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一般向けのエッセイ

『時代閉塞の現状』


 体調を崩して三日ほど横になっていた。お腹が弱いので、困ったものである。


 その間、石川啄木を読んでいた。「時代閉塞の現状」という評論がある。高校の教科書に載っていた気がするが、その時には何とも思わなかった。今読むと、色々感じる所がある。


 僕は思うのだが、石川啄木が仮に今生きていてもやはり「時代閉塞の現状」という題で文章を書いただろう。そうしてやはり、貧乏に喘ぎながら、まわりに迷惑をかけながら、文学者らしい姿勢を貫いたのではないか。

 

 啄木は当時流行っていた自然主義文学に対して懐疑的な姿勢を見せている。漱石・鴎外という巨大な二人は自然主義文学に距離を取っていたし、今から見れば端にいた漱石や鴎外がむしろ本流に見えるのだろうが、当時は違った光景が見えただろう。石川啄木の自意識や知性は、漱石・鴎外ほどではないがそれに近い部分がある。啄木がもう少し長生きすれば日本の文学史も多少変わったかもしれない。


 漱石と鴎外が飛び抜けた存在だったのは、彼らが日本という社会を相対化して見る視点を持っていたからだったと自分は思っている。僕は人が才能だの努力だの言うのを全く信じていない。彼らは何も見えず、一つの道を辿る事を知らないので、その暗闇に適当な符牒を置き、誰かがその暗闇について話し出すと、すぐに符牒を持ち出して納得しようとする。こうして世界は暗黒に満ちていくのだが、同時に、知ったような顔は無限に噴出するという風になる。


 本質的に文学者というものは、自己を相対化する必要があると自分は考えている。そしてそれは必然的に、彼がいる社会そのものの洞察、相対化へと向かっていくだろう。例えば、夏目漱石という人について考えてみると、漱石にははっきりした文芸理論・社会洞察があって、その理論を実験で確かめるように小説を書いたのではないかという気がしてくる。つまり、これこれの社会があって、これこれの社会にはこのような矛盾があり、それが個人の生活に影響を与えるなら、このような人生が現出するはずだ…というように。


 漱石の小説に出てくる三角関係はただの恋愛ではない。自分は恋愛小説というのは書く気がないし、最近の恋愛小説、それこそ川上弘美「センセイの鞄」などは全く呆けた作品だと感じているのであのようなものは読みたくない。カップルでディズニーランドに行くのを礼賛する類の物語のどこが偉大なのだろう。他人を交換可能と感じている存在が、自己の利己性により、自分の「幸せ」の為に他人と試みに付き合ってみる。それならば人工知能と恋愛してもいいだろう。「なろう小説」でもいいだろう。


 小林秀雄が「近頃の恋愛小説は恋愛を恋愛心理に帰しているからつまらない。恋愛とは祈願だ」と言っていた。これは、彼が理想を保持していた事を意味する。つまり、恋愛にはかつて理想があった。それは恋愛そのものが理想だったのではなく、人間の中の精神性が「恋愛」という形を取って現れたのだと思う。今や恋愛は世俗のものに堕した。しかし、それでも恋愛小説に高貴なものを見ようとするならば、恋愛の背後に恋愛とは違うものをみなければいけないだろう。


 ドストエフスキー「未成年」のヴェルシーロフは、アフマーコワという女に恋をするが、この恋はヴェルシーロフの理想である。ヴェルシーロフにとって、相手は自分の中で神格化され、世俗を脱した存在で、それをどうしても手に入れようとする。しかし、そんな神格化に耐えられる人間などいないから、アフマーコワは自分は人間であるとして、ヴェルシーロフを拒否する。ここには偉大な悲劇があるが、それはそれがただの恋愛ではない、象徴的なものであるからだ。


 石川啄木に戻ると、啄木には明らかに社会意識、社会洞察というものがある。閉塞した社会で情熱のある個人が何に流れていくかを洞察していく目がある。今、この目はどこにあるだろうか。僕は今の文学にはまるで社会性がなく、客観性もほとんどないと思っている。だがこう言うと人は反論するだろう。即ち、社会性とはLGBT、原発、震災、人種差別、投票率……それらについて考える事が文学における社会性であると言うだろう。また、客観性と言えば、村上春樹は世界で売れ、中村文則の小説だって海外で売れ、川上弘美だって他の国で評価が高い…などという話となるだろう。


 僕個人は二十一世紀の病んだ文士もどきとして、全然そんなものを文学の社会性とも客観性とも考えない。現在における社会性・客観性の消失は見せかけの社会性・客観性が流通するという事柄と一致している。


 書店に行けば、インチキ科学者の日記が置いてある。犯罪者の手記から、まったり日常肯定、簡便なダイエットの仕方から、高揚できるナショナリズムまで、なんだって置いてある。売れると思えば、出版社はなんだって出版する。テレビ局は大衆の願望に合わせてぐにゃぐにゃと動いていく。テレビにしろネットにしろ、十年前言っていたのと違う事を言ってもそれを矛盾とは思わない。そこでは、民主主義と資本主義のセット、大多数の人間が求めるものを提供するという使命が守られている。


 その為にはなんだってする。左翼になり右翼になり、低次元のものでも一流という肩書で売りつける。そうして、今の僕もこんな風に批判しているが、僕を懐柔したければ簡単である。つまり「ヤマダヒフミ、あなたの本を出版しても良いのですが、その為にはこれこれは守ってもらわなければなりません」と耳元で囁やけばいい。そこに何ら倫理に違反するものはない。ないとされている。世界は滑るようにどこまでも続いていて、破れ目がない。


 石川啄木は「時代閉塞の現状」という評論を書いたわけだが、現在も全く同じタイトルで評論を書くのは可能だろう。現在も「時代閉塞」である。だが、この閉塞は閉塞を閉塞と見られないように綿密に織られている。僕は自分の信念さえ失えばいい。自分の文学理念を喪失し、ここ三年間の文芸誌のバックナンバーを読み、あるいは「小説家になろう」読者が一体どんなものを求めているかをリサーチして、それに適合する作品を作って出せばいい。SNSで宣伝してみればいい。ここに自由があるかのように思える。発表の自由、表現の自由があるかに思える。


 だが、事実は表現の自由があり、それを評価する人間が多数いるからこそ、表現には見えない制約がかかっていく。人々は自分の望むものが目の前に表現されているのを見て喜ぶ。しかしそれは人々の分身にすぎない。人は成長するには理解しなければならない。理解するには、過程というものがある。葛藤がある。だが、葛藤や過程を排除した作品が好まれる時、そこに客観性はあるのか。そこでは、人々が自分の理念を再生産していく道筋がある。世界が泥沼のようなものに溶解化していくのはこの為であろう。文化は消失し、文化を宣伝するジャーナリズムだけが残る。これは「時代閉塞」そのものだが、我々はそれを時代閉塞とは感じない。ある種の人だけがそれを感じるが、残りの人々には「解放」と感じられる。


 我々の前には道は開かれている。努力すれば成功は得られる、と人は言う。そこに「時代閉塞」はなく、開けた道があるかのように宣伝される。そうしてその道に入って時間が経てばいつしか、本来求めていた自分は失われ自分は自分でないような気がしてくる。だが、それがどこから一体どこから来るのかわからない。何十万というツイッターフォロワーに囲まれるのは幸福だろうか。それは一つの窒息死を、彼らの目線を逃れ得ないという事をも意味しないだろうか。だが我々の道が「開けている」とされるのはこの道に対してだけで、それ以上の道は開けていない。というか、そういう「道」を想像する事すら許されない。


 「時代閉塞の現状」は現在では、「無限の可能性がある現状」と全く同義である。我々が可能性を案出するのは否定されているが、決まった可能性の道を歩いていくのは推奨されている。夏目漱石においては、西洋近代と後進国である日本の旧秩序との葛藤が問題となったが、今の我々に問題なのは、我々の欲求そのものが型にはめられているという事で、これとの離反、背反、ここから離れて自己を、自由を求める事が現在における社会性・客観性であると自分は考えている。だが、この社会性は「社会性故に」社会性とは認められぬだろう。井戸の外を出た人間が井戸の中の人間に認識できるだろうか? 


 …だが、これはあまりに過大な評価かもしれない。訂正する。自分一個がただそんな風に感じているというにすぎない。過去をたどれば、その時代に流行していたものが今や何の事か全然わからないという状況に遭遇する。マルクス主義はあんなに流行ったが、今では馬鹿にされている。しかし、馬鹿にしている当人は自分も新たな流行にはまっているとは考えない。僕は現在においてもソクラテスは毒杯をあおぎ、キリストは磔となり、石川啄木は相変わらず、実生活と芸術との断絶に苦しみつつ死ぬだろうと夢想している。現在は、過去から進歩しているなどとは自分は思っていない。…いや、答えはそれとは違い、現在を過去から進歩していないと考える事が、人文系における「進歩」という概念と関わっているのかもしれない。まあ、自分はそんな風に思う。


 現代における「時代閉塞」は我々が時代など閉塞していないと思っている所に事情がある。正当な知性を持つ人は疎外され、大衆にアピールする人間だけが認可される世界に原因がある。我々が我々の生み出したシステムの中で自由に望んでいると思っているほど不自由なものはない。


 石川啄木の時代にあっては、自由を求める貧乏文士達が、それぞれの理想に囚われたりくだらない些事に人生を費やしたりしただろう。その頃にあっては疎外はまだ目に見えるものだったのだろう。だが、現在ではもはやそれは目に見えない。我々が街で見る人々が、彼がそれぞれに立派な社会人に見えても密かに社会から脱しようとしているか、あるいはシステムにスポイルされた人間なのか見分ける事ができない。


 「意志」が存在しない。(存在できない) 「個性」も同様に存在不可能であるが為に、個性は個性を求める事も許されるべきだという消極的な運動としてしか機能しないだろう。我々はまず「時代閉塞の現状」の探索から始めるべだ。だが、その探索すらも時代閉塞の一部になって帰ってこない。我々に自由はない。なぜなら我々は自由だからだ。自由だと思いこんでいるからだ。自由だと思い込んだ人間にどのような自由が舞い込む事もない。現在の様々なコンテンツがそれを表している。


 想像力は自由、才能は人それぞれ、努力は可能、と人は言う。では、どうしてどれもこれも揃い揃って我々並みのものしかないのだろう?と言えば、それは我々を支配する見えない網が我々の魂を捉えているからだ。


 ………しかし、自分はふと思うのだ。こういう文章を書いて何になるのか、と。「時代閉塞の現状」を同時代の誰に向かって語りかけているのだ? 自分は存在しない相手に向かって語りかけているような気がする。しかし、例え亡霊であろうと神であろうと未来の人間であろうとーー架空の相手に話しかけている時だけ自分は空虚な気持ちからわずかに脱する事ができる。この世界にあって、自分は単なる一個の亡霊にすぎない。そこで、亡霊が亡霊と交流する必要も出てくる。つまりこの文章がそれだ。


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[一言] 諦めないで、発信するしか。 閉塞感ですか・・・。 今朝、閉塞感に対する回答を投稿しました。 「野良猫幸福論」という、童話です。 ヤマダさんのエッセイ読んで、浮かんできた光景です。興味があ…
2018/12/11 18:58 退会済み
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