第一七四話 母と子知らず
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会議の合間に私用のスマホを確認すると何度か着信が入っていて、着信元を確認した途端に冷や汗が流れた。
普通の人はその番号を登録していることなんて稀かもしれないけれど、私は何度も着信があった経験から、その番号を『警察』と電話帳に登録していたから。
電話をかけ直して、握ったスマホの先から聞こえてくる報告を聞くたびに身体から力が抜けていき。
すぐに向かう旨を伝えて通話を終えた瞬間、私は脳は揺さぶられたような感覚に襲われてしまって、思わず近くの壁に手をついて身体を支える必要があったほどには動揺していた。
今までも警察から娘についての連絡が来ることはあったけれど、そのどれもが変な人に声をかけられただとか、ずっと後を尾けられただとか。
思い返せば『その程度』のものだったからだ。
だけど今回の連絡は、そういった類の過去の事件が軽いものだったと錯覚してしまうほどには、私の肝を冷やすほどの内容だった。
夕方の人気のない通学路で、横付けしてきた車に無理やり引き摺り込まれそうになったと、電話先の婦警さんはそう言っていた。
もしもその誘拐が未遂に終わっていなかったらなんて、どうしてもそんな想像が頭をよぎってしまって。
急激に襲ってきた嘔吐感や脱力感に抗いながら、部下の子に仕事を引き継いで、すぐに会社を飛び出たのだった。
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小学生の女の子がそんなおそろしい事件に巻き込まれたのだ。
さらにその女の子は気が弱くて甘えん坊で怖がりで、いつも母親にベッタリとひっついてくるような私の娘であるわけで。
トラウマになるほど怯えているかもしれないとか、怖くて泣き続けていないかとか、もしかしたら怪我をしているかもしれないだとか。
そんな不安に心を蝕まれながらもタクシーに揺られて、ようやく警察署に着くことができた。
入り口に立っていた人に事情を伝えるとすぐに娘が待っている部屋に案内されて、そこでようやく大事な我が子の顔を拝むことができたのだけど。
私の心の中でとても大きく育っていた心配をよそに、娘は存外ケロッとしていたので一気に身体から力が抜けた。
抱きついてから娘の顔を間近で見ても、泣き腫らしたようにも見えなかったし。
怖かったよね、大丈夫かと聞いても。
『普通に怖かったよ? マジ危なかった!』
などと軽い調子で言うもんだから、この子は私の理解を超えて案外図太い性格をしているのかもしれない。
そんな娘の様子を見ながら、もしかしたら今みたいに抱きしめることもできないような事態になっていたかもしれないとか考えてしまったもんだから。
飄々としている娘を強く抱きしめながら、安心した反動で衆人環視のもと私は大泣きしてしまったのだった。
冷静になって振り返ると、なかなかに恥ずかしい……いやでもしょうがないだろこれは。
お世話になった皆様にお礼を言ってから警察署を出て、家まで送ってもらっているパトカーのなか。
娘が自ら事の経緯を語り出したので、この子マジでメンタルどうなってんだと驚愕しながらも話を聞いたところ。
今日の放課後、少し先に控えた移動教室のことで先生と話をすることになったらしい。
とはいってもその時間もたかだか十数分程度のもので、いつも帰宅する時間と比べても大して遅くなったわけでもなくて。
この子には前々から、『他に帰宅する子が多い中を帰るように』と、そう口酸っぱく注意してきたのだけれども。
きっと担任の先生も娘のために、話に要する時間には配慮してくれたんだろう。
その時点で帰っていれば、まだ人通りの多い通学路を平和に帰宅することもできていたはずなんだけど。
娘と入れ替わるように担任の元に訪れたクラス委員長の子へ、先生が用事のお願いをしている様に聞き耳を立てていたらしく。
お世辞にも褒められたもんじゃないそんな娘の行動から、悲劇へと至る列車が走り出したのだった。
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娘が教室に戻った頃には、まだクラスの子がチラホラと残っていたらしいけれど。
友達がいないウチの子は誰かと会話を交わすことなく、自分の席に向かってセコセコと帰り支度を済ませたらしい。
だけどそのまま帰ることはせず、あわよくばという欲がクビをもたげてきたせいで、教室から出て行かずに席についてしまったとのことで。
普段は学校が終わるとすぐに帰宅しているようなクラスメイトが、なぜか今日に限って放課後になってもスンとすましてイスに座っている状況に、さぞや他の子たちも訝しい思いをしたことだろう。
チラチラと遠巻きにクラスメイトの視線を感じながら、そんなのお構いなしですよと取り繕っている時間が辛かったとは娘の談で。
とにかくそんな奇異な視線を娘に向けつつも、一人またひとりとクラスメイトは帰宅していき、教室にはこの子だけが残っている状況が出来上がった。
なんでそんな妙な行動に至ったかなんて、一応は母親である私にはその先を聞くまでもなく察しがつく。
もしかしたら先生から頼まれた用事を終えて戻ってきたクラス委員長の子に、あわよくば話しかけてもらえるかもとでも期待したんだろう。
そんな私の予想も的中しているらしく、娘いわくクラス委員長の子は話した回数も多くて、一番かかわりが深いとのことで。
孤独を拗らせた我が娘が精一杯に頭を捻って、話しかけてもらえるかもしれない機会を作ろうとした、とのことだった。
『話しかけてもらえるかも』なんて言い方をしているところがこの子らしいというか……。
臆病者だから自分から話しかける勇気はないし、もちろん教室に戻ったときに残っていた他の子たちに話しかける度胸もなかったんだろうし。
コミュ力皆無なこの子が大勢の中で会話するなんてまだ怖いだろうし、周りに他の子たちがいない環境で、ふたりきりでおしゃべりできるかもしれないという可能性はさぞや魅力的だったんだろうな。
そんな意地らしくておバカな娘の作戦のせいで、帰宅するのが教室に夕陽が差し込む時間まで伸びていってしまったわけである。
なんともまぁ……うん。なんとも言えん。
こんだけの騒ぎになって散々心配させられたわけだけど、怒る気も責める気も起きなくて。
暗いパトカーの車内で、隣に座っている娘の『ーーさんと、少しだけおはなしできた!』という嬉しそうな声を聞きながら。
私はとてつもない脱力感に襲われつつも、『これからどうしようか……』と、明日からの娘の生活について考え始めたのだった。
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駅のホームにアナウンスが響いて、待っていた新幹線がもうすぐに到着することを告げたので、暇つぶしがてらにそれまで頭の中でこねまわしていた過去の思い出から現実に意識をうつした。
あともう少ししたら、私の大事な一人娘がゴールデンウィークぶりに帰ってきて、久しぶりに顔を見せてくれるわけである。
あの子もゴールデンウィークの時よりはだいぶ成長していることだろう。
だって念願叶って、娘もとうとう友達をつくることができたのだから。
ホームに入ってきた新幹線を眺めていると、さきほどまで思い出していた過去の記憶のわずかな残滓が私の気を引いてきた。
そういえば、あのとき娘が口にしていたクラス委員長の子、名前はなんていったっけ……。
新幹線が停車位置で止まってたくさんの人が降りてくるなか、我が子と一緒に新幹線のドアから現れたその女の子の顔を見て。
クラス委員長だった子の名前が『亥埜さん』であることを、私はふと思い出したのだった。
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