勝負、その後
ーー負けた……。
ふたりの審判は、スリーポイントショットのジェスチャーはしていなかった。
それでも、遠くから見ていた高岩は、自分達の負けを認識した。
それは、体育館にいる他の者も同じに違いない。
ただひとり、勝った千葉を除いては。
「……な、なんとか」
千葉は、鉛のように重い足をひきずりながらコートを出ると、壁際のベンチに崩れるように座り込んだ。息荒く、疲れ切っている千葉を見て、「あいつも人間なんだ」と、奇妙な声が聞こえたが、それに感想を抱く体力すら残っていなかった。
五百ミリリットルのペットボトルに、四分の三ほど残っていた水を一気に飲み干し、千葉はベンチに横たわった。
「大丈夫か?」
立ち上がるのも忘れて呆然としている良野に、国見が声をかけた。
良野は自分の体に意識を向けた。左腕が痛いような気がしたが、大したことはなさそうだ。
「え、あ……はい……。すいません、最後のは……」
言うと、自責、後悔の念が増しそうで言葉が出なかった。それを察したのか、国見が言葉を引き取った。
「ああ、良くなかったな。でも、負けたくないっていう気持ちが強いという点は評価できる。もちろん、二度とやってもらいたくないが」
「……はい」
ーー負けたくない……。
自分の肩を叩き、励ましてくれる国見の言葉を、良野は素直に受け止められなかった。自分が手を伸ばしたのはそういう理由なのか?
いや、違う。自分がイージーなショットを決めていれば、結果は違ったはず。あれは、不甲斐ない自分のミスを取り返そうというちっぽけな虚栄心だ……。反省しないと。
「よーし、試合に出た者は各自でアップ! それ以外の者は練習を始めるぞ! ランニング!」
良野の無事を確認した国見は、振り返り、大声で指示した。
試合に出なかった部員が、一団になって走り始めた。負けのショックが残っているのだろう、みな一様に言葉がなく、さえない顔をしている。
試合に出ていた部員達も、力なくコートを出て行くと、壁際に座り込み、誰ひとりとして口を開かなかった。
ーーまるで大会で負けたみたいだな。この負けを次につなげないと……。
国見は、改めてこの試合の意義深さを実感した。乗り越えさえすればだが、超高校級のプレイヤーとの試合は絶対プラスになる。国見は、バスケ部にその貴重な経験をもたらしてくれた者の所へ行った。
「やるなあ、正直言って驚いたよ。いや、驚いたなんてもんじゃないかもな。俺も多くのプレイヤーを見てきたけど、その中でもトップの部類に入るよ、もちろん大学も入れて」
ベンチに横たわり、顔にタオルを乗せていた千葉が、呼びかけに反応してゆっくりと起き上がった。国見を見る表情からは、千葉が想像以上にスタミナを消耗していたことが見て取れ、眠そうなその目にいたっては、文字通り全力を出し切ったということを如実に物語っていた。息はまだ荒く、応える声も小さい。
「それはどうも……。でも、何分……やりましたかね、情けないことにもう……バテバテですよ……」
「ブランクがあるなら当然だろう? それでも、決着が着くまではしっかりともったじゃないか」
「まあ……なんとか」
「ふむ。それで高岩の話によると、きみが入部するかしないかは、この勝負の勝敗ではないということらしいが?」
「…………」
「きみのプレイを見る限り、きみがバスケへの情熱をなくしてしまったなんて、俺には微塵も感じられなかったよ。それどころか、コートの中で最も熱かったのは君だった。なあ、本音を聞かせてくれよ、今でもバスケのことが好きなんじゃないのか?」
「まあ………どうでしょう……」
千葉が長い沈黙のあと、蚊の泣くような声で答えた。
「そうか、きみが入部しないとしても、否定の言葉を聞かなかっただけよしとするか。きみみたいなプレイヤーが、バスケに熱くなれないなんて寂しいからな。それに、どんな理由でバスケから距離を置いているかは知らないけれど、あのプレイを見る限り、きみはまたバスケに戻れるだろう。まあ、それが卒業前だったら言うことないんだけど」
少しは笑ってくれるかと思ったが、千葉は表情を変えなかった。
「……さあ、それは…………では、俺はこの辺で」
千葉は立ち上がり、軽く頭を下げた。振り返り際に、ちらっと高岩の方を見たが、すぐに視線を外し、体育館を出て行った。そのせいで、高岩の、悔しいのか怒っているのかわからない表情が一層険しくなった。
ーーすごかった……。
ギャラリーの隅でこっそり見ていた香織は、息詰まる緊張感からようやく解放されたところだった。握っていた拳を開くと、掌はすっかり汗ばんでいた。
ーーあの人、わたしと同じ一年なんだよね……?
中学時代、香織は男女の別なく高校生の試合にも足を運び、自身も県代表に選ばれたこともあった。そうして常に高いレベルのバスケに触れていた香織にとっても、千葉のプレイは異質だった。同じく青森の県代表だった薫が、あれだけ固執していた理由が今なら理解できる。
ーーでも……。
香織は悲しい気持ちになった。バスケ部が負けたということは、千葉は本当に入部しないのだろうか。だとしたら、薫は今とても悔しがっているに違いない。ことによると、何カ月も引きずるかもしれない。薫は八つ当たりをするような人間ではないが、悔しさを吐き出すことなくグッと堪え続けるだけに、その姿は見ていてとても辛くなる。
「はあ……あ、しまった……」
香織はお忍びでの観戦だったことをすっかり忘れ、その場を離れようと普通に立ち上がってしまった。
「誰かいる」
ランニングしていた部員に気づかれてしまった。その人の声に反応して、体育館の視線が香織に集まる。そして次々と声が上がった。
「女子だ!」
「誰?」
「あれって女バスの子じゃ……?」
「なに? 見に来たの?」
「てか、かわいくね?」
私のせい? ランニングしていた部員に明るさが戻った。とても恥ずかしい。香織はすぐに深々と頭を下げ、ほとんど小走りのような早歩きで体育館を出た。
* * *
顔、特に耳が熱かった。多分真っ赤に違いない。香織の頭の中では、さっきの恥ずかしい場面が繰り返し流れ、止まる気配がない。
「……ふう、恥ずかしかった」
香織は駆け込むように更衣室に入り、しばらくぼうっとしてようやく落ち着いた。さっきの映像も止み、頭は練習までの時間をどうするかに切り替わっていった。
ーー図書室にでも行こうかな……。
* * *
一階の玄関近くにあるちょっとした広場。昼時には購買が設置され、放課後にはダンス部が活動する場だ。
その広場には、隣に、三方を廊下に囲まれた十メートル四方の中庭がある。中にはベンチが六つあり、昼や放課後の憩いの場、あるいは授業をサボった者のひなたぼっこの場にもなっていた。
千葉はそのうちのひとつに横たわり、空を眺めていた。
「なんかなあ……」
もどかしいという表現が一番合っているだろうか。ことバスケットボールに関しては、超がつくほどの負けず嫌いである千葉にとって、苦しい戦いを制したことは喜ぶべき事であるはず。しかし、勝った瞬間の充実感はあったものの、それも今やすっかり影を潜め、言いようのない気持ちになっていた。
ーー……勝って終わりじゃないんだ。
しばらく空を眺めていると、千葉は、今回の勝負は勝敗を決めることが目的ではなく、自分が入部するかどうかを決めるためのものであることを思い出した。単純に負けたら入部、勝ったら入部しないという話だったらどれだけ楽だったことか。仮に負けていたとしても。
「高岩め……」
複雑だ。本当に引退試合のつもりだった。それに、本気を出すことなく勝てるだろうとも思っていた。
だが、厳しいゲームになった。そして、それに夢中になっている自分がいた。バスケが面白い。ゲームが楽しい。そんな単純なことを改めて実感したのだ。
ーー俺は基本的なことを見落としていたのかもな。
肯定的な考えが出てくるようになったが、それでもまだ、千葉は踏み出す気にはなれなかった。
それくらい、千葉の前に現れた壁は高かった。
他のプレイヤーなら、その壁は特別として、意識しないようにできるかもしれない。
しかし、千葉のバスケに費やしてきたものは、そうするにはあまりに大き過ぎた。
意識しないわけにはいかない。
千葉は真っ向から受け止めて、そして敗れた。
バスケを続ける限り、常に自分のはるか先には、その同学年のプレイヤーがいるのだ。
追いつけない相手を追い続ける自信はなかった。でも……、
「うううぅ」
タオルを顔に乗せた千葉から声が漏れる。
「なにうなってんのよ?」
「三島!? なんで? 練習中じゃ?」
驚いてタオルを払うと、三島が目の前まで来て千葉を見下ろす。
「抜けてきたのよ。うちの監督は話がわかる人みたいね。わたしがあなたと同じ中学で、少し話してきたいって言ったら、ぜひ行ってこい、ってさ」
三島は少しだけ呆れたように言った。千葉は見下ろされている状況が気に入らず、体を起こした。
「なにが、きみが一番熱いだよ。自分の方が熱血じゃないか」
「そうね、高岩君よりも強者かもしれないわね。それより、あんたどうするつもり?」
「どうもなにも……」
千葉は手を頭の後ろで組んで空を仰いだ。
「夢中になってたじゃない」
「まあ……」
天を仰いだまま答える。
「じゃあ入るんだ?」
「……いや、それは……」
「なに、その煮え切らない態度? はっきりしろよ」
視線を三島に戻すと、眉をしかめ思い切りにらまれていた。
「まあ、確かに、さっきのゲームは、バスケへの欲求みたいなものを思い出させてくれたけど、でも、それと部活でバスケをやることとは直結しねえかな。おまえも覚えているだろ、あの試合」
「ええ、もちろんよ。あのマッチアップから、あんたはおかしくなったんだから」
「あれ以来、モチベーションというか、向上心というか、そういったものを維持する自信がなくった。部活しても、きっと続かねえよ」
「くだらない……」
三島が絞り出すようにつぶやいた。
「え? なに?」
「くだらないって言ったのよ! ばっかみたい!」
「はっ!? なんだよ! 人がせっかく本音を言ってやったっていうのに!」
千葉はつい怒鳴ってしまった。自分の苦しみを、くだらないの一言でかたづけられたのがむかついた。
滅多に怒らない千葉の剣幕を見て驚き、三島は一瞬たじろいだ。だが、涙目になりながらも食ってかかる。
「うるさいっ! まったく、ぐちぐちと女々しいこと言いやがって! あんたみたいなバスケバカは、余計なこと考えずに練習すればいいのよ! 負け続けたっていいじゃん! 途中でやめたっていいじゃない! そうやって悶々としてるより、ずっとマシよっ!」
「な……! そ、そんなの俺の勝手だろ! おまえには関係ねえじゃねえか! ほっとけよ!」
三島の目が大きく見開かれた。そして顔が引きつった。
「死ね! バカッ!」
三島は走って中庭を出て行った。
「死ねって………………なんだよ、くそっ!」
千葉はむしゃくしゃして拳でベンチを叩いた。しかしその痛みで、よりいっそうむかついた。
「あんなのに期待してたわたしがバカだった!」
あんな奴のために涙まで流すなんて。三島は目を思い切り腕でこすった。メイクが取れようが関係ない。涙が出ていることが屈辱。
認めてもらえなくても、せめて千葉のプレイをそばで見ていたい。
バスケがなによりも好きな三島が、プレイヤーであることを捨ててまでマネージャーになった理由。
お世辞にも部活に力を入れているとはいえないこの学校を選んだのも、千葉をバスケに引き戻し、コート上で力強く、華麗に舞う姿を、一番近いところから見るためだった。
だから、千葉がたった一回負けたくらいでバスケを辞めたのが信じられなかったし、許せなかった。
自分が絶対に引き戻し、雪辱を果たすまで発破をかけ続けるつもりだった。
千葉にはそれができると信じていた。
しかし、高校に入り、環境が変われば、変化させられる思っていた千葉のバスケへの熱意は、三島が思っていた以上に枯れていた。高岩という、大いに千葉の興味を引きそうな素材をもってしても、千葉をバスケに引き戻すには至らなかった。
ーーわたしはなんのために……。
千葉をバスケに引き戻すのは、長くともにバスケをしてきた自分の責務だと思っていた。まだ高校生活は始まったばかり。だが、自分と千葉では、あまりに考えに隔たりがある。今後、バスケについて冷静に話せる自信がない。
いや、むしろ、千葉と会話すること自体が……、
「あ……」
「……ん?」
声に反応して顔を上げると、同じクラスの高岩香織が立っていた。不自然なくらいにおどおどしている。
「なに?」
「え、あ、いや、別に……」
「ふん……」
なにもなさそうだったから、高岩香織の言葉が終わる前に通り過ぎることにした。なにかあったところで、相手をするつもりはなかったが。
ーーす、すごい迫力……。でも、今練習中なんじゃ……?
触れたら大怪我してしまいそう雰囲気をまとった三島の姿が見えなくなると、香織から一気に全身の力が抜けた。彼女はどこでなにをしていたんだろうと思ったが、考えてもわからないだろうから、あまり深くは考えず、香織は気を取り直して図書室に向かうことにした。
「あ、中庭!」
一階の広場の前に来て、香織の気が変わった。
入学して最初に中庭を見て以来、香織はその雰囲気に惹かれていた。そして、そこでのんびり過ごしてみたいという思いを抱いていた。しかし、昼はすぐにベンチが埋まってしまうし、放課後はたいてい部活のためにのんびりできる時間がなかった。バスケ部が休みの日でも、放課後は、広場ではダンス部が音楽をかけながら活動していてのんびりとはいかない。そもそも放課後も、常に何組かはベンチに腰掛け談笑している。
だから、校舎内にかかわらず空が望めるという小さな中庭で、その静謐な雰囲気に浸りながら、ひとりのんびりと日なたぼっこしたいという願望はいまだ実現していなかったのだ。しかし、今は日曜日の午前中だからか、広場には誰もおらず、中庭も、見える範囲では誰もいなかった。
ーー誰もいませんように……。
香織はわくわくしながら中庭のガラス戸を開き、中をのぞいてみた。
「あっ!」
そして思わず大声を出してしまった。
「ん……? あ……!」
その姿に、千葉は慌てて体を起こした。
ーーなぜ、彼女がここに!?
学校にいるなんて微塵も思っていなかった、それでいて気になる女子の登場に、千葉は一気にパニックに陥った。そして、当然のごとく言葉に窮する。
ーーやばい……どうしよう。
香織も驚いているのか、目が合ったままなにも言わない。
「あ、あの!」
ようやく言葉が出た。千葉は無意識に立ち上がっていた。
「はっ、はいっ!」
香織が、かしこまったように背筋を伸ばした。
「こ、この前は……」
そこまで言って千葉ははっとした。入学式の日にすれ違い、別の日にたまたま階段でぶつかりそうになっただけの人間のことを覚えているだろうか? そんなささいなことだけで覚えていたら、気味悪いと思われやしないか? まずい、自分の顔がどんどん赤くなるのを感じる。
「あ……あ、この前はすみませんでしたっ!」
千葉がなにかを言う前に、香織が深々と頭を下げた。よかった、覚えていたみたいだ。
「あ、いや、気にしないで下さい! 全然気にしてないですから!」
だったらなんでそのことを持ち出したんだよ! 千葉は言ってて自分が恥ずかしくなった。
しかし、香織はかわいらしくにこっと笑った。
「そうですか、よかった!」
屈託のない笑顔で見つめられ、千葉の顔がほころんだ。その笑顔を一秒でも長く見ていたい。だが悲しいかな、緊張した千葉は思わず視線を反らしてしまった。その時初めて、香織のスポーツバッグに目が留まった。
「……部活ですか?」
「あ……」香織は自分のバッグに目をやった。「はい、そうなんです。ちょっと早く来すぎたので、ここで日なたぼっこしようかなって……」
「そうですか……なんの部活なんですか?」
「え、えっと………………バスケ部です」
「バスケ部? あ、そうですか……」
バスケ部……。
「はい、一応…………すみません……」
「え、いやいや! なんで謝るんですか!?」
「あ、いえ、ごめんなさい………………あ、あの、千葉さんは? それ、バッシュですよね?」
聞きづらいことでも聞くように、香織はぎこちなく質問した。
「あ、はい。えっと、クラスメイトに部活の見学に来ないかって誘われて……。それでちょっと行ってきたんです」
当然だが、本当のことは言えなかった。
「そ、そうなんですか。それで………………入部……するんですか?」
答えにくい質問だ。千葉はつい下を向いてしまった。
「えーっと……迷ってます。本当は高校でバスケをやるつもりはなかったんですけど、その……さっき言ったクラスメイトなんですが、これがなかなか面白い奴なので……わからないですけど」
答えながら、千葉は別の緊張を感じていた。バスケをやらない理由を聞かれたらどうしよう。嘘はつきたくないし、バスケ部である彼女に、バスケへの熱が冷めたとも言いたくない。
「それなら絶対やった方がいいですよ! 千葉さん、バスケうまそうな感じするし! 試合の時とか、応援に行きますよ!」
香織の顔が一気に明るくなった。その笑顔があまりにかわいくて、千葉の緊張がやわらいだ。
「はは、ありがとうございます。でも、あまり期待はしないでください。まだわからないので……」
言葉を間違えてしまったのか、香織の顔が一気に紅潮していく。
「あ……ごめんなさい! 余計なことをペラペラと……。あ、あの、わたし……やっぱり図書室に行きます! え……っと、お疲れ様です!」
「え、いや、あの……」
香織は深々と頭を下げ、逃げるように中庭を出て行ってしまった。
ーーバカバカバカバカバカバカッ! わたしのことなんてどうでもいいじゃない! なんで余計なこと言っちゃうの! わたしが応援に行ったからなんだっていうの、千葉さんには関係ないじゃない! あー、変な女って思われたかなあ……。今度会ったら、もっとちゃんと謝ろ…………………………わたし、謝ってばっかだな……。
「はあ……」
香織は自分に呆れた。図書室に向かう足が重くなった。
ーー……そっけなかったかな。
千葉は人見知りではないが、気になる女子を前にすると、どうしても緊張して固くなってしまう。そしてそのせいでどこかそっけなくなってしまうことは、自分でもなんとなく気づいていた。そのために苦い経験すらしたのだから。
千葉は再びベンチに腰を下ろし、空を見上げた。
三島とのやりとりはすっかりどこかへいっていた。
代わりに、頭の中では香織との会話が繰り返し再生されていた。なにがいけなかったのか、おそらくほとんどなのだろうが。
勝手に続く反省をしていると、千葉は妙なことに気がついた。
「……千葉さん?」
ーーなんで名前を知ってるんだ?
いろいろ考えてはみたが、これといったものは出てこなかった。自分にとって都合のいい解釈も、持ち前のネガティブさがことごとく一蹴してしまう。このまま考えても、本人に聞きでもしない限り、答えは得られないことはわかっている。それでも悔しいかな、千葉の頭は、様々な可能性をふるいにかけるという無駄な作業を続けていた。
「っは……くしゅん!」
四月にしては暖かいとはいえ、千葉は試合が終わってからまだ着替えていなかった。体がすっかり冷え切っていた。
千葉は急いで着替えを取り出した。しかし、そうして思考が香織から離れ、フラットに戻ったからか、ある部分のタガが一気に崩れた。
千葉はシャツの裾をつかんだまま数秒硬直し、決断した。
ーーやるか。そんで……行くなら、すぐに行こう。
勢いよく立ち上がると、千葉はバッグを無造作につかみ、中庭を出た。
失った情熱、いや、情熱を失ったと思い込もうとしていた自分を、あの勝負は再び燃え上がらせてくれた。
壁がなんだ。苦痛がなんだ。大きいほうが越えがあるじゃないか。むしろ同世代にとてつもない壁があるのは幸せなことではないのか?
死に物狂いで挑戦しろ。
「ったく、三島の言うとおりだぜ……」
* * *
「もっと強くだ! そんなパスじゃ、ディフェンスを揺さぶれないぞ!」
練習は一対一が終わり、パス練習に移っていた。
トライアングルパス。三カ所にわかれ、一辺が六、七メートル程度の三角形を作り、点から点へと一方向にパスを回しながらローテーションしていく。パスもチェストパス、バウンズパス、オーバーヘッドパスと、国見の指示に従って変えていく。
スクエアパスに比べ、シンプルで見た目も地味ではあったが、狭いスペースで、ボールも一個しか使わないため、パスが弱かったり、精度が低かったりすると、すぐに国見の檄が飛ぶため、部員達にとってはなかなか気の抜けない練習となっている。
「上半身と下半身の動きが合ってないぞ!」
「ためるな! 受けたらすぐリリースだ! いくらパスが強くても、リリースまでそんなに時間かかってたら、フリーで渡らないぞ!」
「ほらあ、怖がるな! しっかりボール見てキャッチしろ!」
「中村! 力むな! あごが上がってるぞ! しっかりしめろ!」
「ターゲットハンドは飾りじゃないぞ! 意識して出せ! パスを出す方も、狙うのはそこだぞ!」
「早く、正確に、早く、正確にだ! それが染みつくまで、一挙手一投足すべてを意識しながらパスを出せ!」
地味な練習だが、見過ごされていたパスの基礎向上のために新たに取り入れた効果は大いにありそうだ。
控え組がパス練習をしている間、スタメン組はまだベンチに座り、おもいおもいにストレッチとは名ばかりの休息をとっていた。
「負けちゃいましたね……」
ただベンチに座っているだけの戸田は、同じくただベンチに座っているだけの良野に話しかけた。
「負けたなあ、とんでもない一年だったな。チームにくわわってくれれば心強いんだけど……」
「そうすか? 別にいいじゃないですか」
戸田の声がつい大きくなった。あんなのと一緒に練習や試合なんてやりにくくてしょうがない。
「おいおい、なに言ってんだよ? あれ見てよくそんなこと言えるなあ」
良野があまりに目を丸くしたため、戸田は少し気まずくなった。
「まあ、うまいのは認めてやりますけど……なんか気に入らないですね。あんたらとは違うんだよオーラがビンビン出てて。まあ、なめられてんすよ。だから入部もしないんです」
「そうかあ? ものすごい真剣にプレイしてたように感じたけどなあ。俺にはむしろ、勝利への気迫がビンビン伝わってきたけどな」
「うっ……ま、まあ、いずれにせよ、奴は勝ったんだし、これで一緒にやることもなくなりましたね」
「でも別に、勝ち負けで決めるわけじゃないんだろう? だったらまだわかんないじゃないか?」
「いやあ、そうは言っても、こういう場合は普通、負けて入部って相場が決まってるじゃないですか。勝ったのに入部したら嫌みですよ、嫌み! 弱い君達を、僕が全国へ連れてってあげよう! ってね!」
「そりゃ短絡的だろう。俺達と試合して、単純にまたバスケがやりたくなるってこともあるだろ?」
「いーや、あいつはひねくれてますからねえ。そんな単純な考えは通用しないっすよ!」
「ははは、ひねくれているのはおまえだろ」
「ぐっ……」
いちいち的確な指摘に、戸田はついに返す言葉がなくなってしまった。
ーー負けてしまった……。
他のメンバーから少し離れた場所に、高岩はひとりベンチに腰掛け、前腕を脚に乗せ、床を見つめていた。
自分が言い出したのだから、入部が勝敗によって決まるのではないことは重々承知している。
だがそれでも、勝つことが千葉入部の最低条件だと考えていた。もっと言えば、負けてしまったら、もはや誘う資格さえないと考えていた。自分の不甲斐なさに心底嫌気が差す。
なぜ、あと一瞬早く反応しなかったのか?
なぜ、あと一歩を踏み出さなかったのか?
なぜ、あのスティールを許してしまったのか?
なぜ、もっと死力を尽くさなかったのか……。
最悪だ。頭に浮かぶのは、自らのプレイの甘さに対する後悔ばかりだ。
ーー俺は自分を決して許しはしない…………ん?
それまで体育館に響いていたはずの練習の声、ボールが跳ねる音や、バッシュと床がこすれる音が止んでいた。
高岩は反射的に顔を上げた。その目に予想外の光景が飛び込んできた。
「千葉!?」
高岩はびっくりして立ち上がった。千葉が、周囲の注目を浴びる中、静かに国見のもとに歩み寄る。そして一言、二言と会話を交わすと、国見がおもむろに部員達の方へ向き直り、体育館中に響き渡るように言い放った。
「紹介しよう! 今から成条高校バスケットボール部の一員となる、千葉だ!」
「なにいぃぃぃ!?」
戸田は叫んだ。他の部員も戸田に劣らず一様に驚いている。初日から新入生らしくない落ち着きを発揮していた三島ですらも、信じられないといった様子で大きく目を見開いていた。
「どうして……?」
戻ってくる素振りなんてなかったのに。
三島の視線に気がついた千葉が、こっちにくる。
「な、なによ……?」
周囲の注目が三島に集まる。顔が引きつった。
そんな状況や三島の気を知らないのか、千葉が少し照れ笑いを浮かべた。
「……さっきは悪かったな」
その瞬間、三島はかなり強めに千葉の腹を殴ってやった。
千葉が体をくの字に曲げ咳き込んだ。
「ホッッッッッントよ!」
「うぐ……なにも殴ることは……」
「…………これでチャラにしてやるんだから、ありがたいと思え」
三島はほっとしてしまった自分がいることが悔しかった。千葉には十回生まれ変わっても気づけないだろうが、それを悟られるのが嫌だから、三島はすぐにその場を離れた。
「……ったく」
気配でわかったが、顔を上げると三島はいなかった。
「なんだ?」
「あの二人の関係って?」
「付き合ってんのか?」
「で、ケンカしてたってか?」
「んで、あれで仲直り?」
「えー、三島さん、けっこう気になってたのにな……」
「てかあの子、あんなに気が強かったとは……」
「はいはい! もういいでしょ! 練習再開よ!」
周りの野次を、山原が諫めた。千葉としては筋を通そうとしただけなのだが、これだけ注目が集まってしまうと、確かに恥ずかしいかもしれない。
だが、筋を通したい相手がもうひとりいる。
「千葉、おまえ……」
前に立つと、高岩が気の抜けたような声を出した。
「なにも言うな!」
熱い歓迎の言葉は照れくさいだけだ。
「う……」
「まあ……よろしく」
「あ……ああ! こちらこそ!」
高岩に右手を取られ、両手で強く握られた。短い付き合いだが、これまでの高岩からは想像もできないような嬉しそうな顔に、千葉は苦笑してしまった。
「だから、熱いっつうの」