第二〇八話 蟹とラベンダー
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烏星さんには、本当に申し訳ないことをしてしまった。
後悔や罪悪感による軽いフラッシュバックに私が勝手に襲われただけで、彼女は何にも悪くない。
それなのに私が目の前で突然取り乱してしまったせいで、きっと烏星さんには気を病ませてしまっただろう。
お手洗いで胃の中のものをいくらか吐き出して、そのまま大鰐先生や神さんに付き添われて保健室に移動してから。
そんな申し訳なさを抱くことができるほどには、ようやく私は落ち着きを取り戻すことができていた。
「午後は授業なかったよね? もう少し休んでいく?」
「はい……すいません」
「気にしないで。なにかあったら呼んでね」
養護教諭の鷲北先生は私の返事を聞いて、一度頷いてから気遣うような言葉を残したあと。
ベット周りのカーテンを広げて、私たちの元から離れていった。
「先生、大丈夫?」
「うん……ごめんね、心配かけちゃって」
保健室のベットに座っている私を、神さんや大鰐先生が不安げな表情を浮かべて見つめている。
神さんたちにも心配をかけてしまった。
私が取り乱してから、ずっと寄り添って気を遣ってくれていた神さんも。
私たちの元に駆けつけて、保健室までフラつく私を支えてくれた大鰐先生も。
ただでさえこの学校に来てから、二人にはずっとお世話になりっぱなしなのに……。
やっぱり私は、『教師』としてふさわしくなくて。
それなのにもう一度だけ頑張ってみようだなんて、そんなことを思ってしまったから。
そのせいで結果として、こんな風に迷惑をかけることになってしまったことが……とても申し訳なかった。
「あの、大鰐先生……」
私がフラッシュバックに襲われた原因は、もうすでに理解できている。
学校の廊下で生徒から『相談』されたことが、私がずっと後悔していたあの日の記憶とダブったから。
それはつまり、今日みたいなことがこれから何度も起きてしまう可能性があるわけで……。
「たくさんお世話になったのに……申し訳ございません。私やっぱり、辞めた方がいいと思うんです……」
「えっ?」
私の言葉を聞いた大鰐先生や神さんが驚いていたけれど、それも当然のことだろう。
だって、まだ赴任してきてからひと月も経っていないのだから。
「なんで、そんな……」
大鰐先生がこぼした小さな呟きに、より一層の申し訳なさを感じながら。
それでも私は躊躇うことなく、自分の決意を伝えるべきなのだろうと思ったから……。
「本当は私……きっと教師を続けていいような人間じゃないんです」
絞り出すように、そんな言葉を口から吐き出した。
こんな懺悔のような言葉を急に聞かされても、きっと大鰐先生の戸惑いは増すばかりだろうし。
それに今はまだ、驚きが勝っていたとしても。
こんな身勝手なことを急に言い始めた私のことを、大鰐先生や神さんが軽蔑しはじめてもおかしくないだろう。
そんな予想に胸が痛んだけれど。
だけど、たとえ軽蔑されてしまったとしても……。
これからも今日みたいな迷惑をかけてしまうことの方が、今は何よりも恐ろしかった。
「それは、どういう意味なの?」
大鰐先生のその当然の質問に、私は過去の自分の後悔を告白するべきか悩んで、なかなか口を開くことができなかった。
伏せた視線の先で、絡めている私の両手の指先が、弱々しく震えている。
ずっとずっと悔やみ続けていて、消すことのできない記憶として今も私の心に影を落としている出来事。
お世話になった大鰐先生には、教師を辞めるべきと語ったその理由を説明した方が良いのだろうけれど。
それを吐露するのなら、私が囚われている後悔にもう一度向き合う必要があって……。
「えっと、あの……」
説明すべきだと理解はできているけれど。
それでもその勇気を出すことができない私は、やっぱりとても弱くて、臆病で……情けない人間なんだろう。
絞められたように喉から声が出せない。
去年のことを思い出そうとするだけで、指の震えが大きくなっていく。
ヒヤリと冷たく、カタカタと震える指先を……小さな手が包み込んだ。
頼りない私の指先をまるで温めるように、震えを止めようとしてくれているように握ってくれた手の先を目で追うと。
ひとりの女の子がまっすぐに、私のことを見つめていた。
「神さん……」
神さんは何も言わずに、心の底から私を心配してくれているような瞳を向けながら、ギュッと辛そうに唇を噛み締めている。
お母さんがいつも言っていた通り、この子はとても優しい子なんだろう。
授業の合間の休み時間に、何度も何度も私の様子を窺いに来たり。
お昼休みに私を一人きりにしないようにと一緒に過ごしてくれて、そのたびに私の顔色を窺ってくれたり。
お世辞にも『さりげなく』とは表現できない方法ではあったし、もしかしたら私のお母さんから何かを頼まれたからなのかもしれないけれど。
それでも……私がこの学校に来てからずっと、私のことを心配してくれていた。
そんな純粋で、不器用で、でもとても優しい一人の『生徒』の前で。
まるで騙し続けるように、『良い先生』であろうとしていたこととか。
過去の失敗を見ないフリして、これからも『良い先生』あろうとすることが、さすがに我慢できなかったからかな……。
「……お世話になった二人には、ちゃんとお話しします。教師としてふさわしくない、私のこと……」
その言葉を皮切りにして。
私はまるで懺悔のような話を、神さんたちに向けて吐露しはじめたのだった。
◇◇◇
大学在学中に教員免許を取得して、私は幸運にも家庭科担当の常勤職員として、とある高校で採用されることになった。
生徒数がとても多い大きな高校で、そもそもの職員数が多かったことが影響していたり。
もしかしたら、たまたま欠員の枠に入れたりしたからなんだと思うけれど、ひとまず安定した職に就くことができた。
昔から『生徒のために頑張れる先生』になりたいと思い続けていて。
夢を叶えるための第一歩目を踏み出すことができたと、当時の私はとても喜んでいたような気がする。
不安な気持ちや、理想の教師として働く未来の理想像を胸の内に抱えながら、大学を無事に卒業して。
小学生の時に作文で書いて発表したこともある『将来の夢』を叶えて、新任の教師として着任する日がやってきた。
職員室は広く、そこで働いていた教師の人たちも、やっぱりとてもたくさんいて。
私が着任した日から、皆がみな、とても忙しそうに働いていたのをよく覚えている。
着任後、女性の先輩が私の教育係についてくれたのだけど、例に漏れずこの先輩も常に忙しそうだった。
まったくの新しい環境に身を置くことになり、右も左もわからない状況ではあったけれど。
これから長く過ごすことになる環境に早く馴染めればいいなとか、当時の私は思っていたのかもしれない。
そして、なによりも……。
積極的に仕事を覚えて、すこしでもこの学校の生徒の役に立てるように。
ほんの一つずつでも、生徒の成長に貢献できるような教師になれるように。
理想として思い描き続けた『良い先生』を目指して、とにかく頑張ろうって。
当時にそんな志を心の中で掲げていたことは、『たぶん』でも『かもしれない』でもなく、今でもしっかり覚えていて……。
私の教師としての新たな人生は、そんな不安や期待を抱きながら始まったのだった。
◇◇◇




