第一二九話 辰と月華
◇◇◇
初夏の匂いと土くささが混じって香る、学校の暗い昇降口。
疲れきった私の脳が生み出した都合の良い妄想かと思ってしまうほどに。
現実味のないその存在が、そこで私のことを待ってくれていた。
「えっ、神さん? なんでこんな時間に……」
夏のビーチでペンギンを見たとして、きっと今と同じくらい戸惑うんじゃないかって。
それくらいには予想外だった神さんの姿に、私はハテナをいくつも頭に浮かべることしかできなかった。
だってよっぽどの用事がない限りは、みんな寮に帰って寛いでいるような時間だし。
たしか委員会には入ってないし、部活だって帰宅時間には活動を終了するような天文部に所属しているだけの神さんが、一人きりでこんな時間まで残っている理由がまったく見当つかないし。
「あ、あの……」
だからこそ溢れた私の「何故」という質問に。
神さんは何かを言いあぐねているように言葉を濁して、モジモジと指の先を突っつき合わせていた。
チラチラと私の顔をうかがっている神さんの口から続く言葉を、何がそんなに言いにくいのかと思いながら待っていると。
「えと、最近あんまり辰峯さんとおはなし出来てないなって思って……」
「そうね……ここ二、三日くらいだけど」
私だって同じようなことを考えていたから。
その言葉に同意するのも、大体の期間を口にするのも簡単なことだった。
「だからあの、辰峯さんは委員長のおしごとで忙しいし、仕方ないかもしれないんですけど……ちょっと寂しくて……」
モゴモゴと言葉を濁らせる神さんを照らすかのように。
はかったようにあまりにもちょうど良いタイミングで、昇降口の電灯に自動で明かりが点った。
人工的な光に照らされた神さんの頬は、見てるこちらも恥ずかしくなるぐらい真っ赤に染まっていて。
「少しだけでもお話しできたら嬉しいなって……待ってました」
……うん。
なるほどなるほど。
それはつまり、神さんも私とずっとおしゃべりしたかったと。
だからこんな遅い時間まで、わざわざ私のことをこんな暗い場所で待っててくれたということね。ふーん。
あっ、ヤバ。泣きそ。
「寮に帰ったら辰峯さんは、また他の子にかまっちゃうかなって。だから、迷惑かもしれないと思ったんですけど……」
もうそれ以上は聞いていられない、ってわけでもなかったんだけど。
嬉しい気持ちと、溜まりに溜まった疲れを前に、理性なんぞは堤防の役目を果たすことなど出来なかったようで。
私はいつのまにか、目の前の小さな女の子を思いっきり抱きしめていた。
「ぅえっ!? た、たつみねさんっ!?」
ギューっと力強く、その華奢すぎる身体を抱きしめたまま。
同じくらい力強く閉じていた瞼をピクリと開くと、目の前には綺麗な髪の毛が垂れていて。
「あっ! ご、ごめん!」
自分の無意識に取ってしまった行動に戸惑いながらも、すぐに神さんから身体を離した。
「あのっ、ごめんなさい!」
「い、いえ……ビックリしました。あはは」
誰かに見られてもおかしくないような校舎の中だというのに、突発的にこんな大胆なことをしてしまうなんて。
すぐに謝ってみたものの、神さんは嫌そうな顔はしていないようだったから、すこし安心はしたんだけども。
それでも恥ずかしいことをしてしまったことに変わりはないわけで。
「なんか、あの、あのね! 今日はすっごい疲れてて、それで思わずっていうかね!」
疲れていたのは確かだけど、だからといってそれが今のハグにどう繋がるのかと。
もしもそう尋ねられていたら、その理由をマトモに説明できようもない言い訳だったけれど。
「そうだったんですね……いつもクラスのためにありがとうございます。今日もお疲れ様でした」
ぜんぜん気にした様子もなく私のことを労いながら、微笑みかけてくれた神さんの優しげな笑顔を目にして。
私の瞳からは、一日分の疲労感が詰まっているような涙が流れ落ちた。
誰かの力で心の疲れが消えて無くなることなんてない。
身体にまとわりつく疲労だって、なんとか解消したいのならお風呂に入ったり、ゆっくり寝るしかないんだろうとは思う。
だけど……神さんの言葉と気遣いと、そしてその笑顔は。
私に疲れを忘れさせるくらいには嬉しいもので、私の心に溜まった疲労を上書きしてくれるくらいには温かいものだった。
「うぅ……今日ほんとに忙しくてぇ……みんないっぱいお願いしてくるしぃ」
「えっ、な、泣い!? よ、よしよーし。辰峯さんは本当に頑張ってますよー。よしよし」
涙と一緒に精神年齢も溢れていってしまったのか。
人前とか気にする余裕もなくグズリ始めた私の頭を、神さんがナデナデしながら慰めてくれていた。
「もっと褒めてぇ……」
「あ、はい! 辰峯さんはすごい立派ですし、頑張り屋さんでみんなも辰峯さんが大好きですよ〜」
「手も握ってぇ……」
「は、はい! えと、あと辰峯さんはすごく綺麗ですし、憧れている子も多いと思いますし、他にも……」
こんな情けないところ、恥ずかしすぎて他の誰にも見せられないだろうけど。
予想外のご褒美にひたすら甘えて、神さんから存分にあやされながら。
私たちは夕方の帰り道に、二人分の足音を響かせたのだった。
◇◇◇
……まぁ、こんくらいのご褒美があってもいいでしょ!
そんくらいには今日の私は頑張ってたはずだし!
神さんの前でひどい痴態を晒しながら、活力とか謎のエネルギーを養ってゆっくり寮に帰ってきたあとで。
ご飯を食べたりシャワーを浴びたりなんかして、今は自室の机で、宿題を前にして座っているわけだけど……。
恥ずかしいのは恥ずかしいわよね、そりゃさ。
思い返したくない自分の醜態にもんどり打ちそうになるのを我慢しつつ、同時に何度も神さんからの甘々な甘やかしの時間を反芻してしまっている。
そのおかげか今日一日の鬱憤なんかは薄れてしまったようなので、自分も相当に単純な人間だと、さらにちょっと恥ずかしくもなるけれど……。
だけど神さんがまさか私のことを待っていてくれるとは。
それほどまでに私のことを想ってくれてるわけだし、それは普通になんか異常に嬉しかった。
いや、ダメダメ。
これじゃあ宿題が一生終わらないって。
なんとかかんとか頭の中を切り替えて、目の前の宿題に没頭すること数分。
「……なぁたつみー。今日けっこー遅い時間に神さんと一緒に帰ってきたらしいやん?」
せっかく集中してきたのにってタイミングで、それまでベットの上で怠惰にスマホをいじっていた巳継さんが話しかけてきた。
「え、えぇ。まぁそうだけど」
神さんが私とおしゃべりできないのが寂しいって待っててくれたからね!
まぁ流石にそこまでは口にせず、巳継さんには適当な相槌だけを返しておいた。
宿題もそんなに量はないし、もう少し頑張れば終わりそうである。
だからこそ愛想のない反応になってしまったけれど、そこは宿題中に話しかけてきた巳継さんのせいでもあるし、あまり気にしなくても良いでしょう。
「ふーん……もしかしてなんやけど、神さんが待っててくれたん?」
「見てたのっ!?」
もう少しで宿題終わりそうとか考えている場合じゃなかった。
『醜態を晒していたあの姿を、もし見られていたとするならば……』なんて恐れが生まれた途端に、私は振り返っていた。
「えっ? いや見てはおらんけど……え、なに。なんかあったん?」
「い、いえ。それなら良いのよそれなら。まったく……」
目を向けた巳継さんはキョトンとしているし。
その様子だとおそらく目撃されてた、なんていう事態は避けられたんだろう。
だってもし見られていたのなら、巳継さんがからかってこないはずがないだろうから。うん。よかったよかった。
とりあえず一安心して、机に向けて姿勢を戻し、放り投げていたシャーペンを握った。
「なんなん……まぁええか。うちも前になぁ、神さんが帰りに待っててくれたことがあったんよ」
「……ふーん」
へぇー。あ、そう。
私だけじゃなく、巳継さんにもそういうことしてたんだぁ。
ふーん。いや別にいいんだけど。
「なんでソナイことしてくれよるんやろって思ってな? いや、もちろん嬉しいやん。せやからそん時、うち聞いてみたんよ?」
「へぇー」
そりゃ嬉しいでしょ。私だって嬉しかったし。
私とおしゃべりできないのが寂しいなんて言われたら、そんな健気で可愛いとこ見せられたら、そりゃ嬉しいでしょうが!
シャーペンの芯がペキっと音を立ててどっかに飛んでいった。
「そしたら『みなさん、お友だち多いし。何日も話せないせいで私のこと忘れられちゃったら、悲しいですし……』みたいなこと言うとってなー?」
「忘れるわけないじゃないっ!」
「うわっ! 急におおきぃ声だすなや……でもせやんなぁ? 忘れるはずないのに、なんでそない不安なんかわからんよなぁ」
そっからもダラダラ話しかけてくる巳継さんの話の内容は一旦置いといて。
たしかに巳継さんの言うように、どうして神さんがそこまで自信がないのか、その理由はわからないけれど。
それでも一つわかったことがある。
あの神さんという子は、不安になったり寂しくなったとき。
今日私にしてくれたような言動を別の子たちにも行ってしまうということであり。
おそらく意図的ではなく、純粋な気持ちのままに行われるその振る舞いはとてつもなく……。
「罪作りが過ぎるでしょ……!」
あまりにも思わせぶりで、危険すぎるということを。
今日一日の最後の締めくくりに、浮かれまくって恥の海に溺れていた私に、ひとつの教訓として刻みつけたのだった。
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