第107話 お狐様の嫁入り 讃っ!!
辺りが暗くなり始めた頃、通常の日勤だったラングレイは肩を回しながら自身の暮らすアパートメントの一室に着く。
鍵を用いて扉を開けようとして、ふと思い出した様に扉についたドアノッカーを叩く。すると、一人暮らしのはずのラングレイの部屋の中からドタバタと動く人の気配。
やがてその気配は扉の前まで来て、ガチャリと中から扉を開ける。
「お、おかえりなさい!」
中から現れたのは、ぴこぴこと頭頂部の三角耳を動かして三本の緑の尾を激しくパタパタさせた女だ。
吊り目を細くさせ、ニコニコとしながら女はラングレイの荷物をいそいそと受け取る。ふと、室内を漂う良い匂いにラングレイが気づいた。スンスンと鼻を動かす彼を見て、女は照れ臭そうに頬を赤らめて俯き加減に言う。
「あ、あの、ご……ご飯、作ってみたの……」
「へぇ……!」
素直に驚いたラングレイが中に入ると、机に並べられた肉じゃが。座りもせず、つまみ食いをする様にパクりとそれを食べたラングレイに驚きつつも、感想を期待して女は胸に手を置いて自身の激しくなる鼓動を感じた。
「おおっ! 美味い! 料理できる様になったかぁ……中々、頑張ったじゃないか!」
ワシワシとラングレイは女の頭を乱暴に撫でる。その仕草に色気は無く、まるで子供を褒める様な態度であった。その事に不満を感じつつも、しかし料理を褒められた事自体が嬉しくて女の口角は自然と上がる。
ラングレイという独身男の元に、身寄りのない、帰るところのない狐女が転がり込んで早二週間程度……二人の慣れない同居生活もようやく落ち着きを見せており、好きな男と共に居れる狐女はもちろん、最初は面倒にしか感じていなかったラングレイも少しばかりの父性が芽生えて悪くないと思い始めていた。
何より、家に帰った時に迎えてくれる人が居るというのは……独り身の長い男にとって、思っていた以上の癒しとなった。
そんな、ほのぼの日常系漫画の様な暮らしをしようとしている男女を部屋の角から見つめる存在が居た。
肉体を持たず、世界に干渉する事すら難しい……言うなれば幽霊。黒い情念を瞳に燃やし、ペロリと唇を舐めたその存在は、どうやって二人の生活を破壊してやろうかと思念を巡らせていた。
そう、ペペロンチーノこと肉体を奪われた可哀想な少女、俺である。
俺の肉体で色恋沙汰に発展させようなんざ……お天道様が許そうとこの俺様が許さない。もし最悪が起きた場合、その時は殺してやる……殺してやるぞ、ラングレイ。
*
休日、余り外に出ない狐女を買い物に誘ったラングレイ。普段着などを選ぶ為、服屋が並ぶ商店街の様な所を二人で歩く。
「そ、そんな服だなんて……私、別に着れたらなんでも」
「いや、いつも同じ服着られてると俺が嫌なんだよ、洗い替え考えても一週間分はいるだろう。それに、いつまでも俺の所にいれるわけじゃないんだ、服くらい今のうちに買っておいてやるよ」
「……いつまで、も」
何気ないラングレイの言葉に顔を暗くさせる狐女。彼は真剣にそう言っていた。別に、自分の事が邪魔だから言っているわけではないという事はなんとなく伝わる……しかし、狐女のことを真に考えているからこそ、いつか自分の所を出て行くべきだというニュアンスだった。
単なる外国人だと思われている。今は成り行きで面倒を見ているが、やがて本人の力で歩いて行くだろう……ラングレイは本気でそう思っていて、狐女は彼がそう考えていると分かっている。
故に、狐女は彼の方からずっと共にいて欲しいと思って欲しい、そんな事ばかりが頭によぎる。
ズキン、と。狐女が頭痛に眉を顰めた。まただ、この身体を取り返そうとしている。
それをなんとか抑え込み、平静を装って顔を上げる。
ふと、視界に写った一人の少女が気になった。ホットパンツにジャケット、帽子を深く被り込んだ短髪の少女。目線は見えないのに、どこかこちらを見ていると感じた。
狐女が気付いた事で、その少女はもたれていた壁から身体を離し歩き出す。迷いのない足取りでラングレイと狐女、その二人の前に立ち塞がった。目の前で突然立ち止まった少女に、二人は困惑する。
帽子の影から、鋭い視線を携えて少女が口を開いた。
「よぉ、悪いが……死んでもらうぜ」
少女が腕を振るったと思えば、眼前に迫る大量の刃物。狐女よりも早くラングレイが動き、それらを全て手刀で叩き落とす。直後に少女の足が爆ぜてその身体は高く舞い上がり、手から伸びる鎖が狐女の首に巻きつこうとしていた。
咄嗟にしゃがみ込んでそれを避ける狐女、しかし追撃は終わらない。袖から取り出した棒を繋ぎ合せ一本の槍を作り出し、少女はそれを下に向けて投げる。
ラングレイの蹴りが槍を弾いた。小さく詠唱をした狐女の魔法による火球が空中の少女に着弾する。腹部を燃やしながら少女が地面に墜落した、落ち方からも無事ではない事が分かるが、警戒を解かずラングレイと狐女は唾を飲み込んだ。
もそりと、傷だらけの少女が立ち上がる。腹部は抉れており、見るからに致命傷だ。突然向こうから襲い掛かってきたとはいえ、まだ年端の行かない少女の痛々しい姿はそれ以上の攻撃を止めさせた。
少女が不敵に笑う。
「くく、く。私は、、失敗か……まぁ、あんたが『アイツ』を抑えていら、れるというのなら、それで良いんじゃ、ないか?」
意味深な発言をして、カクリと首を傾げた少女の頭から帽子が落ちる……露出した頭部、短い髪を押さえ付けるように何か金属製の物が括り付けられていた。
少女が歯を強く噛み締める。爆発した頭部から飛び散った金属片が前方……狐女の方へ迫る。突然の自爆、更にはそこからの攻撃に一瞬呆気に取られた狐女は反応が遅れた、しかしラングレイが即座に彼女の前に飛び出ると全てを受け止めた。
パラパラと、ラングレイの両掌から零れ落ちる金属片。少し取り漏らしたのか、彼の頰から一筋血が流れた。
「呪装か……」
とは言っても威力にその呪いを振っているのだろう。傷口から何かが起こるということもなかった。
愕然とした顔で、狐女が懐から取り出したハンカチでラングレイの血を拭う。震える声で、まるで叱られる子供のように視線を下げて狐女はごめんなさいと言った。
「……? 何の話だ? しかし、さっきのはプレイヤーか……? 何故突然」
「私のせいなんです」
ギュッと瞼を強く閉じて、狐女は知らずのうちに拳を握っている。
「私の中に居る……その存在を狙って、さっきの子が来たんだと思います」
「中に居る、存在?」
はい。と狐女ははっきりと答えて、ラングレイの瞳を恐れるように見る。
「私、迷惑、かけてますよね?」
捨てられた子犬のように瞳を潤ませる狐女に、ラングレイは仕方がなさそうにため息を吐いてその頭をガシガシと乱暴に撫でた。
「何言ってんだ。龍華じゃあんなの日常茶飯事だ。なんなら、迷宮都市だともっと酷いという。俺は龍華の騎士、降りかかる火の粉は喜んで斬り払う。そんな当たり前のことに、お前が気を使う必要なんてない」
そう言って、優しく笑みを浮かべたラングレイを見上げて……まるで、煌びやかな宝石を見つめるように狐女は瞳を輝かせて口をぽかんと開けて間抜けな顔をした。
「そこのお二人さん」
ほんわかとした空気を纏いつつあった二人の間に水を差すような声が通った。そこに敵意はなかった為、自然に声のした方を見るとそこには机の上に水晶を置き、頭に布を被せて容姿がよく分からない……ただ、声質から女だということが分かる、怪しい占い屋みたいな奴がいた。
「占い、やっていかない? 恋占いって奴だよ」
怪しい占い屋みたいな、ではなく怪しい占い屋だった女はそう言って布の下にある瞳を狐女に向けて続ける。
「貴方の恋、占ってあげようか?」
不思議な声だった。害意のない、好意があるわけでもない、およそ人らしい感情が感じられない、だというのに生気の籠った声。
怪しいが、その不自然な雰囲気が逆に占い師としては有能そうに見える。現れたタイミングも意味不明だが……狐女はふらふらと引き寄せられて、占い屋の前に座る。手を差し出されたので、狐女はそれに応えるようにその手を握った。
《情報連携》
咄嗟に狐女は占い屋の手を振り払う。布の向こうでニヤリと口角を上げた占い屋の女が、魔法の火球による追撃をかけてきた狐女から飛び退く様に距離を取る。
占い用の机と水晶が弾け、しかし不敵に笑みを浮かべる女が手を掲げた。そこから、不可視の波紋が広がる。
脳髄を直接刺激するような不快感に狐女は頭を抱える。突然跪き苦しむ狐女を見て、慌てて駆け寄ってきたラングレイがその身を抱き寄せるが、狐女は脂汗をびっしりかいて頭痛に耐えていた。
狐女は、自分の頭から生えるように出てくる俺の姿を幻視した。俺が耳元で囁く。
《身体を、明け渡せェェ……!》
「ぐっ、うぅ……っ!」
占い屋のフードが捲れ上がる。その下にあった女の顔が嬉しそうにニコニコしている。ぽてぽちというプレイヤーだ。
「無限が失敗した分、私でとりかえさないとねぇ〜」
目を見開いた狐女の、尻尾の一本が逆立った。毛の先まで鋭く尖らせて、ブルブルと鳴動した尾が不可視の波を放つ。それはまるで、ぽてぽちが先程行った事の再現であった。
「うそぉ! 《プレイヤーズギルド》を断ち切った!?」
消えていく俺の幻影……。しかし不敵にニヤつく俺の視線の先は、消えていく三本の尾の内の一本。
これで、残り二本といったところか……。くくく、と含み笑いをしながら俺は消えていった。
「おい、お前……彼女に何をした? ん? てか見たことあるような気がする……」
様子のおかしい狐女を心配してラングレイがぽてぽちを睨みつけるが、当の本人は害の無さそうな顔をニコニコさせて手を振った。
「私の負け! もう何もしないよぉ、バイバーイ!」
ぽてぽちの能天気な声に毒気を抜かれたラングレイ。その隙にぽてぽちは路地裏に消えていく。俊敏な動きだった。相変わらずプレイヤーの逃げ足は早い。
奴を追いかけるような事はせず、ラングレイは自身の腕の中で息を荒くさせる狐女の様子を見る。尻尾の一本が消えてしまったが、それは果たして大丈夫なのだろうか? とかいう事を考えてそうな顔だ。
「ラングレイさん……大丈夫です」
「そ、そうか。とりあえず、今日の所は帰ろうか……」
見るからに憔悴している狐女を、これ以上出歩かせるのは良くないという判断だろう。それにラングレイは鈍感ではない、彼女が何者かに狙われているのは明白だった。
「ラングレイさん、私、私は……私の中には、悪魔がいます」
誰が悪魔だ。俺は狐女の中で憤慨するが身体を奪われている以上、何もできない。
「悪魔……?」
「はい、先程の少女達はおそらく……私の中にいる存在が目的です」
何悲劇のヒロインぶってやがるこのケダモノがぁ……っ! 怒りに任せて俺は暴れた。すると頭を抑えて苦しそうにする狐女。
「ラングレイさん、先に帰って下さい、落ち着いたら帰り……」
「はぁ……バカ言え、お前そのまま消えるつもりだろ? そりゃ、最初はめんどいのが住み着いたなって思ったが、今はそんなに悪くないと思ってる。言ったろ? 厄介事には慣れてるってな」
ニカっと笑うラングレイを見てキュンとした狐女に無理矢理押し返される。グゥッ! ラングレイ! 貴様何をイケメンぽい事言ってやがるこの中年がぁっ!
ザッ! と強く地面を踏みしめる音、身体を奪われて可哀想な俺の救世主がまた現れた。サイドに何人もの半裸のマッチョを侍らせて、中心に立つ半裸のマッチョが長い黒髪を靡かせながら言う。
「ふっ。そこのケモミミ女を渡してもらおうか、奴を復活させたら筋トレに付き合うと言っていたからな。これはものぐさな奴に筋肉の素晴らしさを教える千載一遇のチャンスなんだ」
傍目から見て異様な集団だった。全員が何故か上半身裸で、筋骨隆々な肉体を惜しげもなく見せびらかす様は通行人を遠ざける。ラングレイと狐女、そしてマッチョ集団達の間に隔てる全てを無くした。
右サイドマッチョが何かに気付いて半裸の黒髪マッチョに耳打ちする。黒髪マッチョは頷き、一歩前に出る。
「中々良い筋肉だ。衣服の下でも俺には分かる。なるほどな、竜騎士……と、いったところか、てか見たことある気がするな」
「……見た事ある気がするが! 何者だ、お前らもまた彼女に……っ!?」
突如として左サイドマッチョが飛び出して、その勢いのままラングレイの両肩を掴む。
「ジムに入れっ!!」
「!?」
突然の叫びに、ラングレイは目を丸くした。黒髪マッチョが左サイドマッチョの肩を掴みラングレイから引き離す。しかし今度は、右斜め後ろマッチョが飛び出した。
ラングレイの腕を掴み、上腕から手先まで宝石を撫でるようにしてうっとりとする。
「な、なんだ! なんだなんだ!」
「こらやめろ。ほぅ、護るものがあると強くなるだって? いいね、それは唆る。素晴らしい。なに? 愛国心ゆえに……か、元は外国出身ながらそこまで筋肉を鍛えられるのは、確固たる自分を持つが故って事だな」
右斜め後ろマッチョを引き剥がしながら黒髪マッチョはなにかと会話をしていた。恐らくラングレイの筋肉とだろう。左斜め後ろマッチョがそんな黒髪マッチョの耳に顔を寄せて、何事かを囁く。
「ん? あ、ああ済まない。少し入り過ぎていた……君、ラングレイくんといったかな? 明日にでもここに来なさい」
ハッと正気を取り戻した黒髪マッチョがポケットから名刺のようなものを取り出して投げた。それをキャッチしたラングレイ。
「ド、ドラゴンジム……? 最近話題の?」
名刺を覗き込んで戸惑うラングレイに、踵を返し、フランクに手をあげて去っていく黒髪半裸マッチョ……。
「待っているぜ。俺なら……あんたを高みに連れて行ってやれる」
その言葉を残し、怪力ハングライダーは去っていった。俺は唖然とした。あいつ何しに来たんだ? 何がしたかったのか全く分からなかった。
口調もコロコロ変わるし、ジムの経営者になったとは聞いていたが、今見ていた様はもはや同じプレイヤーとは思えない思考回路だ。でもまぁ、プレイヤーにはそんなのがよくいるので今更であった。
そして、怪力ハングライダーが去ったと思えば、『よく分からない奴筆頭』がついに現れる。筋肉集団が作って行ったドン引き空間、そこへ一切の気負いなく歩いてくる一人の男。
赤い髪に右目の傷。整った顔立ちはしかし虫のような印象を受けさせる。それは人間味の無さからだろう。同じ景色を見ているとは思えない瞳が、そう感じさせてくる。
「レッド……!? お、お前もなのか!?」
ラングレイはかつて、レッドに剣を教えたことがある。そして、もう察していた。この男の目的もまた、狐女なのだと。
腰から剣を抜き放ち、ラングレイは構えた。彼はよく知っている。奴は何をするか分からないが、『なんでも』する。そしてなにより言葉の通じる相手ではない。
でもまぁ殺しても生き返るので、とりあえず一回ぶっ殺しておけば安定だし罪悪感もない。
狐女が、レッドの放つ異様な気配に怖気付き、ラングレイの袖を掴む。その様子を見て、ラングレイは狐女を庇うように立った。
レッドの歩みが止まる。一度瞠目し、感情の無い瞳を狐女に向けた。
「お前では、あいつを抑えることなど出来ない。大人しく、身体を返してやるといい。そうすればあいつは俺と『塔』を登ると言った」
無論その約束はブッチするが、この男が一度こうすると決めたなら……何度死のうと、何年かかろうとそれを実行する。
逃げる方法は他に興味を示す事へ誘導する事だが、それが可能なのは自慢じゃないが攻略組の連中か俺くらい……。
チェックメイトだ。諦めるんだな、そうしないとお前は最悪のストーカーに一生追われる羽目になる。
「いや……! 私、我はっ! この人間と……」
『魔法結界』
レッドという男に空気を読むという機能は搭載されていない。狐女が何やら感動的な雰囲気で何かを叫ぼうとするが、全く意に介する事なくレッドは天に向けて手をかざした。
『俺と君だけの闘争』
レッドと狐女を囲うように箱型の魔法結界が展開される。外から中を伺う事はできず、そして中から外を見ることもできない。
何人たりとも二人の間を邪魔するものはなく、存在するのは闘いの場のみ。壁にも天井にも床にも何の装飾もなく、外からも内からも何の魔法効果も受け付けない、まさに『結界』の中の『結界』……プレイヤーの《力》を超えたレッドの『魔法結界』が、狐女の逃げ場を無くした。
「……とはいえ、《眷属》とは中々面白そうな存在だ。プレイヤーの肉体を奪い、あまつさえ最も強い『繋がり』を断ち切る程の力」
レッドの手の中に一振りの剣が現れる。何度か素振りをして、レッドは正眼に構えた。
「見せてもらおう」
そして、レッドは百回くらい負けた。
最初の一戦はレベルの上がっていたレッドも健闘したが、やはりそこはプレイヤー。なんか特に劇的な展開もなく普通にぶっ殺されて、あとはレベルも下がってしまう事もあり唯の時間稼ぎにしかならない。
実は、死んでもすぐにレベル一にはならず死を重ねて緩やかに下がっていくのが奴の魔法結界の効果だ、とはいえしょぼい。
元になっている《力》はとんでも性能だったらしいが、狐女同様プレイヤーという存在が強力なデバフとなって、元の持ち味を完全に殺してしまっている。
結界解除条件であるレッドの百回討伐が完了したので、魔法結界が砕けて散っていく。箱型の結界から、疲労した様子で出てきた狐女に中へ侵入することが叶わなかったラングレイが心配そうに駆け寄ろうとして
『俺と君だけの闘争』
復活したレッドが即座に魔法結界を展開した。またも箱型結界に囚われる狐女。その後の展開は割愛するが、辺りがすっかり暗くなった三回目の結界発動の時、狐女はついに動いた。
「我は……! お前らなんかに! 彼との暮らしを邪魔されたくなんか、ない!」
強い、意志を込めた瞳が紫電を迸らせる。逆立った尾が、歪に輪郭を変えて四方へ何かを飛ばす。それは、帯状の呪符だった。
レッドの魔法結界はそんなに広くない。縦横無尽に駆け回る呪符の触手を避けることの叶わなかったレッドが簀巻きにされる。
「な、なにっ!?」
狐女との戦いで初めてレッドが動揺した。命の欠片でもある狐女の尻尾を消費した強力な呪い……否、『愛』の力がレッドの動き、だけではない……プレイヤーとしての全能力を封じてみせた。
「す、素晴らしい……! 俺は、まだ上へ……っ!」
しかしそれは精神の強さによって覆せる類のものらしい。もはや人として、生物として超越した精神を持つレッドにとって、新たに見つかる伸び代というものは興奮するに足るものであった。きもいっ。
プレイヤーが最もリソースを割いている力は『観測』だが、プレイヤーをプレイヤー足らしめているのは『各個体』との『連携』。不死なるプレイヤーズギルドという母体を持つが故に、魂の領域で他のプレイヤーと繋がっている事こそが、プレイヤーを厄介な存在にしているのだ。
狐女が、レッドを無力化する為に選んだのはぽてぽちによる干渉を弾いた時に到達したその領域。
しかしそれは不死なるプレイヤーズギルドという超常存在へ喧嘩を売る行為そのものであった。
「ぬおぉおぉ!」
レッドが全力で《情報連携》により、《プレイヤーズギルド》への繋がりを保とうとする。それに必要なのは、精神力……つまりレッドの領分であった。
「う、う、ぐっ」
狐女が眉を顰め、膝をついた。レッドによる思っていた以上の抵抗に『呪い』が負けそうになっている。一度、瞼を強く閉じて狐女は決意する。
狐女の、最後の尾の一本が逆立った。
命を賭けて、狐女は選択した。
「さっきの尾に込めたのは、『我の想い』。それは、例え命を天秤に掛けたとしても……負けさせる、わけにはいかないものだっ!」
狐女の最後の尻尾が蒸発した。
呪符を通じて、狐女はレッドの……レッドの精神性そのものに喧嘩を売る。真っ向から別の手を使わず、『先程』の呪符を強化する形で最後の尾を使用した。
もし、レッドの意識を眠らせるなどの手を使っていれば、それで狐女の勝利は確実だった。
俺は、目頭を抑えて感動した。
素晴らしい。この狐女は、確実な勝利よりも、『愛』の強さの証明に力を使ったのだ。それは、簡単にできるようなものではない。ましてや自分の命を掛けていたなら尚更だ。
だが愚かであると、俺の口角が自然に上がる。
例えるなら精神世界で。
単身でレッドの精神領域へ踏み込もうとする狐女の前に何者かが立ち塞がった。
『き、貴様はっ!?』
精神世界の狐女が驚愕に顔を染める。
その何者かは、含み笑いを隠せず両手を広げて言う。
『くくく、ここから先は行かせねぇよ……お前は、ここで、行き止まりだ』
そう、もちろん俺である。
レッドへの対抗に力を割いている狐女の前に、今の今まで力を蓄え万全の精神力を持った俺が立ち塞がる。
狐女は俺という肉体に寄生する存在、その為俺という存在は精神世界において現実以上に狐女の天敵となった。
何故なら、肉体の真なる主導権は俺、所詮居候の分際が元の家主に勝てる道理は無いのだ。
狐女もそれを分かっていて、悔しそうに唇を噛む。万策尽きた。一瞬、そう考えたのだろう絶望が狐女の顔に……浮かび掛け、俺にぶち当たる謎の人型を見て目を丸くさせた。
『ぐおぉっ!』
精神世界に俺の呻き声が響く。一体、二体、謎の光で包まれた人型が俺にぶち当たる。それは知らないプレイヤーだった。
知らないプレイヤーが俺の動きを封じていく。その数はどんどん増えて、狐女を囲うように、いや背を押すように寄り添った。
『狐ちゃん、頑張れよ』
親指を立てる知らないプレイヤー。
『あいつは、俺達に任せろ』
ニヒルに笑う知らないプレイヤー。
『私達が背を押すからさ!』
狐女の背に手を置いて、笑顔でその手を押し込む知らないプレイヤー……!
数百体に及ぶゴミ共が、まるで一つの流れのようになって狐女を乗せていく。その激流に俺の精神体はまるで紙切れのように押し流されていく。
『く、クソォぉぉ!』
俺の断末魔の声が小さくなっていく。
まるで天の川の様にプレイヤー達が狐女に道を作る。やがて、呪符で雁字搦めになって尚、呪符を黒く汚染し返すレッドの前に狐女が辿り着く。
凄まじい精神力だった。対峙するだけで消し飛びそうになる威圧。狐女が後退りかけて……いくつもの手が彼女の背を押した。
一歩、狐女が前へ出る。背を押す手は増えていく。レッドが顔を上げた。
『無駄だ、俺は、その程度で止められない』
それは事実だった。いくら何百ものプレイヤーが集まろうと、レッドに精神のイカれ具合では勝てない。
なので多数決になった。
いきなりレッドの目の前に現れた《不死なるプレイヤーズギルド》ことぷち子がガンガーン! と、木槌をレッドの頭に叩きつけて判決を言い渡した。
「《牢獄》ゆき」
プレイヤーの多数がそれを求めた為、母体であるぷち子は特に何か考えるわけでもなく無慈悲に執行する。
レッドは封印された。
崩壊していく魔法結界。
暗くなった空の下、ずっと狐女のことを待っていたラングレイが心配そうに眉を歪めて倒れる狐女に駆け寄った。
外傷は無いにも関わらず、狐女の身体には力が入っていなかった。それがどうにも不安でラングレイは肩を抱く。
「どうした? 早く帰ろう」
「ラン、グ……わ、わた、われは……」
息も絶え絶えに、狐女は涙を一筋流す。呆気に取られたラングレイの頬を撫で、狐女は柔らかな笑みを浮かべた。
「ずっと、一緒に……」
狐女の瞼が閉じて、それを皮切りに指の先から光の粒子となって空へ昇っていく。まるで夜空に浮かぶ星の様にきらきらとした光は、愛おしそうにラングレイを包む。
やがて、ラングレイの腕の中には何も残らなかった。呆然と、彼は空を見上げて涙を流す。胸の中にある喪失感、それでも残った確かな『もの』は、一体何なのか。いつか分かる時は来るのだろうか。
*
モモカさんと店で談笑しながら珈琲を飲んでいると、ちりんちりんと軽快な鈴の音が来客
を告げる。
元魔王軍幹部のツェインくんが、整った顔立ちに笑顔を浮かべていらっしゃいませと言うと、その客はすぐ俺の隣に座った。
「よぉ、魔女。なんか久しぶり? だな」
来客とはラングレイだ。俺は珈琲を啜り、テーブルに置いてから口を開く。
まぁ、俺からしたらそうでもないんだがな。
俺の答えに、不思議そうに首を傾げるラングレイ。コイツ、マジでずっと俺の身体に気付いてなかったのか……。
何のようだよ? 俺が聞くと、ラングレイは俺に対して首を振る。
「いや、お前じゃない。モモカさんにサトリ様から渡して欲しいものがあると言われてなぁ、急ぎで持ってきたんだ」
ほぉ、俺に見せてみろ。ラングレイが懐から取り出した小包を俺が奪おうとすると、高い所へ手を上げて躱し、すぐにモモカさんに渡した。
「あらー、それはありがとうございますぅ」
ニコニコと受け取ったモモカさんも中身は分からないらしい。小包を軽く振って音を確認している。
すると、その間にもうラングレイは立ち上がって去ろうとしていた。
おい、一杯くらい飲んでいかないのか? 俺が聞くと、ラングレイは親指で店の外を指した。
そちらの方を見ると、ガラス越しに女の後ろ姿が見えた。長い黒髪は腰まであり、頭頂部には三角のケモミミらしきもの。俺は確認してすぐラングレイの方を見る。
「ちょいと、連れを待たせているんだ。今日のところはもう行くよ」
もう一度、俺はラングレイの連れが立つガラスの向こうを見た。黄金の尻尾を一本、フリフリと機嫌よさそうに振っている。
まさかな……。俺はフッと笑う。
店を出たラングレイに気付いた女が、まるで花が咲いたような笑顔を浮かべる。
「ラングレイ! 我は甘いものが食べたい!」
「はいはい、一個だけな?」
ラングレイは仕方がなさそうな笑顔を浮かべて女の頭をガシガシ撫でる。どこか、親子染みた印象を二人に受けるが……それは時間の問題なのかもしれない。
「あれ? ぺぺさん、どうしたんですかニヤけて」
いえ、なに……。春の訪れってやつを感じたものですからね……。
モモカさんが首を傾げる。俺は去っていく二人の背から目を離し、珈琲を口に含んだ。
誤字確認のため107話を読み返す笑石
「……??」