第一話:高橋美咲は先生です
DK2になって、俺は数学を諦めた。
サインコサインタンジェントは暗号にしか聞こえない。
シグマはなんでΣで表現するのかわからない。
ベクトル? 新作スイーツかな?
ってことで、数学IIの時間は、黒板あたりをぼーっと眺める時間だ。
正直言うと、黒板じゃなくて先生を見てる。
今日最後の六限、教壇には窓から西日が射している。
左から光が入るのは、右利きの教師が黒板に書いた時に見やすいように、らしい。知らんけど。
ともかく、教壇には光が射していて。
先生を照らしていた。
高橋美咲先生。
スタンドカラーの白いシャツの上は今日も黒いジャケットを羽織ってパンツスーツだ。
チョークの白い粉がどうしても袖につくから、明るい色にした方が洗濯ラクなのに。
長い髪を無造作にうしろにまとめて、銀縁メガネと無表情な感じでクラスのヤツらから「クールビューティーっぽい」って言われてる。
中には高橋先生に叱られたいってヤツも、極めてるヤツは罵られたい・踏まれたいってヤツもいる。業が深い。
29歳はもう新人教師じゃないけど、侮られたくないってちゃんとスーツで、就業中はわざと無表情、らしい。
それでもときどき笑顔が出ちゃって、先生の隠れファンを増やす原因になってる。
嫌われるよりはいいけど、あんまり増えてもなあ。
ため息と同時にチャイムが鳴った。
高橋先生の「今日はここまでにします」って宣言より早いか同じぐらいで、みんなガタガタ立ち上がって話をはじめる。
先生はちょっと困った顔をして、諦めて前の扉から出ていった。
「お疲れ、ゆうちゃーん」
「『ゆうちゃん』って呼ぶな。『ちびひな』って呼んでやろうか?」
「わー! 懐かしー! ゆうちゃんがいいならそれでいいよ?」
「すまん。頼むから高橋って呼んでください打林さん……」
「えー? 高橋だとタカハシせんせと同じじゃん。わかりにくくない?」
「クラスに一人は『高橋』いるしなあ。じゃあせめて『優斗』で」
「おっけー! んで優斗、どうしたの? めっちゃ真面目にノート取ってたしょ。大っ嫌いな『数学』なのに」
「なんとなくだ。数学は諦めた」
「いさぎよくない!? えっ、数学なしで受験できるトコ少ないでしょ!?」
「それなあ……」
「よし! そんな優斗くんには、これをあげましょう!」
「おーおーありがとう。……何コレ?」
「何って、さっき集めとくようにって言われたこの前の数IIの課題だけど」
「それはわかるけども。『何コレ』って『なんで俺に?』って意味で」
「数学準備室のタカハシせんせに届けてくるように!」
「は? 日直の仕事だろ?」
「わかんないかなー、数学教師のタカハシせんせに『数学ニガテすぎるんですけどどうしたらいいですかね』って相談するチャンスを与えてあげたのにー」
「あー、なるほど。んじゃ行ってくるわ」
教室を出る時に、打林にひらひら手を振る。
そういえば、「ちびひな」って呼んだのは小学校以来だっけ。
アイツはときどき冗談っぽく「ゆうちゃん」とか呼ぶけど。
「小学校かあ……懐かしい、けど……」
戻りたくはない。
入学してちょっとしたら母さんが病気で亡くなって。
そこからもバタバタいろいろあって。
うん。
絶対戻りたくない。
タイムリープもループも、やり直すならせめて中学からだな。
そんなどうでもいいことを考えながら歩いてると、数学準備室に着いた。
ノックする。
「2-6の高橋です。クラス分の課題届けに来ましたー」
「どうぞ」
ガラッと扉を開けて中に入る。
数学準備室は狭い。
グレーのデスクが6つ、生徒と話をする用のイスとテーブルがあるだけで、教室の半分もない。
そもそもほかの高校では「数学準備室」がある方が少ないらしい。
「日直の打林さんに頼まれて、課題のプリントを届けに来ました」
「そう、ありがとう」
数学準備室にいるのは高橋先生だけだった。
打林が狙ってやったわけじゃないだろうけど、ありがたい。
「先生、いま時間ありますか? ちょっと相談があるんです」
「高橋くん? 大丈夫ですけど……」
無表情が崩れて、高橋先生はタレ眉で戸惑った顔になる。
俺は気づかなかったことにして、相談用のイスに座った。
すぐに先生も座る。
「俺、数学諦めようと思ってるんです。数IIがさっぱりわかんなくて」
「諦めるって……受験はどうするつもりですか?」
「数学なしで受験できる大学や学部を選ぼうかなーって思ってます」
「国公立はほとんどありませんし、私学でも限られます。それに、教科が絞られますから、合格ラインも高くなりますよ?」
「わかってるんですけどね……苦手な数IIを勉強することに比べたら、ほかをがんばった方が伸びるかなあって」
「まだ高二の春です。諦めるのは早いと思います」
先生の眉と眉の間にシワが寄る。
睨んでるんじゃなくて、俺を心配してくれてるんだろう。
担任として、数学IIの教師として。
「じゃあ高橋先生、俺に数学を教えてくれますか?」
「もちろんです。では補習という形で放課後に——」
「家で、教えてください。美咲さん」
「……優斗くん。学校では『先生』でしょ?」
「わかりました。それで、どうですか高橋先生?」
「…………喜んで、教えます」
高橋先生が——美咲さんが微笑んだだけで、薄暗くて狭い数学準備室が、色鮮やかになった気がした。
グレーのデスクと本棚しかない殺風景な場所なのに。
「ありがとうございます!」
「言ったのは高橋くんなのに、なんで照れてるんですか」
「いやあ、そりゃねー」
高橋先生を直視できない。
ので、俺はさっさと立ち上がった。
「じゃあ、数学の補習よろしくお願いします。家で」
「はい、わかりました」
数学は諦めた。
諦めたけど……美咲さんが個別授業で教えてくれるなら、もう少しがんばれるかもしれない。
高橋美咲先生は、2-6の担任で、数学教師です。