第一三五話 亥と雨晴れ
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泣きじゃくる私の身体がふいに温かさに包まれて。
それは神さんが、私のことを抱きしめてくれたからだった。
「もう大丈夫ですから、謝らないでください」
「うっ、うぅぅ……」
私の頭をそっと包み込むように抱きしめてくれた、その温もりのおかげで。
ザワザワと荒く波立っていた私の感情も少し落ち着いてきたように感じる。
自分のことを今までずっと、こんなにも取り乱すことなどないような、もっと理性的な性格だと思っていた。
それなのに神さんを前にすると、どうにも感情をコントロールすることができなくなってしまう。
人前で大粒の涙を流して泣いてしまったのなんて、これまで生きてきた中でも神さんの前でだけだし。
「一緒に、プラネタリウム見たかった……」
「そうですね」
「もっと神さんといっぱいおしゃべりしたかった……」
「私もです」
ある程度落ち着いたとはいえ、感情の残り香のような悲しみが、さざなみみたいについつい溢れてしまっても。
神さんはゆっくりと私の気持ちを汲んでくれて、頭を撫でながら優しく慰めてくれている。
「神さんと買い物だってしたかったっ……お揃いのものが欲しかったよぉ……」
「それは、とても素敵ですね」
「もっと上手にできたはずなのに、神さんにもっと楽しんでもらいたかったのに……」
髪の毛を撫でる柔らかい感触は、神さんのほっぺたの柔らかさだろうか。
すりすりと髪をくすぐる温かさが、とても心地よくて安心できて。
私の瞳から流れ落ちる涙も、少しずつおさまっていった。
「亥埜さん。私、今日はとても楽しかったし嬉しかったです。ぜんぶ亥埜さんのおかげなんですよ?」
「……ほんと?」
「はい。本当です」
神さんの言葉すべてと、触れ合っている身体の温かさのおかげで、私はようやく落ち着きを取り戻せたとは思うけれど。
私のことを抱きしめてくれているぬくもりがあまりにも心地よかったから。
そのまましばらくのあいだ、私は神さんの優しさに甘えつづけたのだった。
◇◇◇
なんかもう、一生このまま神さんと一緒にカラオケにいたいな、なんて。
そんな邪なことを考え始めたタイミングで、残念なことに神さんは私からそっと身体を離してしまった。
まぁ……しょうがない。
現実的に考えて、そろそろ寮に帰らなければいけないんだから。
「ごめんね……ありがと。もう大丈夫だと思う」
「いえいえ」
すごく気恥ずかしかったせいか、真正面から神さんの顔を見ることができなくて。
流し目でチラチラとしか見ることができなかった神さんの表情は、普段の学校や寮でのものより幾分か優しげに見えた。
その小さな微笑みを見て、また恥ずかしさが込み上げてきたから、ぬるくなったストレートティーを飲んで誤魔化した。
残念だけど、これで私と神さんの初デートは終わり。
最後にスマホを確認してから、ふと今日一日を振り返ってまた罪悪感に胸が痛んだ。
神さんは私を慰めるためにいろいろと言ってくれたけれど、実際にデートらしいことなんて一つもできていないもの。
「はぁ……ほんと、ごめんね」
「あはは、もう謝らないでくださいよ」
部屋に入ってすぐに寝てしまったからカバンから私物を取り出したりも全然していないし、忘れ物を確認する必要さえなくて。
受付で渡されたバインダーを手に取って、もうそろそろ退室する準備をしなきゃって考えていた、そんなとき……。
「あっ! そうだ」
なにかを思い出したような声が聞こえたから、大したことない帰り支度を中断して神さんに目をやると。
「亥埜さん、さっき私と『なにかお揃いが良い』って言ってくれましたよね? それならコレ……」
神さんはそう言いながら、ずっと肩にかけていた可愛いポーチの口を開けて。
小さな紙の袋を取り出して私に差し出した。
「えっ……な、なに?」
「ええと、亥埜さんが一緒にお出かけしようって誘ってくれてすごい嬉しかったので。そのお礼といいますか……」
「そんな……開けていい?」
「はい」
少し照れくさそうなとんでもなく可愛い顔した神さんの顔から、手渡された紙袋に目をうつして。
ペリペリっと紙袋の口を開けて中に入ってるものをとり出すと、それは薄いピンク色のシャーペンだった。
「これ、私も色違いのを買ってるので、お揃いといいますか……その……」
神さんも私と同じようにもう一つの紙袋を開けていて。
恥ずかしそうにはにかみながら、取り出した薄い水色のシャーペンを私に見せるように両手で持っていた。
……こんなサプライズは予想していなかった。
私は何度か自分と神さんの持っているシャーペンに目を行き来させて。
そして確かに、同じデザインで色違いの可愛いシャーペンはここに存在していて。
今日は全てが思うようにいかない散々な一日だって、さっきまでそう思っていたはずなのに。
あぁ、どうしよう……私の願いだけが叶ってしまった。
どんな感情が原因なのかわからないけれど、信じられない出来事に現実感を失っているような心地なのに。
それなのに私はまた目頭がギュッと熱くなって、泣きそうになってしまっている。
泣いたらまた神さんを困らせちゃう。
でももしかしたら、さっきみたいに泣いてる私のことをギュッと抱きしめて、あやすように慰めてくれるかもしれない、なんて。
少しだけそんなことを考えてしまうのは、今日の私の出来損ないな成果からしたら、ワガママが過ぎているのだろうけれど。
「あ、ありがとう……すごい、嬉しい」
顔を伏せながら前髪で隠して、嬉しすぎて溢れそうになる涙を我慢しながら。
掠れた声でなんとかお礼を伝えると。
「えへへ。私もお揃い嬉しいです」
そんな卑怯すぎる神さんの一言のせいで。
私は耐えられずに、また子どものように泣いてしまったのだった。
◇◇◇
カラオケ店から出ると、雨はすっかり上がっていた。
ふと見上げた空には、夕陽と雲と少し残る青空の色が混ざりあっている。
そのコントラストを見て、普段そんなことを思うことなんてないのに。
綺麗だなって、そう思った。
「うわぁ、綺麗ですね」
となりで神さんもおなじ色に感動していたようで、同じ景色に感動して、同じ感想を共有した。
ただそれだけのことが、なんかひたすらに嬉しかった。
横にいる神さんの顔を見ると、神さんはキラキラと輝く瞳で空を見上げていて。
いつも神さんを可愛いと思っているけれど、夕陽に照らされた神さんの横顔は……。
「……うん。綺麗だね」
「はい」
その横顔をずっと見つめているのも恥ずかしくて。
一度目を閉じてから、目の前の街並みにもう一度目を向けると。
道に広がった水たまりや、雨に濡れた街並みも。
光を反射しただけのただの自然現象かもしれないけれど、キラキラと輝いているのがとても綺麗で。
神様が今日のお詫びとして、最後にちょっとだけサービスしてくれたのかも、なんて。
そんな、らしくないことを考えてしまった。
「それじゃあ、帰りましょうか」
「うん……」
駅に向かって数歩先を歩き出した神さんの後を私もついていく。
名残惜しいけれど、あとはもう帰るだけ。
ぴょこぴょこと歩いて行く神さんの背中に声をかけようとしたけれど、言葉がうまく出てこない。
『また、私と出かけてくれる?』
その言葉を口にする勇気を出すことができなかった。
だって神さんがなんて言おうとも、私は今日のデートで上手にリードすることができただなんて。
神さんのことを楽しませてあげられただなんて、思うことができなかったから。
誘って断られたらどうしよう、返事が乗り気じゃなかったらどうしようって。
そんな想像をしてしまい、怖くてたまらなくなる。
だけど……。
「次はプラネタリウム行きましょうね! リベンジです!」
振り向いた神さんが、ふわりと微笑んでそう言ってくれたから。
「……うんっ! あ、あとランチも! オシャレなお店で!」
「はい! 是非いきましょう!」
私は思わず駆け出して神さんの隣に並んでから。
次に出かけた時に何をするかって、そんな胸が温かくなる予定を話しながら。
綺麗に染まる夕暮れのなか、二人で仲良く家路を辿ったのだった。
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