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TIP OFF  作者: なかお ゆうき
2/8

入学式の日

 節操のない学校。

 それが都立成条高校に対する千葉の第一印象だった。

 入学式にはまだ一時間近くあったが、校門はすでに多くの新入生で賑わっていた。

 しかし千葉の第一印象の原因は、校門のそうした喧騒ではなく、彼、彼女らの格好にあった。学ランやブレザーといったごく普通の新入生らしいものから、スーツや着物、果ては、休日に友達の家にでも遊びに行くかのようなラフな格好をしている生徒まで、統一感がまったくない。成条高校に制服がないことは分かっていたが、この状況を目にすると、校門の横に立てかけてある『都立成条高校入学式』という立て看板だけが、今日入学式があることを実感させてくれる。

 それに、高校の入学式といえば、親の姿もそれなりに見られる気もするが、校門にそれらしき姿はほとんどなかった。実際、数少ない親同伴の新入生は、この入学式らしからぬ校門の光景に戸惑いの色を隠せないとみえ、逃げるように玄関へと消えていく。ただその点は、千葉自身も母親の参列を、気恥ずかしいという理由だけでかたくなに拒んだわけだが、どうやらこの学校には、同じ考えをもつ生徒が少なくないようだ。

 そんなことを考えながら玄関に向かっていると、千葉は自分が周囲の視線を集めていることに気がついた。

「またか……」

 思わずこぼしてしまった。中学の時のブレザーという比較的多く見られる格好をもってしても、百九十近いこの体の威圧感を消す効果はないようだ。長身率が高いバスケの試合会場でもそうなのだから、無理もないことだと理解はしているが、容姿にまったく自信がない千葉にとっては、ただ居心地が悪くなるだけだった。玄関へと向かう足が自然と速くなる。

 下駄箱の代わりとなる個人用ロッカーが並ぶ狭い通路の一本に逃げ込むと、千葉はリュックから上履きを取り出した。この学校は制服だけでなく、上履きの指定もないため、千葉のは中学時代に使っていたバッシュだ。足を入れ、履きやすくそれでいて脱げにくいようにひもを調整し……後ろに誰かいる?

「すまない」

「おわっ!」

 振り返りきる前の呼びかけに心底驚き、千葉は出したこともないような大きな声を出してしまった。

「えっ? あ……でっけえ……」

 すぐに目をやると、相手の顔が見えないことで再び驚いた。一歩下がって、普段はまず行うことのない見上げるという動作をすると、二メートルぐらいあるだろうか、まるで重量級の柔道選手のような体格の男が立っていた。

 その学ランの大男が、威容に言葉を失っている千葉を気まずそうに見つめている。

「……通してもらえるか?」

「あ……ああ、悪い……」

 千葉が慌ててはじによけると、大男は小さく頭を下げ、堂々とした足取りで通り過ぎて行った。

「あれも一年なのか? 信じらんねえなあ」

 彫りが深く目鼻立ちがくっきりしているせいか、とても高校生には見えない。

 千葉がしばらくその姿を見送っていると、また背後で気配がした。今度は少し距離感があったが、振り返ってみると、ひとりの女子生徒が走ってきていた。

ーーやば……

 目が合ってしまった。女子生徒のえっという表情に、千葉はすぐに目をそらしたが、もう遅かった。

 気まずい。女子、特に初対面の女子にはどうしてもあがってしまう。小学生の時はそんなこともなかった気がするが、中学を卒業する時にはすっかり女子との接し方が分からなくなっていた。話したいが、何を話せばいいか分からない。そもそも相手のどこを見て話せばいいかが分からない。おそらく目が正しいのだろうが、相手が自分を見ていると思うと、思わず目をそらしてしまう。

 千葉は早くその場から去りたがったが、直立不動でロッカーを見つめたまま、緊張して動くことができなかった。ちょっと離れたところで、靴を履き替える音と一緒に、自分の心臓の音まで聞こえてきた。

 とても長い時間に感じたが、実際は一分もかかっていないに違いない。上履きに履き替えた女子生徒は、シャンプーのいい香りだけを残して、来た時と同じように黒いセーラー服のスカートを宙に舞わせながら走り去っていった。

ーーかわいい、そして意外と背が高い……

 すらりと百七十は軽くありそうだ。

 だが、それ以上にかわいかった。一瞬しか見られなかったが、しっかりと目に焼きついていた。モデルのような小さな顔に、整ったパーツがバランス良く配置されていて、ついこの間まで中学生だったとは思えない、凛とした大人っぽさをしているとでもいえばいいか。

 でも一方で、大きく澄んだ瞳と、黒く艶やかな長髪をシンプルに後ろで束ねている姿からは、まだ垢抜けない無邪気なかわいさという表現も当てはまりそうだ。

ーー同じクラスになったらいいな

 千葉は思ったが、すぐに女子に対してのマイナス思考がそれを打ち消してしまった。同じクラスになったところで、どうせなにも起きないに決まっている。女子や恋愛に興味はあるが、奥手な性格が足を引っ張ってしまうのだ。

 中学時代、千葉はバスケが上手いおかげで、他校の女子かなりの数のラブレターをもらうことができた。

 しかしそれが恋愛となるとさっぱりだった。恋愛において、バスケの上手さはきかっけ作りには貢献してくるかもしれないが、奥手をカバーしてその後の恋愛を保証するだけの効果はない。ラブレターをもらうたびに、周りはうらやましがりはやし立てるが、毎回少しのやりとりを重ねただけで相手が素っ気なくなり、そのまま自然消滅するのだ。いつしか千葉は、これはラブレターがまったくないことよりもきついんじゃないかとさえ思うようになっていた。最初はワクワクしながら開いていた封も、最終的は開くことができなくなってしまった。

ーーそもそも、あれだけかわいい子だったら、彼氏いるだろうし。

 そんなネガティブな目で女子生徒の後ろ姿を見送っていると、心底残念な、見たくなかった光景が、千葉の目に入ってきた。

「あれかよ……」

 小走りしていたその可憐な女子生徒が、さっきの大男に追いつき、親しげにその背中を叩いた。二人はそのまま並んで廊下を曲がって行った。


「もうっ、なんで先行くの! 待っててって言ったでしょ?」

 双子の姉であるの香織(かおり)の、お世辞にも恐いとは言えないしかめ面に、高岩(たかいわ)(かおる)は戸惑った。たたでさえ見知らぬ人間ばかりで緊張するのに、女性と一緒、しかもその姉が少々騒いでいる状況は、恥ずかしくてたまらない。

「すまん……」

 とりあえず謝ってはみたものの、おそらくあまり効果はないだろう。

「すまんじゃないわよ、すんごい走ったんだからあ」

 やはり。姉も自分同様に人見知りで目立つことが苦手なはずなのに、どうも家族である自分がいると、それを忘れてしまうらしい。歳が違わないのに、香織は昔から、姉として弟の面倒をしっかり見るという意識を一貫して持ち続けている。五歳や六歳の時ならまだしも、この先もずっとこうだと思うと本当に厄介だ。



         * * *



ーーあれ? どこかで……

 入学式が終わりにさしかかった頃、片付けの手伝いに駆り出されていた、バスケ部二年の(きし)大介(だいすけ)は、かわいい子でもいないかとぼんやりと体育館を見回していた。

「ん?」

 自分の予想に反して、ひとりの男子生徒に目が留まった。放送室の窓からじっと見下ろし、岸は自らの記憶をたどる。あと少しのところまで出てきているもどかしさを数十秒ほど味わい、はっとした。雑誌だ!

 思い出すやいなや、いてもたってもいられなくなった。手伝いどころじゃない。岸はすぐさま立ち上がり、周りのどうしたという問いかけにろくな返事もせず、放送室を飛び出した。一秒でも早く報告しなくては。



「ああ、せっかく授業も部活も休みだっていうのになあ。こんな日に部活勧誘するはめになるとは。新学期早々ついてないっすよ」

 後輩である戸田(とだ)圭一(けいいち)の言葉に、もう何度目だろう、バスケ部マネージャーの山原(やまはら)美夏(みか)は大きく息をついた。新入生勧誘のために部室に集合してからの二十分間、ずっとこんな調子で愚痴をこぼし続けている戸田には、さすがに我慢ならなくなった。

「いつまでもぐちぐちとうるさいわねえ。ただでさえ、うちは帰宅部率が高いっていうのに、そんなんじゃ十人なんて集められないわよ!」

 戸田は少し驚いたようだったが、普段から慣れてしまっているため、本気とも演技ともとれるような恐怖を示しながら反論してきた。

「なあに、バスケ部なら、なんだかんだいっても十人くらいは入るっしょ。大丈夫っすよ」

 戸田の、内容も言い方もゆるい発言に、山原の怒りがさらにこみあげてくる。

「なんていうやる気のなさ…………いい? 今年は変革の年にするの! 知ってる? 今度、飯田(いいだ)先生の代わりに来た先生、バスケが強い大学でベンチ入りしてたんだってよ?」

「はあ……いや、知りませんでしたけど、それがどうしたんですか?」

「なに言ってんの!? 大学バスケの第一線にいた人に指導してもらえば、うちだって、きっと万年弱小から抜け出せる! だから、今年は勧誘から心を入れ替えて臨めって言うのよ!」

「監督が代わったくらいで強くなるもんすかねえ」

 あまりの伝わらなさに、山原は怒りを通り越して悲しくなった。仮にもうちのエースだというのに。

「ああ、スタメンがこんな調子じゃあ……。また初戦敗退なんて、絶対許さないんだから。てゆうか、あんたも雑誌ばかり見てないで、なにか言ってよ。あんたが一番しっかりしなくちゃいけないんでしょ?」

「ん……ああ、勧誘はちゃんとやるよ。それよりさあ、去年の全中で優勝したチームの中から、その大会の最優秀選手が出たんだけどさ、そいつ、バスケの推薦蹴ったんだってさ」

 机の上にあぐらをかき、バスケ雑誌を読んでいた良野(よしの)拓真(たくま)が、とっておきのネタを提供したぞといわんばかりに顔を上げた。

「はい? それって勧誘より大事なこと?」

 バスケ部部長の良野はどこか抜けている。別に頭が悪いわけでも、いわゆる天然というやつでもないが、まっすぐすぎる。ゆえに周り、特に山原との温度差が多々生じてしまう。反論ならある程度は覚悟していたが、肯定もそこそこに突拍子もないことを言うのは想定していなかった。

 いったいなにがおかしいというのか、良野はまるで手品のタネを明かす子供のように、にやにやしながら続けた。

「まあ、最後まで聞けって。それでその彼が進学したのが、なんと都立高校なんだってさ!」

 どうだと言わんばかりの良野であったが、タネを明かされても、山原にはなにがすごいのかまったくわからなかった。戸田も同じようだ、きょとんとしている。

「へえ、弱小校を全国へってやつですかねえ? かっこつけやがって。どこかは書いてないんですか?」

「うん、書いてないなあ。でも、うちに来てくれれば、相当な戦力アップになるだろうに。なんせ全中最優秀だもんな」

ーーそういうことか。このバカ……おめでたいにもほどがあるだろ。

山原は心の中で毒づき、諭すような口調で言った。

「いい、良野? トップの部類には入らなくても、一応、うちは進学校と言われているのよ? 全国で最優秀とるようなバスケバカが、うちに合格するだけの学力を持ってると思う?」

「そんなことわかんないだろ? 万が一ってこともある。いや、そんなこともないな。せいぜい百が一ぐらいのもんだろう、ははは」

「そうっすよー、うちなんて、倍率高くないから、入れる可能性ありますよ。もしかしたら今年は全入かも」

 最悪だ。戸田がのっかりだした。

「いいねえ、それあるよ!」

 良野が大きく手を叩いた。

「都内に公立が何校あると思ってんのよ。はあ、まじめに勧誘のことを考えているのはわたしだけな……」

 突然、荒々しく部室の扉が開かれた。

「ん?」

「おわっ」

「な、なによ?」

 ドアが叩きつけられる激しい音とともに、同じバスケ部の岸が飛び込んできた。そしてしゃべれるだけの呼吸を整えると、ぎこちなく話しだした。

「ぜ、ぜ、ぜ、全中の…………最優秀選手がいた! きょ、去年の!」

 一瞬の静寂。次の瞬間、良野がほらあと騒ぎだし、戸田もマジでと声を上げる。

「見間違いでしょ?」

 ようやく出た山原の言葉に、岸が首と手をこれでもかと使って否定する。

「いえいえ、ありゃ絶対間違いないです! でかかったし、顔だって……って、せ、先輩?」

 話の途中で良野が部室を飛び出した。それに戸田が続く。ええい、こうなったらしかたない。

「ちょ、ちょっと! 待って下さいよ!」

 なんとも表現しがたい複雑な気持ちのまま、呼び止める岸を無視して、山原はふたりの後を追った。



 クラスの集合写真を撮影していた千葉は、そこはかとない居心地の悪さを感じていた。

ーーよりによって、こいつと同じクラスになるとは……。

 千葉は、険しい顔で前方のカメラをにらんでいる高岩を横目でちらりと見た。

 彼の存在は明らかに際立っていた。入学式の最中は、ひとりだけまるまる頭ひとつ飛び出し、周りの生徒はおろか、教師の何人かまでもが、彼の姿をクスクスと好奇の目で眺めていた。

 今も今で、クラスごとの集合写真の撮影場所へ続々とやってくる新入生の注目は、なによりもまず高岩に集まる。しかも厄介極まりないことに、観衆は式の時とは違い、遠慮なく感想を口にする。

 その様々な感想の中に、隣の自分もセットで括られているものもあることが、千葉の気分をいっそう悪くさせていた。

 撮影が終わるとすぐに、千葉は高岩から離れた。そして担任の短い話が終わると、誰よりも早くその場を立ち去った。

 


「ふう……」

 クラスから解放された高岩は、撮影場所の一階広場から少しはずれたところに移動していた。

 緊張した。額をぬぐったハンカチが汗でほんのり湿っている。一日中気を張っていたために肩、首もすっかり凝り固まってしまった。

ーーこんな状態ではいいパフォーマンスなど発揮できるわけがない。少しでもコンディションを上げねば。

 人目を避けストレッチを五分ほどすると、体がだいぶ軽くなった。

「ふむ、いい感じだ」

 コンディションが整うと、自然と顔がほころぶ。気持ちも高まってきた。高岩は目的の場所へと歩き始めた。



 体育館が空振りに終わったバスケ部の四人が玄関の方へまわると、そこはすでに下校する新入生を狙う様々な部活で賑わっていた。

「こりゃあ、二、三クラスぐらい出てきちゃってんじゃないすか?」

「というか、うち、完全に出遅れたわね」

 生徒の入部率が低い中、限られた人材を少しでも多く自らの部に引き入れようと、他の部が勧誘に精を出している光景に、山原はいらだちをおぼえた。

 そんな山原の気配を察したのか、戸田と岸のふたりの後輩がゆっくりと距離を取り始めた。マイペースな良野だけが、山原のいらだちに気がつかず、隣で幼い子供のように目を輝かせながらきょろきょろしている。

「まあ、別に少しくらい遅れたって平気だろ。とりあえず門まで行ってみようぜ。もう、お目当ての子がどっかで引っかかってるかもしれないしな。岸、行くぞ」

「あっ、は、はいっ」

 避難していた岸が慌てて良野の後に続き、戸田もしれっとそれに加わった。

 ひとり残される形となった山原は、完全に毒気を抜かれてしまい言葉に詰まったが、それでもなんとか一言だけ、三人の背中にぶつけることができた。

「勧誘しながらよ!」


「いないみたいですね……」

 校門に着くと、岸はこぼした。

 はるか後方では、全国優勝の一年を探すことしか頭にない三人とは対照的に、山原がひとり熱心にビラを配りながら勧誘を行っていた。

「悪いことしてるかなあ、俺達」

 健気に頑張る山原の姿を見て、ようやく罪悪感が芽生えたのか、良野は気まずそうな顔を見せた。

「はい……」

「そうすっね」

 岸と同じく答えた戸田も、申し訳なさそうな表情を浮かべている。

「あいかわらず頑張り屋っすよね、山原さん。ちょっと熱量多いですけど」

 戸田が校門にもたれながらしみじみと言った。

 岸も同感だった。確かに口うるさいところがあるが、それは熱心さからくるもので、働きや部員達の面倒見は良い。簡単に言えば、しっかりとしたいいマネージャーなのだ。

「あいつはまじめで責任感が強いからなあ。それにバスケのことが本当に好きだし。…………手伝いに行くか」

「あ……えっと、俺、行ってきますよ! ふたりはここでその一年を見張ってて下さい!」

 言い出した戸田が、返答も聞かずに駆け出した。

 戸田の突発的な行動に、良野がきょとんとした。

「どうしたんだ? 急に……」

 理由を知っている岸は、小さく笑った。

「ふたりだけでやりたかったんですよ、きっと。なんだかんだいって、あいつ、山原さんのこと気になってるみたいですし」

「え!? そうなの?」

 良野が目を丸くした。言った甲斐が実感できるいい反応だ。

「本人は否定しますけどね。でも、言葉の端々からそんなようなものが伝わってくるんですよ、くくく」

「へえ、そいつは全然気づかなかったなあ! ほお、そうかあ」

 変に感心しながら戸田を眺める良野が、腕を組んだままうなずいた。

「戸田とはいろんなことを話しますから。でも、ま、このままなにもなしで終わるんじゃないですかね。本人は認めないし、山原さんは戸田に気があるとは思えないし」

「さあ、そりゃわかんないぞお。今度、山原に聞いてみるか」

 良野の目が新たな輝きを帯びた。と、同時に、岸の後悔が猛烈な勢いで膨れあがった。

「いや! だめです、だめです! やめて下さい! それでふたりがぎくしゃくしたら、俺、戸田に殺されます!」

「ははは、大げさだなあ、心配しすぎだよ」

 いまひとつ事の重大さが伝わってないような良野の物言いに、岸の危機感が一気に増大した。

「いや! マジで勘弁して下さい! 今のはここだけの話ということで!」

「ははは、わかったよ、落ち着けって。まあ、じゃあ話を戻そう。岸が見た雑誌ってこれだろ?」

 良野は丸めて持っていた雑誌を見せた。高校バスケの月刊誌「Monthly Basketball」、通称マンバスだ。

「あ、そうです、これですよ!」

 岸は額の冷や汗を腕でふきながらうなずくと、良野の口角が上がった。

「やっぱりな、てことは……」

 そう言って良野は見開きのページを開いた。去年の全中優勝に大きく貢献し、全国のバスケ強豪校からいくつもスカウトの声がかかったにもかかわらず、それらをすべて断り、なんのゆかりもない都立高校に、一般入試を受けて進学した選手のことを紹介しているページだ。

 そこには、二ページの上四分の三に、いくつかのプレイしている写真と名前、身長、体重、ポジション、プレイスタイルなどの簡単な紹介、そして下四分の一には、左右のページを通じて文章――いかに彼のプレイが素晴らしいか。推薦を蹴ったことがどれだけ意外だったか――が記されていた。

「中三で百八十五ってなあ、ははは! これだよな?」

「そうです! 千葉隼人! こいつです!」

 そう、まさにこの中学バスケの大スターが、この学校にいるのだ。岸が興奮しながら相づちを打つと、良野は満足そうな笑みを浮かべて記事を見返した。

「最優秀と同時に大会の得点王。すっげえなあ、一試合平均三十九得点だってさ! 決勝でも四十三点挙げている。とてつもねえよなあ!」

「信じられないですよね!? こんなすごい人がうちに来たなんて。最初気づいた時、ちひりそうになりましたよ」

「ああ、わかるよ。そりゃあ驚くよ。ちびったとしても不思議じゃない」


「すごい……信じられない」

 勧誘を終え、良野と岸のところに戻ってきた山原は、記事を食い入るよう見つめた。勧誘をサボったことに対する説教はすっかり忘れてしまっていた。

 全国大会でエースと言われるようなプレイヤーは、必ずといっていいほど推薦を受け強豪校に行く。だからか、岸が確信を持っていると言っても、まだ完全には信じられなかった。

 戸田も同じように感じているに違いない。いつもの軽口も叩かず、記事をまじまじと見つめている。

「はあ、こいつですか。いやあ、まあ確かにすごいっすねえ」

 ややあって、戸田がとぼけたような言い方で感想を述べた。山原にはそれがびびった証拠であることを知っていた。

「まあじゃないわよ。今年の高一で一番すごい選手ってことじゃない」

 少し強めに言うと、戸田の顔が少しだけ引きつった。

「いやいや、一概にそうとは言えないっすよ。それに中学ですごかったとはいえ、すぐには高校バスケにアジャストできないでしょうし」

 一年前、中学時代にエースとしてチームを都大会まで導いた戸田は、自信満々にバスケ部に入部してきた。そしてその強気な言動と、他の部員を手玉にとるプレイに、弱小バスケ部は大いに期待し、もてはやした。

 しかし、それは井の中の蛙に過ぎなかった。

 戸田がスタメンで出た最初の練習試合、戸田とバスケ部はそのことを痛感させられた。相手がたいした強豪校ではなかったというのに、戸田はまったくといってよいほど見せ場を作ることができなかったのだ。

 そしてその試合ですっかりプライドを傷つけられた戸田は、それ以後どこか斜に構えるようになり、練習も必死に取り組もうとはしなくなった。ただ、それでもエースでいられる成条バスケ部のレベルのため、先輩や顧問も彼には強く物を言えないでいた。

 ただひとり、山原だけが、その態度を改めさせようと注意するのだが、残念ながらその効果はほとんどない。

「あなたとは違うでしょ! 高一からスタメンで全国大会に出てる子は、毎年何人もいるわよ!」

 山原の声が荒くなった。今戸田に必要なことは、その変に高いプライドと、逃げの姿勢を粉々に打ち砕き、バスケと真摯に向き合い、死にものぐるいで練習することだ。

「なっ」戸田が一瞬言葉を失った。「そんなあ、新チームのエースに向かってそんなことを言うなんて……」

「ふん、新チームのエースの座も返上する必要がありそうね」

 山原がのぞきこむように言うと、戸田の顔が赤くなった。

「い、いや、負けないっすよ! 確かに中学時代の俺なら敵わないかもしれないけど、この高校での一年の差がありますから! 負ける気がしませんよ!」

 それが口だけにならなければいいのだが、戸田の性格からすると信用はできない。現に山原の見立てでは、戸田はたいして進歩していない。思いきりガツンといってやりたいが、戸田はプライドが高いくせに打たれ弱いから対応に困る。以前山原がガツンとやった時は、すねて十日近くも部活に来なかったくらいだ。

「ほお、頼もしいな。山原、新チームには強力な二枚看板ができるぞ」

 良野は戸田の言葉を真に受けたようだ、憎たらしいほど素直な笑顔を浮かべた。

「そうね、二枚なればいいけど」

 山原は皮肉っぽく言った。

「全中の最優秀選手相手に大きく出たねえ、戸田」

 岸が面白そうに調子を合わせた。

「はっ、上等だよ!」

 戸田は必死に虚勢を張っていたが、山原は放っておくことにした。それより気になることがある。

「ところで、その噂の彼はいたの? わたしが勧誘した中にはいなかったけど……」



「あの感じ、山原さん、先輩達が見逃したと思ってるんじゃないですかね?」

 そのまま帰った山原と別れて、残りの三人で部室まで戻ってくると、戸田は言ってみた。

「なあに、証拠はないさ。まあそれに、岸が見間違えてさえいなければ、黙っていても入部してくるだろ」

 良野が平然と言い放った。

「狡猾かつポジティブっすね」

「でも」岸があれっという顔をした。「推薦蹴ってうちに来たくらいだから、高校じゃもうバスケをやるつもりがない、なんてことありますかね?」

「え?」

「あー、言われてみれば」

 良野は意表をつかれたようだが、戸田はあまり意外な感じがしていなかった。確かに全国最優秀選手になるほどの人間が高校でもバスケをするのなら、西条のような弱小には来ず、どこぞの強豪校にでも行くはずだ。

「優勝して燃え尽きたのかもな。あるいは相手になる奴がいなくて飽きたとか? うわあ、嫌みな奴」

 戸田は自分の想像に思わず自分で感想を言ってしまった。マンガの世界ならありそうだが、現実にそんな奴がいたら嫌み以外のなにものでもない。

「んー、あれじゃないか? 弱小を全国へ!」

 良野はこともなげに言った。

 戸田は小さくため息をついた。

「それ、さっき俺が言ったやつっすよ……。それにしても、ひとりでできることなんてたかが知れてますよ」

 良野はやれやれといった感じで首を振った。

「戸田あ、おまえはネガティブだなあ」

ーーいやいや、やれやれはあんたですよ。ん?

「ところで、ふたりしてなんで着替えてんですか?」

「なんでって……そりゃあ、せっかく来たんだから、ちょっと遊んでいこうかなって。なあ?」

 良野に同意を求められた岸が、当然といった顔でうなずいた。

「そうそう、今日、全部活休みだし。自由に体育館使えるチャンスじゃん」

「え!? あー、それ考えてなかったよー。 ああ、悔しい! 俺、今日なにも持ってきてないや」

「なあに、その格好でやればいいじゃん。どうせ遊びなんだし」

 ベンチに浅く腰かけ天井を仰ぐ戸田に、バスケットパンツにTシャツ、バッシュも履き、自らはまさに部活の格好へと変身した良野が、憎たらしいほどの笑顔で提案した。

「こんな滑る靴じゃあなあ、せめてバッシュくらいは……」

 戸田は上履き代わりのスニーカーを滑らせながら、ぶつぶつと文句を垂れる。

「だったら裸足になればいいじゃん。グリップ最高に効くよ?」

 岸がにやりと笑いやがる。意外にも裸足はバスケに向いている。軽くて、ピタリと止まる裸足は、スニーカーなんかよりもはるかに高いパフォーマンス発揮することができる。ただし、致命的な副作用がある。

 戸田は叫んだ。

「最高にひでえマメもできるけどな!」



          * * *



「おい!」

「ん? なんだ、おまえか」

 成条高校に通う生徒が通学に使用する駅のひとつ。そこの改札を通り過ぎた千葉は、強く呼び止められて振り向いた。

 同じ中学校だった三島紗耶香だった。

 千葉は久しぶりに見た中学の制服に、ちょっとだけ懐かしさを感じた。気の強さを感じられるまなざしと、百六十足らずのさして大きくはない身体から発せられる威圧感も。

「なんだって、なによ」

 三島の目つきがさらに険しくなる。しかし、もはや小学校から見慣れていた千葉は涼しい顔で答える。

「いやいや、別に。ん? あれ、おまえ髪染めた?」

 卒業式では真っ黒だった三島の髪が、ほのかに茶色くなっていた。三島の顔に、意外だというような表情が浮かんだ。

「あ、わかるの? 鈍い千葉にしては上出来じゃん」

 三島がふっと笑い、髪を軽く振って見せた。マッシュルームのような髪が広がり、空中を泳ぐ。

「鈍いってなんだよ?」

 千葉が三島を軽く睨む。

「いいじゃない、ほんとのことなんだから。それに、あんたこそ髪伸ばしてなに色気づいてんのよ? 中途半端すぎて全然似合ってないわよ? まだ前の坊主の方がいくらかマシ」

「うるせえ、ほっとけよ」

ーーたくっ、大人しくしてればかわいいものを……。

 千葉自身決して口には出さないが、千葉は三島が美人の部類に入ると思っていた。小学校時代から同じミニバスのチームに所属し、一緒にいる時間が長かった千葉は、かわいくて、何でも言い合える三島と喋ることが楽しかった。それはもしかしたら、好きという感情だったのかもしれない。

 だが中学生になる頃には、あまりに緊張感が薄れ、うるさい妹ぐらいにしか思えなくなっていた。(実際、千葉には(あかね)という名の一学年下のうるさい妹がいる。しかも、茜もバスケをやり、三島を姉のように慕っている)

「ほら、黙ってないで、なにか言いなさいよ」

 三島の声が大きくなる。こういう時は、下手になにかを言い返しても状況は好転しない。早く話を先に進めて、さっさと終わらせるに限る。

「……で、なんか用なのか?」

「なによ、その言い方。せっかく同窓が声かけてやったんだから、もっと歓迎してもいいんじゃない?」

 確かに、〝絶不調〟のまま引退した後、千葉はバスケ部にまったく顔を出さなくなった。だから引退後も部活に参加していた三島とも自然と疎遠になっていた。三島が成条に進学すると知ったのも入試で三島を見つけたからだった。

「じゃあ、嫌みなんか言うな」

 三島が少しブスッとした。痛いところをつかれた時にする顔だ。まあ、さほどダメージにはなっていないだろうが。

「ふん、まあいいわ。ほら、どうせあんたもらってないでしょう」

 千葉は差し出された黄色の紙に目を落とした。バスケ部のビラだった。

「四月の予定や、曜日ごとの練習場所も書いてあるから持っときなさい」

「おい、ちょっと待てよ。誰がバスケ部に入ると?」

 千葉は返そうとしたが、三島が腕を組んだままそれを無視する。

「言おうが、言うまいがやりなさいよ。あんたからバスケを取ったらなにが残るっていうの?」

「な……」

 言葉を詰まる千葉に、三島は強い口調で続ける。

「たった一回負けたくらいで逃げるなんて、私は認めないからな」



          * * *



「うおっ、でけえ!」

 体育館に入った戸田は、そこにひとり立っていた男の大きさに驚いた。

 腕を組み、足を肩幅に開き仁王立ちしていた大男は、戸田達が体育館に近づく間に姿勢を変え、今は上官を前にした軍人のように直立不動している。

 大男は良野と岸の足元を見て口を開いた。

「失礼ですが、バスケットボール部の方ですか?」

 軍人のような大男から出た言葉は、声といい、口調といい、その容姿のイメージそのままだった。

「あ、はい、そうですけど……」

 良野が一瞬迷った末に敬語で答えた。

 その言葉を聞いた大男は、すでに張っていた胸をさらに張った。

「申し遅れました! 自分は一年の高岩薫です! 中学でやっておりましたバスケットボールを高校でも続けたいと思っています! そこでさっそく、本日から練習に参加させていただこうと、ここで待っておりました!」

「ひっ――」

 体育館中の窓ガラスを割らんばかりの大声に、岸が悲鳴を上げた。戸田は反射的に耳をふさぎ、良野も耳こそふさがなかったが顔をしかめた。

「バカっ! 急に大声出すんじゃねえ! 俺らの鼓膜破るつもりか!?」

「お、おい……」

 戸田は思わず怒鳴ってしまったが、岸が心配そうな声を出したのを聞いてはっとした。一年だからといって、こんな強そうな相手に怒鳴って大丈夫だろうか? 相手の紅潮した顔に、戸田の体も一気に熱くなる。

「あ……す、す、すみません……すみませんでしたっ」

 高岩が深々と頭を下げた。その姿に戸田は心底ほっとする。

「おい、もういいよ……。頭上げろよ」

「あ……本当にすみませんでした。つい気持ちが入りすぎてしまって……」

 頭を上げた高岩の表情は険しかったが、怒鳴られたのがよほどこたえたんだろうか、汗が流れ落ち、口はきつく結ばれていて、目は怯えているようにすら見えた。ガタイの割に気は小さそうである。同じことを感じとったのか、良野は優しく声をかけた。

「気にしないでいいよ、彼、今のはツッコミだから。なあ、戸田?」

「え……? あ、まあ、半分は……」

 予期せぬ振りに、戸田は促されるままに同意してしまった。まあ、確かにここまで怯えた姿を見せられたら、もう怒りもなくたってしまったが。

「ほら! いやあ、声の大きさには驚いたけど、きみみたいな実直な人は大歓迎だよ。それに……」良野は一年の体を再確認するように一呼吸おいた。「相当期待が持てそうな体じゃないか!」

「そ、そうだよ! きみ、身長何センチあるの!?」

 すっかり一年への警戒心を解いた岸が質問をぶつけた。

「あ……百九十八センチです」

「百九十八かあ、数字を聞くとさらに高く感じるなあ!」と、良野。

「こりゃあ、橋さんのセンターの座は危ういですね!」と、岸。

 センターとは、基本的にはリング付近に陣取り、攻守の要となるポジションだ。特にディフェンス時には、敵のドライブ(リング方向へドリブルで切り込むプレイ)に対して、最後の砦として立ちはだかったり、最も重要な仕事であるディフェンスリバウンドを取ったりと、高さが必要不可欠である。高校生で百九十八センチなら、身長だけで言えば、強豪校のセンターに引けを取らない数字だ。

 しかし、それでも戸田は、自分は別として、一年坊主がいきなりポジションを奪取するのは認めたくなかった。

 その気持ちが口調にも出る。

「ふん、センターだからって、背が高けりゃいいってもんじゃねえだろう。おい、せっかくだが、今日は練習ないんだよ」

「っ! そうなんですか……」

 高岩は残念そうに目を伏せた。素直な反応に、戸田の気に入らないゲージが少し下がった。

「だが、ま、ちょうどこれから三人で軽くバスケしようとしてたとこだ。おまえも加われ」

「お、いいね! ちょうど二対二になるし」

 良野はすぐに賛成した。当然岸も反対しない。

 この急な誘いに、高岩のそれまでこわばっていた表情が一気に変わった。目が嬉しそうに輝いている。

「はい! ありがとうございます! よろしくお願いします!」

 高岩は再び頭を下げた。

「……硬えんだよ。良野君、チームはどうします?」

「そうだなあ、身長から、俺と高岩君、戸田と岸でいいんじゃないか?」

 良野の提案に全員が同意し、岸がボールを取りに行った。

 戸田はマッチアップすることとなった一年に一歩近づいた。

「おい、バスケは図体だけじゃないって教えてやる」

「はい! よろしくお願いします!」

 バスケットボールに限らず、広くスポーツの世界で使い古されてきた挑発に、素直に応えるやつがいるか? ほんとに変わったやつだ。



 ゲームは良野・高岩チームのオフェンスから始まった。

 右サイドの制限区域(リング下にある長方形のエリア)のミドルポストに立った高岩に、ディフェンスの戸田は、高岩の真横に体を接して立った。

ーー近くに立つと、マジででかく感じるなあ。

 百七十九センチの戸田と、高岩との身長差は十九センチ。さらにはがっちりとした体の高岩に対して、戸田の体格はごく標準的と、完全なミスマッチになっている。普通に考えれば、マッチアップをするのが無謀ともいえるほど圧倒的不利だ。

 だが、やりようはある。

 良野はトップ(リング正面のスリーポイントライン付近)の位置で、自分のマークマンである岸に、片手でボールを放って渡した。そして岸が、受け取ったボールを同じようにして良野に返す。ボールがライブ状態になる、ゲーム開始の合図だ。

 岸は腰を落としディフェンスの態勢を取った。

 高岩が素早くスライドステップし、右足を長方形の制限区域内へ入れてきた。同時に両手を大きく広げ、ボールマンである良野と正対するように、パス受け入れ態勢を取り始める。

「ぐっ……」

 高岩の尋常ではない圧力に、戸田は思わず声を漏らした。

ーーポジション取らせないようにしてるのに……。

 戸田は制限区域の内側から、高岩に覆いかぶさるように体を密着させ、右手を相手の体の前に出し、ポジションを取られないように粘ったみた。

 しかし高岩の、第一印象から予想できる以上の桁違いなパワーにあっけなく屈し、完全に自分の体の前に立たれてしまった。

ーーなんて力なんだよ! ほんとに高一かよ!?

 しかたない。戸田は一年の後ろで横を向き、左上腕を相手の背中に当て、それ以上リング方向に押し込まれないように必死に踏ん張った。

ーーだが、まあ……勝負はこれからだ……。

 すっかりポジションを取られてしまったが、ここまではまだ戸田の想定内だった。


ーーすごいな、完璧な面取り(制限区域付近でのポジション取り)だ。

 良野は高岩のポストアップに感嘆した。

 身長がないために、中高と一貫してガード(ボールを運び、攻撃の起点となるポジション)だった良野は、これまで何度も味方のセンターがポジション取りするのを見てきた。

 しかし練習も含め、そのどれをとってみても、今の高岩ほど見事にポジションを取っている例は皆無であった。広くスタンスを取り、ディフェンスをしっかりと背中で制し、大きく手を広げた姿からは、どんなパスでも通りそうな安心感をおぼえる。

 だから良野は、一回もドリブルをすることなく、高岩へパスを出した。


ーー来た!

 良野がボールを持った両手を頭上高く上げた。

 高岩へのパスだ!

 戸田は踏ん張っていた力を緩め、半歩だけ下がり、右側から高岩の前にまわり込もうとした。

 高岩にボールが入る瞬間こそが本当の勝負、すなわちインターセプト(敵のパスを奪うプレイ)のチャンスだ。が、

「げふっ……」

 戸田は低く鈍い音とともにはじき飛ばされ、そのあまりの衝撃に思わず声を出す。

 高岩は、背中の圧力が急に消えても焦ることはなかった。そして戸田の動きを背中で把握し、インターセプトを狙いに行く戸田の進行線上に体を入れてぶつけると、まるで何事もなかったかのように、それまで戸田がいた場所を占領してしまったのだ。

 そうして完全にフリーとなった高岩へ、良野からのオーバーヘッドパスが届く。

 高岩はボールを受け、ドロップステップ、リングに近い左足をリング方向に大きく引きながら、両手で強烈なワンドリブルをして、リングの真下までターンした。

 そして短い雄叫びとともに高く飛び上がり、そのまま両手でド派手なダンクを炸裂させた。

 絶句。

 パスをした良野、良野をマークしていた岸、高岩にはじき飛ばされて尻餅をついていた戸田。弱小といえどもバスケ部の端くれだ。ダンク自体は映像で数え切れないほど見てきた。

 だが、自分達がこれまでに体験してきたバスケにおいては、まさに規格外ともいえるプレイ。それを目にした衝撃は大きかった。全員がまばたきを忘れ、口をポカンと開け、言葉を失ってしまった。


「あの、どうかされましたか?」

 自分でリングに叩き込んだボールを拾い、振り返った高岩は、先輩達の異変に気がついた。声をかけたが反応はない。

ーーファウルしてしまったか……!?

 しまった、久しぶりのバスケットボールで力が入りすぎたか? 額から嫌な汗が出始める。高岩は慌てて謝罪をしようとした。が、その時、

「どうかしたもなにも!」

「は……?」

 反射的にその声の主、同じチームだった良野に目を移すと、その満面の笑顔が目に飛び込んできた。

「すごいじゃないか! こんな近くでダンクを見たのは初めてだよ!」

「そうだよ! すごい! すごいとしか言えないよ!」

 岸も目を丸々させて声を上げた。あまりに賞賛され、高岩は顔が赤くなってしまう。

「あ、ありがとうございます……」

「いやあ、ダンクだけじゃなく、ポジション取りもステップも画になってたなあ! まるで強豪校のセンターを見ているようだったよ! なあ戸田?」

「……」

 高岩をマッチアップしていた戸田は、まだフリースローサークル付近で両足を投げ出して座っていた。他のふたりとは対照的に、しかめ面でずっと高岩を見ている。やはり怒っているのだろうか。

「おい、負けたからってすねるなよ。こんな素直でいい後輩なんだ、男らしく認めてやれよ」

 良野が面白そうに言う。

「…………わかりましたあ! 認めます! 驚きました! 悔しいけど、こいつはかなりのセンターですよ!」

 そう言って戸田は、コートに大の字になって寝た。高岩の顔がようやく緩んだ。

「ありがとうございます!」

「だから、声でけえっつうの!」

「あ……失礼しました……」

 高岩が頭を下げて謝罪すると、戸田は大げさに両手を広げた。

「バカだ、バカ!」

「まあまあ、いいじゃん。それにしても、今年のうちはすごいね。全中得点王にくわえて、こんなすごいセンターまで加入するなんて。次の大会は初勝利どころか、かなりのとこまで進めるんじゃないのかな?」

「え?」

 高岩は一瞬、岸の言ったことが理解できなかった。だが、聞き漏らすにはあまりに印象が大きい単語だった。確かに全中得点王と言った。

「そうだなあ、今年は相当期待できるな。わくわくする」

 立っている良野と岸が楽しそうに会話し始めた。高岩はいつもなら先輩の会話に割って入るようなまねはしない。だが、全中得点王という言葉に対する興味はどうしても抑えられない。

「あ……あの!」

 場の注目が一気に高岩に集まる。

「ん?」

「あ、すみません…………。あ、あの、全中得点王とは?」

 高岩の不安をよそに、良野達はまったく不快感を示さなかった。

「おお、すごいぜ? 去年全中を優勝したチームのメンバーが成条に入学したんだよ! しかも彼は、そのチームのエースで、大会の最優秀選手で、さらに得点王だっていうから驚きだよな!」

「! ……そ、そんな人がこの学校にいるのですか!?」

「そうだよ! きみといい、今年は一年の当たり年だな。そういえば、きみは中学どこだったの? きみみたいなセンターがいたら、チームもけっこう強かったんじゃないの?」

「あ、そうですねえ! きみなら推薦の話もあったでしょ? なんでうちみたいな学校に?」

 急に話題が自分のことになり、高岩は戸惑ったが、姿勢を正すと丁寧に質問に答え始めた。

「あ……はい、黒石市立巻田中学校出身です。推薦の話もありましたが、受けませんでした」

「黒石? 東京にそんな市あったっけ?」

 岸が首をかしげた。しまった、ここは東京だ。

「ばあか、ないよ。東京出身じゃないの、おまえ?」

 座っている戸田が会話に加わった。

「あ、はい、青森です。父の転勤でこの四月に東京に越してきました」

「へえ」

「なるほど、それで推薦受けなかったのか」

「……そうです、はい」

「ふーん、で、おまえの中学はどこまでいったの?」

 戸田が尋ねる。

「はい、最後の県大会で準優勝したのが最高です」

「準優勝!?」

「ひゅう」

「……俺のベスト十六より上じゃねえか」

「あ、いえ、すみません……」

「はは、謝ることないよ。彼は一年のきみ達に、エースの座を奪われるのが悔しいだけなんだよ」

「なっ、そんなことないっすよ!」

「いえ、そんな! 自分はそのようなことは決して……。チームのために自分のできることをやるだけです」

「おー」

 高岩は特別なことを言ったつもりはなかったが、良野と岸は大きな拍手を送る。

「聞いたか、戸田? この精神だよ! ほんときみは素晴らしいねえ」

「ちぇ……まあ、足引っぱるなよ……」

 高岩は頑張りますと力一杯応えたが、再び戸田にうるさいと言われてしまった。



         * * *



「よう、あにき! 高校どうだった?」

 夕方、千葉の妹である茜は、帰宅するなり、兄のの部屋へと駆け込んできた。

「……着替えくらいしてこいよ……いや、ノックしろよ……」

 ベッドに寝転びながらマンガを読んでいた千葉は、横目で妹を見て、またマンガに目を戻した。

「いいじゃん、気になってしょうがなかったんだもん。ね? ね? どうだった? 雰囲気とかさ」

 茜はかまわず中に入ってくると、そのまま床に座り込み、長話する気満々であることを示す。ここまできて無視したら大変だ。サイレンのような文句を延々と聞かされるはめになる。となると、あとはどれだけ早く終わらすかだ。千葉はベッドの上にあぐらをかき戦闘態勢を取った。

「どうって、入学式だけだぜ? 雰囲気もくそもないだろう?」

「えー、わかるでしょー。来年わたしが行く学校なんだから、ちゃんと教えてよ」

「は? おまえ、上に行かないの?」

 千葉兄妹の学校は都内のバスケットボール強豪私立高校の付属中学だった。当然、中等部もレベルが高く、部員の半数近くはそのまま高等部に進学し、中学時代と同じように全国制覇を目指して研鑽を積むのである。

「だって、あにきいないと張り合いないし」

「張り合わなくていいよ……。おまえ、女子じゃん。それにまだ一年あるんだし、なにも今急いで知ることはないんじゃねえの?」

 千葉は起き上がり、茜の横を通り過ぎた。追い返すことに頭を使うのがめんどうくさくなってしまった。

「あ、ちょっと! 部活は? どうしたの?」

「結局それか……」ため息が出た。「ああ、決めたよ」

「え! ほんと!?」

 顔だけ振り返ってみると、茜の顔から笑みがあふれていた。

「帰宅部だよ」

 千葉は、茜がなにかアクションを起こす前にドアを閉めた。


「メシは?」

 千葉がリビングへ逃げてくると、弟の嘉人(よしと)がテーブルで本を読んでいた。茜は大声で不満を口にしていたが、それをすぐ標的にぶつけるより先に、着替えを選択したようだ。

「おお、あにき。もう少しでできるって」

 嘉人がちらっと千葉を見て、すぐに本へと視線を戻した。

「そっか」

ーーまたバスケのハウツー本か……。

 三兄弟ともにバスケをやっているが、ハウツー本を熱心に読むのは嘉人くらいだった。千葉も過去に何冊か目を通したことがあったが、戦術ならまだしも、スキルは実際に体を動かして身につける方が性に合っていた。茜にいたっては完全実践主義で、おそらくそういった本を見たことすらないだろう。

「なに?」

 視線に気づいたようだ、嘉人は本を見たまま眉をひそめた。

「いや、別に。まあ、研究熱心だなって」

「だって上手くなりたいから。俺、あにきみたいに才能ねえし」

 なんとまあ、ぶっきらぼうに応えるもんだ。兄弟の中で一番おとなしく闘争心の欠ける嘉人は、練習熱心ではあるが、千葉が思うに、上達は三人の中で一番遅かった。

 それでも同学年の中ではエース格であるのだが、本人は全中最優秀選手の兄に対して、どうやら憧れると同時に、大きな劣等感も抱いているらしい。

「才能なんてねえよ、第一それ何冊目だ? 上達したいなら、身のある練習をし続けろ。茜を見てみろよ? 本読むくらいなら、家でもボール突くだろうよ」

 千葉は深刻にならないよう笑いながら言ってみた。が、嘉人の表情はまださえない。

「あねきは…………女だし……。それに身のある練習なら、あにき、俺の練習に付き合ってくれよ」

「俺は人にものを教えられるような器じゃないから」

「別に教えなくても、一対一の相手してくれるだけでもいいんだよ」

 嘉人が食い下がる。二学年下の嘉人が、中学で千葉達三年と部活をできたのはわずか四ヶ月だった。しかも二、三年メインの練習だ。一年の嘉人と三年が絡むことは意外なほど少なかった。

 それに部活以外でも、千葉は同レベルの同級生とのバスケにしか興味がなかった。

 だから嘉人は、兄と同じスポーツをしているにもかかわらず、その兄とバスケをした経験がほとんどなかった。

「うーん、おまえとの一対一かあ……」

「……なんだよ」

「燃えねえな」

 千葉はからかうように笑った。これで少しは反骨心が出ればいいのだが。

「ちえ、だったらほっといてくれよ」

 千葉の期待とは裏腹に、嘉人はただショックを受けただけのようだ。話は終わりだとばかりに、視線を再び本へと戻した。

ーー姉弟でこうも違うとは……。茜と嘉人は、足して二で割るくらいがちょうどいいんだろうな。


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