第一七六話 母とけじめ
◇◇◇
曲名も知らないクラシックが穏やかに流れるカフェの一席。
和やかな店内の雰囲気のなかでは浮いてしまうような、真剣な顔を浮かべた私は……。
「ねぇ、亥埜ちゃん。うちの子と同じ高校に入学したのは、偶然? それとも……偶然ではないのかな?」
ずっと聞きたかったその質問を、娘の大切な友人に向けて投げかけた。
突然の私の表情の移り変わり。そしてなによりも、向けられた質問の内容に戸惑ったのか。
亥埜ちゃんは時が止まったかのように、数瞬のあいだ固まっていた。
「お願いだから、嘘とかつかず正直に答えてくれるかな」
いくつも歳の離れた女の子に、まるで追い討ちをかけるように言葉を重ねるのも大人気ないのかもしれないけれど。
それを厭わないほどには、私は切実に本当の答えを求めていたのだからしょうがない。
じっと目を逸らさずに、亥埜ちゃんの瞳を見つめる続けていると……。
「わ、私は……神さんが入学すると知ったから、百合花女学園を選びました……」
その圧に負けて私から目線を外した亥埜ちゃんが、まるで観念したように小さく答えをこぼした。
やっぱり、そうなんだ……。
残念なことに私の危惧していた予想は的中してしまっているようだった。
私の質問を否定してくれて、本当にたまたまウチの子と同じ学校に入学したのであればと、心の隅では切実にそう願っていたけれど。
現実は厳しくて、そしてどうしようもなく非情だった。
でも真実を知ったからといって、ずっと打ちひしがられているわけにもいかない。
私はひとりの母親として、目の前の少女に伝えないといけないことがあるから……。
「本当に……ごめんなさい」
心からのお詫びの気持ちを口にしながら、私は深く頭を下げた。
私は大人で、亥埜ちゃんはまだ子どもといってもおかしくないような年齢で。
だけどそんな歳の差なんて関係なく、私は心の底から出来うる限り真摯な気持ちを込めて謝罪した。
「えっ? あ、あの……?」
下げた頭のすぐ先で、亥埜ちゃんの困惑したような声が聞こえてきて。
私はそこでようやく頭を上げて、あらためて目の前の少女と向き合ったのだった。
◇◇◇
戸惑っているように眉根を下げている亥埜ちゃんを見つめながら。
私はどうすれば私たち親子が払うべき責任を払い、この少女に償うことができるかと考えていた。
「あの、なんで神さんのお母さまが私に謝るんですか?」
「それは……私たち親子が、あなたの将来や未来を奪っちゃったから」
「未来を、奪う……?」
さっき答えてくれたように、亥埜ちゃんはウチの子が入学するから百合花女学園に進路を決めたという。
なぜそんな選択をしたのかって、私が思いつく理由など一つしかなかった。
「あの子が誘拐されかけた事件、きっと亥埜ちゃんは忘れてないよね?」
「は、はい。それはもちろん……」
亥埜ちゃんが百合花女学園に進学を決めた理由。
それはきっと……我が子がまだ小学校に通えていたとき、最後に話したのが亥埜ちゃんだったからだ。
亥埜ちゃんからしたら、自分と話した同級生がそのすぐ後に誘拐事件に巻き込まれて、そのあと一切自分の前に姿を現すことがなかったわけだし。
『もしかしたら自分のせいかも』とか、『あのとき話なんかしていなければ』だとかって。
そんなふうに、感じなくても良いはずの後ろめたさや罪悪感を抱えてしまったとしても、きっと無理はないだろう。
「あの頃の私は娘の心配ばかりで、間接的にでも巻き込んでしまったあなたに気を遣うことができていなかった……」
「は、はぁ……」
私たち親子の元に訪れたあの誘拐事件は、絶対に亥埜ちゃんのせいなんかじゃない。
だけど、こっちがどう考えていたとしても。
亥埜ちゃんにとっては放課後に会話したクラスメイトが翌日からずっと、中学生になってからもずっと姿を現さなくなった事件であるわけで……。
「もしあなたがあの事件のことを全然気にしていなかったとしても。それでも亥埜ちゃんが気に止む必要はないってことを、一度ちゃんと伝えるべきだった」
「そ、そうですか……?」
ウチの子のことなど忘れて、あの事件のことなど気に留めず。
もし亥埜ちゃんがそうやって生きていってくれていたら、どれだけ良かったか。
「もっと前にちゃんとあなたと話す場を設けて、巻き込んでしまったお詫びをするべきだったのに……」
「なる、ほど……?」
だけど亥埜ちゃんは百合花女学園に入学した。
地元から遠く離れ、さらには全寮制という特別な環境であるはずのあの学校に。
そして進学した理由に我が子が関わっているというのであれば……。
きっとウチの娘のことが気がかりで、ずっと気に病んでくれて。
そのせいで……あの子のことを心配して、少しでも様子を確認することができるかもって。
一目でも顔を見ることができるかもしれない可能性に賭けて、百合花女学園に進学したという理由しか私には考えつかなかった。
それはつまり、私たち親子はひとりの女の子の進路や人生に影響を与えてしまったことになる。
いくらでも未来を選択する自由のあったひとりの女の子の人生を、私たちのせいで縛り付けてしまったことになる。
「いや、あの、お母さま? 私あの事件はべつにそこまで……」
きっと亥埜ちゃんは優しい子なんだろう。
私がずっと後悔から生まれた懺悔の言葉を吐き出しているから、気を遣って私の言葉を否定するようなことを言ってくれている。
でも私になんぞにそんな気を遣わないでいいのに。
むしろ『謝罪するのが遅いんだよ』って、そう罵ってくれてもいいはずなのに。
「ちゃんと亥埜ちゃんに伝えるべきだったのに……あの子のことで責任を感じる必要はないって、もっと前に言ってあげるべきだったのに……」
初めて会った友だちの母親にも気を遣えるような、優しくてしっかりした女の子なのだから。
そんな亥埜ちゃんなら他の学校で、もっと別の輝かしい人生を歩むこともできたはずだろう。
この子の望む環境で、好きなことのために時間を過ごしたり、好きな人をつくって付き合ったり。
本当に目指したい将来に向かって、亥埜ちゃんだけの意思で、いくつもの可能性の中から進みたいと思う道を選択することができたかもしれないのに。
そんな輝かしいたくさんの可能性を、自ら選ぶことができた選択肢を奪ってしまったわけである。
私も一応は人の親なのに、よそ様の子どもに迷惑をかけてしまったわけで……。
そんな自分の不甲斐なさをひたすらに悔やんでいたのだけど。
「ですから、あの、私べつに責任とか感じては……ん? いやなるほど。責任か……」
私の懺悔を聞き終えてから。
亥埜ちゃんはカフェに流れる音楽でかき消えるくらいの声で何かを呟きながら、少し考え込んだあと。
「いえ! お母さま! あの事件の責任は私にあります!」
全てを忘れて、不要な罪悪感から解き放たれて欲しいと望む私の願いに反するように。
まるでこの子の責任感の強さが表れているような、そんな確固たる意志が反映されたような表情を浮かべて。
私に向けて、そう言い切ったのだった。
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