第二一〇話 蟹とヤナギ
◇◇◇
冷たい風が吹き始める時期になり、季節は冬へと移ろいでいった。
新学期や新年度の準備、進級や受験などの進路に関わる対応など。
ひとつの仕事が終わっても、次から次へとあらたな仕事が私の元に降り積もっていった。
教育係の先輩の中では、私はもう悲劇のヒロイン面をしている気に入らない後輩として、揺るがない印象が植えついてしまっていたのだろう。
まるで嫌がらせのようにいくつもの雑用を任されて。
そんな仕事の中には、先輩の同僚の先生が担当していたはずの作業さえも含まれるようになった。
私を庇うように教育係の先輩を非難していた男性教師たちも、私の仕事を引き受けるまでのお世話はするつもりがなかったらしい。
新卒一年目の立場では、私の方から仕事のフォローをお願いするのも及び腰になってしまって。
フォローのお願いを申し出るための億劫さよりは、たとえ自分の時間を費やしてでも、自ら仕事を片付けてしまう方がまだ気楽だったし。
心労やストレスが増すことを厭うて、結局ほとんどの雑用は私ひとりで頑張って済ませていった。
遅い時間まで学校で仕事を進めて、家に帰ったらシャワーを浴びて、すぐにベットに寝転がるだけの日々が続いた。
貴重な休みの日にも外出をする気力も出せず、ベットの上でダラダラし続けて。
『あと何時間で出勤しなきゃいけない』というネガティブなカウントダウンに心を重くしているだけで、プライベートな時間は無駄に過ぎていった。
シャワーばかりでお風呂に入るのも億劫だったし。
嫌いな家事ではなかったはずの料理は面倒に感じるようになり、趣味だった菓子作りは時間を費やす候補にすら挙がらなくなっていた。
お母さんからの連絡すらも鬱陶しく感じて、通知が来てもしばらく放置することが多くなった。
疲れて、疲れて、疲れ続けながら。
それでも私は教師であり続けたのだった。
◇◇◇
私が初めて着任した学校で教師になってから。
日々を重ねていくにつれて、声をかけてくれる生徒も、生徒たちと会話する機会も少しずつ増えていった。
私の授業が終わったタイミングや、廊下で偶然すれ違ったとき。
どのクラスも家庭科目は週に一度きりなこともあり、さらには中間テストでは試験科目から外れていることもあるためか。私と生徒の会話に授業内容の質問が挙がることはあまりなく、その大半の話題は世間話のような内容だった。
話しかけてくる生徒の多くが女子生徒で、流行りの話や友達にまつわる他愛もない雑談、そしてときどき恋愛の話を交わすこともあって。
そのような交流を築いていた生徒の中でも特に頻繁に、私を見つけるたびに声をかけてくれる女の子がいた。
その子は明るく人懐っこい性格で、私のことも、まるで姉妹や友達のように慕ってくれているようにも感じた。
ずっと交わし続けたおしゃべりも、大半は彼女が話したいことを聞いてることがほとんどだったけれど。
生徒から慕われていることは嬉しかったし。
それに他の先生たちの、この学校での立ち居振る舞いを思うと。
生徒が話しかけてくれる機会を大事にしたいと、秋頃まではそんな思いを抱いていたはずだった。
だけどそんなことを考えなくなっていたのは、いつからだったんだろう……。
授業が終われば一刻も早く職員室に戻って、片付けなきゃいけない仕事に着手したいと思うようになって。
生徒に声をかけられることに、ポジティブな感情を抱かなくなっていった。
それでも、生徒に声をかけられた時に会話に応じていた間は……。
私はまだギリギリ、『良い先生』という理想にしがみついていれたのだろう。
◇◇◇
日々の業務の疲れが溜まっていたのか。
あるいは、もうずっと寝つきが悪くて睡眠時間が少なかったせいなのか。
三学期が始まって数日経った、ある冬の寒さが堪える日に、私は寝坊してしまった。
不幸中の幸いというべきか、仕事に遅刻するような致命的な起床時間ではなかったけれど。
毎日のように早い時間に出勤して、朝の職員会議までの時間も使って仕事を少しでも片付ける生活を送っていた私にとっては、それは十分に焦ってしまうような出来事だった。
身支度と呼ぶにはお粗末すぎるような支度を済ませて。
少しでも早く学校に到着できるように、家を飛び出て最寄駅まで走り出した。
ひどく寒い日であるはずなのに汗だくになりながら、いつも乗っているものより何本も後の電車に駆け込んで。
起きた瞬間からずっと胸の中で燻っている焦燥感を抱えたままで、ようやく学校までたどり着いたとき。
最近は出勤時に見ることがなくなっていた、部活の朝練のために早めに登校してきている生徒たちの姿を見て。
目に映った昨日とは異なる光景が、私の中の焦燥感や自己嫌悪にあらためて火をつけた。
荒く乱れた呼吸を整えながら、早足で校舎に向かって歩いていると。
「あっ! 小蟹先生!」
自分の名を呼ぶその声が耳に入ってきて、私は無意識のうちに眉を顰めていた。
聞こえなかったことにして、無視してしまおうかと考えて。
私は振り返ることなく、前に進めていた足を止めずに歩き続けたのに……。
「小蟹先生! おはよ!」
私を呼んだその子はわざわざ走り寄ってきて。
肩をトントンと叩いてきたせいで、最低限には応じざるを得ない状況になってしまった。
声の主を確認するために首だけで振り返ると、私がこの学校で会話する機会が最も多いその子が、笑顔をこちらに向けている。
最初に声を聞いたときに誰から話しかけられたかはなんとなく察していたけれど。
案の定、私の予想は外れてはおらず。
昨日もたくさんの仕事で忙しかった合間に話をしてあげたはずなのに……今日も飽きずにその子は話しかけてきたのだ。
私が内心抱いている感情にも気づいていない様子で、何が楽しいのか、その子はニコニコと笑っている。
「あぁ、おはよう……」
億劫さや元気のなさを隠せるような心の余裕もなく、そっけない挨拶だけを返した。
そういえば、この子テニス部だったっけ。
部活の朝練に参加するために登校してきた時間と、運が悪いことにかち合ってしまったのか。
「あのね、けっこう真面目な話で、先生に聞いてほしいことが……」
「ごめん。いま、忙しいから」
その子の発言を遮って、私は要件だけを伝えて再び歩き出した。
もう一度話しかけてこないように振り返ることもなく。
まるでその子から逃げ出すように、さっきまでよりも忙しなく足を動かした。
「あっ……」
耳に最後に入ったその寂しそうな声にも、申し訳なさを感じることさえなくて。
むしろ、少しのイライラとした怒りすらも胸にわいていた。
別に今じゃなくていいじゃない。
ただでさえ焦っているこんな時に、わざわざ話しかけてくるとか勘弁してほしい。
どうせ、いつもみたいに他愛もない雑談だろうに。
今日はまず、押し付けられている小テストの印刷とか準備をしなくちゃいけない。
他にも、前に言いつけられた倉庫の片付けも進めなきゃ。
あぁでも私一人では運び出せない備品もあって。
流石にもう片付けも先延ばしにはできないから、こればかりは誰かに手伝いをお願いしなきゃいけなくて億劫だし。
そういえば三年生の担任をしている先生から、進路用紙の清書とファイリングまで任されていたっけ。
なんでそんな仕事まで私に投げてくるのよ……。
職員室に急いで向かいながら。
頭の片隅に残り続けるあの子の声や表情を隠そうとでもするように、見ないふりができるように。
いくつものタスクを山積みに重ねていって、あの子への心残りを隠していったのだった。
◇◇◇
朝にトラブルがあったその日の夜、いつもと同じ遅い時間にマンションの自室まで戻ってきた。
一日の疲れでボーッとした頭を少しでもリフレッシュしようと、荷物を適当に放り投げてからすぐに浴室に向かって。
シャワーのハンドルを捻ってお湯が出るのを待っていると、私の身体はカタカタと震え出した。
冬の浴室は酷く寒かったけれど、この震えは寒さによるものだけではなくて……。
頭から熱いお湯をかぶりながら目を閉じると、瞼の裏には朝に見たあの子の笑顔がありありと映り浮かんだ。
今日の仕事中には、あえて目まぐるしい仕事に集中するふりをしながら、必死に考えないようにしていたけれど。
家に帰ってきて、そんな姑息な逃げ方ができなくなって。
そして私はどうあっても……そのことを直視せざるを得なくなった。
頬を流れる雫に、シャワーヘッドから噴き出したお湯以外に私の涙が混じりはじめて。
そのまましゃがみ込んで、私は大きく声を上げて泣き出した。
今日の朝、あの子が話しかけてくれたとき。
私は何を考えて、何を思った?
自分の忙しさにかまけて、そんな身勝手さを言い訳にしてどんな振る舞いをした?
そんなの、軽蔑していたはずの他の先生たちと何ら変わらないし。
あんなに『自分だけは違う』とか思っていたくせに……結局は同じだったじゃない!
あれほど願っていた理想の先生としてのあるべき姿なんて、今はもう考えようとしても、ハッキリと思い浮かばないけれど。
それでも、どう考えても……。
今の自分が、私が思い描いていた『良い先生』であるとは思えなくて。
むしろ、内心で軽蔑していたはずの周りの先生たちのように、そんな理想とは程遠い位置にいるとしか思えなくて。
そんな現実、そんな自分の弱さを自覚してしまったせいか。
私はシャワーに打たれて項垂れたまま、とめどなく涙を流し続けることしかできなかった。
それにあの子は、『真面目な話』があると言っていたはずなのに……。
だけど私は勝手に、あの子の思いを自分に都合よく軽視して切り捨てた。
もしも進路のことや家のこと、あるいはイジメとかの切実な相談だったら?
私のことを信頼して、実は縋るような思いを抱えていたとしたら?
絶え間なく噴き出る後悔や不安を押さえつけることもこともできないまま……。
ずっとずっと長い時間、私はシャワーの下で涙を流し続けたのだった。
◇◇◇
涙も枯れたころになり、ようやく私は浴室を出て部屋に戻った。
ろくに髪も乾かさないまま、家事をするとかスマホをいじるとか、なにか他のことをする気力もなくて。
私はベットに横になり、毛布にくるまった。
ひどく疲れているはずなのに、少しも眠気を感じない。
ひたすらの後悔、自分への失望。悲しさや虚しさ。
ネガティヴな感情は私の心にまとわりついて、夢の中に逃げることさえも許してくれないようだった。
だけど、たとえ寝れたとしても……。
明日も、来週も、来月も。
来年も、その次の年も、その先もずっと。
今の場所で働き続けるなんて未来があまりにも恐ろし過ぎて、その想像にゾッとした。
私の目の前にある現実も、未来も、すべてがおそろしい。
つらくて、苦しくて、悲しさしか感じなかった。
だから……。
次の日の朝、出勤してすぐに辞めることを告げて、今年度いっぱいでの私の退職が決まった。
年度の終わり、あと数ヶ月だけで良いと思えば、まだほんの少しだけは頑張れるような気がして。
最後の日までの時間を心の中で指折り数えながら。
カラカラになった心をすり減らして、目に映るようになったゴールまでの日々を耐え続けた。
そして、ようやくその日を迎えることはできたのだけど……。
退職するその日まで、私はあの子へ謝ることなく、会話の一つも交わそうとはしなかった。
たぶん、罵倒されるのが怖かったから。
『お前は良くない先生だ』と、そう言われることが恐ろしかったから。
だから私は、手のひらからこぼれ落ちたボロボロの『責任感』と『理想像』を捨て置いたまま。
『学校』と、『先生』という仕事から……逃げ出したのだった。
◇◇◇




