんでるくらい、その子のことを引きずってるんでしょ!?」
私が縛られている後悔や自己嫌悪なんかに構うことなく、神さんはひたすらに私に向けて訴え続けている。
私は疲れていただけで悪くないと言ってくれた神さんは、きっと言外に『自分を責めないで』と伝えたいのかもしれない。
それはきっと、神さんの優しさから生まれた、私を気遣うような言葉のはずなのに。
私にとってはひどく重くて、聞いてて苦しくて、息が詰まった。
「だ、だってそれは……私が苦しむべきことをしたから、当たり前で……」
私は当事者で、自分が罪を犯したから許されるべきではないと、そう強く思っている。
だけど神さんはその場にいたわけでもなく、いわば他人事なのだから、私が抱えている罪の意識に理解や共感を寄せることもできないはずだとも思ってしまう。
いま私たちが抱いている気持ちは、それぞれ反対方向を向いているのだし。
私が神さんの言葉を素直に受け入れるのを渋っていて、逆に神さんも、『自分は苦しむべきだ』という私の気持ちを理解できないのも当然のことなんだろう。
だから神さんがいくら私のことを説得したいのだとしても、やっぱり私は……。
「先生の中ではそうかもしれない! 当たり前なのかとかも私にはわかんない……でも!」
その強い言葉とともに、神さんが私の頬に手を添えて、顔をグイと持ち上げて私たちの視線をムリヤリに合わせた。
涙で揺れながらもその奥で、私を見つめる鋭い眼差しが光っている。
『神さんに、私の気持ちはわからない』って。
その思いを理由にして、真正面からぶつけられる神さんの言葉から逃げようとし始めていた私のことを。
無理やりにでも逃げ道をなくして、この子の言葉から逃げることを許さないように私を見つめながら……。
「小蟹先生は、今もずっと……ずっと後悔してるんでしょ!」
私に届けるための言葉を、神さんは必死に紡ぎ続けてくれた。
この子の強い言葉が、弱い私の心をグイグイと突き動かしている。
後悔してる。神さんの言うように、あの日からずっと悔やみ続けている。
それはやっぱり私がひどい大人で、『悪い先生』なせいだから……。
今までに心の中で何度も唱え続けていた、自分を罰するための『悪い先生』という言葉。
ずっと『こうなりたい』と掲げていた理想像とは正反対の、恥じるべき自分の現状。
現在の自分の罪を象徴するような、その言葉を……。
「そんなに生徒のことを思い続けてるのに、『悪い先生』なはずないもん!」
目の前のひとりの『生徒』が、力強く否定したのだった。
「あっ、う……そんな、そんなはずない……私、私なんか……」
私の後悔も自己嫌悪も、私以外には理解できるはずがないって、さっきはそう思っていたはずだった。
神さんがどんな耳触りのいい言葉を口にしても、結局は私の気持ちも苦悩の一端すらも理解できるはずがないって。
……だけど目の前の女の子は、こんなにも泣いている。
私の悩みなんか他人事だと切り捨てて、私なんかのことを思って悲しまなくてもよいはずなのに。
それなのに……神さんはまるで自分のことのように悲しんで、泣いて、励まそうとしてくれている。
「うっ……うぅ……」
神さんが言ったどの言葉にも、もしかしたら私を説得しようという意図はなくて。
まるで子どもの駄々のように感情的で、ただ神さんの気持ちをぶつけてきただけなのかもしれない。
理性的でも、説得でも、対話でもない。
ただ私を庇おうと、思ったことを言ってくれただけなのかもしれない。
……だけど時として、感情的でしかない言葉は、理性的な説得よりも心を打つこともあって。
ひとりの『生徒』から、私は『悪い先生』じゃないって、そう言ってもらえたこと。
それが少なからずの救いとなったのか。
ずっと庇うようなことを言ってくれていた中で、何よりも私の心に染み渡って……。
「うっ……うあぁぁぁ!」
さっき私に抱きつきながら泣いていた神さんのように。
私は神さんの身体を抱きしめながら、大きな声を出して泣いてしまったのだった。
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